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“Variant”   作者: 犬野ミケ
spring 三章
8/22

二話

 朝起きたら、黒く湿った鼻先が目の前にあった。ルネは寝袋の中で睡眠をとっていたのだが「フガフガ」という音が耳元で聞こえるし、頬に細い何かが当たっていてくすぐったかった為、目覚めてしまったのだ。目を開くとそこにあったのはイナバの巨大な顔だった。いくら可愛らしい顔立ちをしていてもあまりに巨大すぎると何かの悪夢のように感じる。頬に当たっていたのは、イナバの口の辺りに生えている髭だった。

 ルネは寝起きでだるい体をそっと起こす。イナバが少しだけ身を引いたので、安心させるように優しく首をかいてやると、巨大な兎は気持ち良さそうに目を細めた。イナバが機嫌良さそうにしているのに安堵しつつ、ルネは手の甲で目を強く擦って眠気を掃う。そして、まわりが静まり返っているのに気付いた。

 イナバもいるし馬車も全てあるため置いて行かれたという事はないだろうが、やはり少々不安になる。ルネの世話係であるはずのフィルさえも見当たらない。時折名も知らぬ鳥の鳴き声が聞こえてくるだけだった。


「みんなは何処へ行ったの?」


 なんとなくルネはイナバに問いかけてみるが、兎に理解できるはずもなく、色素が抜けた赤い瞳で見つめてくるのみ。それはそだと溜息を吐き、ルネはイナバの首を支えにして立ち上がる。耳を澄ませながら朝の森を歩くのは清々しい気分だった。イナバも甘えるように、ルネの腕を胴の間に頭を差し入れながらついてくる。

 暫く歩くと、数分もしないうちに済んだ水の流れる川に辿り付いた。昨晩、ここから水を汲んできたため、覚えている。深さはそれ程ないが、幅が広い川である。イナバが口をつけて水の飲み始めたため、ルネも気分を一新させようと冷たい川の水で顔を洗う。その飛沫がイナバの方に飛んだのか、兎は勢い良く顔を左右に振って鼻先の水を飛ばす。その様子がおかしくて、ルネは声を上げて笑った。

 のだが、朝にはふさわしくない破砕音が聞こえ、思わず対岸を見る。イナバが鼻を鳴らし、姿勢を低くする。イナバの喉の奥から出る雷のような音は、草食動物、ましてや元は小動物とは思えない唸り声だった。


「何だろ、バリアントじゃないと思うけど」


 ルネもイナバに習って姿勢を低くし腰のナイフに手を伸ばして、音源に全神経を集中させる。

 が、その緊張したルネの肩に置かれる手があった。

 ルネは驚き肩を跳ね上げたが、背後から聞こえてきた声にほっと息を吐く。


「身構える必要は無いあるよ」

「どうせまたアイツらある」


 どこかた降ってきたのか、現れたのはヴォットとスピキオだった。ルネの肩に手を置いているのはヴォットの方で、スピキオはイナバの背に跨って首の後ろの肉をつねり遊んでいた。スピキオの満足そうな顔から察するに、その部分は柔らかくて気持ちいいらしい。イナバはされるがままである。

 ほったらかしにされていた訳ではないと解って安心したルネは斜め上にあるヴォットの横顔を見上げる。


「フィルとイオリあるよ。要するに、ちょっと手合わせしてるって事ある。その音で起こされる身にもなって欲しいある」


 スピキオが口を挟み、身軽にイナバから飛び降りる。


「少し覗いてみるあるか?」

「なかなか面白いあるよ」


 双子の提案にどう答えようか迷い。ルネは隣のイナバを見る。が、イナバも大きいとはいえ所詮は兎、こんな事をしていても埒が明かない。迷っている間にも破砕音は聞こえてくる。そんな音を聞かされていると、どうしても気になってしまう。手合わせとやらが終わってしまう前に、一目でも見ておきたい。


「行きたい、見たい!」


 ルネのその言葉に、双子はまってましたとばかりに肩を回したり首を鳴らしたりしている。なぜ準備運動が必要なのかと問いかける前にヴォットの腕がルネの胴に回されていた。そのまま簡単に脇に抱えられてしまう。あまりに突然の事で、ルネはぞうすれが良いか解らず脱力していた。弛緩した四肢が荷物のように揺れる。


「あいやー。お前軽すぎあるよ。ちゃんと食ってるあるか?」

「ちょっと揺れるかもだけど我慢するある」


 双子はルネに言葉をかけ、二人同時に強く地を蹴った。河原の石同士が擦れあう音に気付けばルネは空中にいた。こちらを見上げてくるