14:灰色の箱庭☆
前世の記憶を取り戻す前。
私は本当に、自分は世界で一番無価値な存在だと信じていた。
十七歳の私は、痩せ細った体をさらに小さく折り畳むようにして、広大な屋敷の片隅に佇んでいた。
アンブロシア公爵家。
両親を事故で亡くした私を引き取ってくれた、大叔父の家だ。
豪華絢爛な装飾も、磨き上げられた床も、私にとっては冷たい檻でしかなかった。
「チェリ」
背後から降ってきた声の冷たさに、肩が跳ねる。
振り返ると、アンブロシア公爵が立っていた。
白髪に刻まれた皺の一本一本までが威厳に満ちているが、私を見るその瞳だけは、氷河のように絶対零度だ。
「は、はい、大叔父様」
私は反射的に頭を垂れた。
「今日の魔力測定の結果だ」
公爵が投げ捨てるように差し出した一枚の紙。
そこに記された文字は、見飽きた絶望。
――測定不能。
それは、私の存在価値がゼロであることを証明する烙印。
公爵の深いため息が、ナイフのように胸を抉る。
「申し訳ございません……」
「申し訳ない、で済む問題ではない」
吐き捨てるような言葉。
「お前は、腐ってもアンブロシアの血縁であるローゼンフェルトの娘なのだぞ。それが魔力値皆無とは……一族の面汚しにも程がある」
私は唇を噛み締め、ただ沈黙を守るしかなかった。
何を言っても、言葉はすべて刃となって自分に返ってくることを知っていたから。
夕食の時間、私は長いテーブルの末席に座っていた。
そこは、家族の温かい団欒からは一番遠い場所。
向こう側では、従姉妹のロザリンドとカタリナが、銀のフォークを優雅に操りながら談笑している。
二人とも、優秀な魔力を持つ、公爵家の自慢の令嬢だ。
「ねえ、チェリ」
ロザリンドが、甘い毒を含んだ声で呼びかけてきた。
「今日も測定器、反応しなかったんですって?」
「……はい」
「あらあら、可哀想に。壊れているんじゃない? 貴女の頭の方が」
カタリナが、上品な手つきで口元を隠して笑う。
「やめてあげなさいお姉様。無能なのはチェリのせいじゃないわ。そういう血筋なだけよ」
「そうね。よくアンブロシア家の血を引いているなんて言えるわ。私なら恥ずかしくて死んでしまうけれど」
クスクスという嘲笑が、食器の触れ合う音に混じる。
私は皿の上の冷めたスープを見つめたまま、何も言い返せなかった。
反論する言葉なんて持っていなかった。
だって、彼女たちの言う通りだから。
魔力を持たない私は、この世界では欠陥品なのだから。
食事を終え、逃げるように厨房の片隅へ戻る廊下。
すれ違う使用人たちの視線もまた、私を傷つける針だった。
「あ、チェリ様……」
彼らは私を見ると、気まずそうに目を逸らす。
以前はもっと温かい視線があった。けれど、無能というレッテルが貼られてからは、私は腫れ物扱いだ。
「チェリ様の部屋の清掃、週一でいいって執事長が」
「ああ、公爵様が、あの子に割く人件費が惜しいって……」
「今は厨房の片隅で寝起きされてるぞ」
背後で交わされる囁き声。
私は耳を塞ぎたくなるのを堪え、足を速めた。
与えられた部屋は、屋根裏にある小部屋だった。
家具はすべて、誰かのお古か、壊れかけたものばかり。
そこさえも追い出され、厨房片隅にあるパントリーの隣の小さな空間で、今では寝起きしている。
軋むベッドに倒れ込むと、埃の匂いがした。
「私……生きてる意味、あるのかな」
天井の染みを見つめながら呟く。
誰にも期待されず、誰にも愛されず、ただ無能と罵られながら息をするだけの毎日。
涙すら枯れ果てた瞳は、乾いたままだった。
「チェリ様!」
窓の外から、しわがれた声がした。
驚いて顔を上げると、庭師のジョージが下から手を振っていた。
「ジョージおじいさん……」
私は窓を開けた。冷たい夜風が入ってくる。
「こんな時間に、どうしたの?」
「月下香が咲きましたよ。見に来ませんか?」
ジョージの誘いに、私は迷いながらも頷いた。
こっそりと裏庭へ降りる。
庭の隅、誰からも見向きもされない小さな花壇。
そこには、月の光を浴びて白く輝く花が咲き乱れていた。
「綺麗……」
「ええ。チェリ様が先月、種を蒔いた花ですよ」
ジョージは、花を見るような優しい目で私を見た。
「覚えていらっしゃいますか?」
「……はい」
土に触れている時だけは、自分が無能であることを忘れられた。
私が植えた種が、芽を出し、こんなにも美しい花を咲かせてくれた。
「チェリ様は、無能なんかじゃありませんよ」
ジョージの太く、土で汚れた手が、私の肩に置かれた。
「魔力がなくても、貴女には花を慈しむ優しい心がある。それは、どんな強大な魔法よりも尊いものです」
「でも……この家ではこの国では、魔力が全てだから」
「家なんて小さな箱庭です。世界はもっと広い」
ジョージは微笑んだ。
「貴女は、いつかきっと幸せになれます」
その言葉だけが、凍りついた私の心を、ほんの少しだけ溶かしてくれた。
涙が溢れた。温かい涙だった。
★
その僅かな希望すら、粉々に砕かれる日が来た。
公爵の執務室に呼び出された私を待っていたのは、見知らぬ美貌の青年だった。
豪奢な衣装。傲慢な瞳。
「チェリ、こちらはアロルド侯爵家の次男ロレンス様だ」
「ロレンス様……」
私は慌てて挨拶するために膝を折る。足が震えた。
青年は、私を品定めするように頭から爪先まで眺め、鼻で笑った。
「例の、ですか」
「魔力は皆無だが、血統は……」
公爵がどこか媚びるように説明するも、ロレンス様は不快そうに顔をしかめた。
「いや、やはり無理でしょう。父が許すはずもない。魔力無しの無能など」
吐き捨てられた言葉。
それは、私の存在の全否定だった。
「婚約の話はなかったことに」
「お、お待ちを!」
青年は振り返りもせず部屋を出て行った。
残されたのは、静寂と、公爵の煮えたぎるような怒りだけ。
公爵が、私を睨みつけた。
「……申し訳ございません」
「謝るな! その顔を見るだけで虫唾が走る!」
公爵は、汚いものを見る目で私を見下ろした。
「もういい。お前を置いておくメリットは消滅した。追放だ」
「え……」
「流刑地へ送る。明日、夜明けとともに出発しろ」
私は、反論することさえできなかった。
最後の夜。
私は小さな鞄に、数少ない自分の持ち物を詰めていた。
色褪せたドレス。亡き父母のロケット。それだけ。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
ドアを開けると、ジョージが立っていた。
「ジョージおじいさん……」
「聞きました……お発ちになるそうですね」
「……はい」
ジョージは悲しげに眉を下げ、小さな布袋を差し出した。
「これを」
「これは?」
「花の種です。あの月下香の」
私はその袋を受け取った。微かに、土の香りがした。
「どこへ行っても、花を育ててください。花は裏切りません。貴女の心を、きっと守ってくれます」
「ジョージおじいさん……ありがとう」
私は袋を胸に抱きしめた。
「チェリ様、どうか忘れないでください」
ジョージは、真剣な眼差しで私を見つめた。
「貴女は無能なんかじゃない。いつか、貴女だけの花を咲かせる日が必ず来ます」
「……はい」
私は頷いた。
けれど、心の中では信じきれなかった。
枯れ果てた私に、花なんて咲かせられるのだろうか、と。
★
見送りに出てきたのは、使用人たちだけ。大叔父も、従姉妹たちも、姿すら見せなかった。
馬車が動き出す。遠ざかる屋敷。私の青春のすべてが詰まった、灰色の箱庭。
辛かった。苦しかった。でも、ここが私のすべてだった。
私、このまま誰にも知られず、死んでいくのかな。
誰にも必要とされずに、たった一人で。
荒れ狂う波を越え、船はとある島へと到着した。
「さらばだ、無能女」
御者の兵士が嘲笑う。
「余生、精々楽しめよ。降りろ!」
兵士に背中を突き飛ばされ、私は岩場に無様に転がった。
高笑いと共に、船は離れていく。
私は岩場に座り込んだまま、ただ呆然と海を見ていた。
寒さと空腹、そして絶望。
私の人生は、ここで終わるのだ。
十七年間の、意味のない人生が。
「ここで……死ぬのね」
力が抜け、私はごつごつした岩に倒れ込んだ。
ゴッ!
鈍い音がして、額に激痛が走った。
――痛い。
視界が明滅する。
その時だった。
頭蓋の奥で、何かがパチンと弾けた音がしたのは。
……あれ?
まるで堰を切ったように、奔流のような記憶が溢れ出してきた。
見たことのない魔法陣。ひれ伏す人間、そして魔族たち。
世界を震撼させた、絶対的な力の記憶。
そして、最後に見た勇者の顔。
痛みは、もはや遠い。
代わりに湧き上がってきたのは、腹の底から煮えたぎるような、懐かしい全能感。
倒れていた少女は、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳から、怯えと絶望の色が消え失せている。
代わりに宿ったのは、深淵のような底知れぬ光。
「私は……」
口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
それはかつて、世界を恐怖させた魔王の笑み。
「ふふ……あの石頭の公爵め。私の魔力が測定不能だったのは、測定器の限界を超えていたからだとも気づかずに。見てなさい。私は、絶対に生き延びてみせる。そして、今度こそ幸せになってみせるわ。美味しいものを食べて、昼まで寝て、スローライフを謳歌してやる!」
指を鳴らす。
その一瞬で、周囲の大気中の魔素が渦を巻き、私に従うように集まった。
三百年の眠りから目覚めた、本物の魔力が。
「まずは、この島をリゾート地……じゃなくて、脱出するわよ」
風が吹き荒れる。
無能令嬢の物語は、ここで終わった。
そして今、痛快?な逆転劇が幕を開ける。
★
これが、私の物語のプロローグ。
現在の私は、薬屋のカウンターでのんびりと頬杖をつきながら、店番だ。
あの絶望があったからこそ、今の平凡な日常が、宝石のように輝いて見えるのかもしれない。
「チェリさん、どうしたんですか?」
アレクシオンが、心配そうに顔を覗き込んできた。
「難しい顔をして」
「ううん、何でもないわ」
私は彼に向かって、心からの笑顔を向けた。
「ただ、昔の自分に教えてあげたいな、って思ってたの」
「何を?」
「秘密」
私は、ポケットの中の小さな袋に触れた。
ジョージがくれた花の種。
呪告館の庭に蒔いたそれは、ふさふさと緑の葉を広げている。
ありがとう、過去の私。
耐えてくれて。生きていてくれて。
そのおかげで、今の私がいる。
それでも、思い出すと胸が少しだけ痛む。
でも――もう、私は折れない。




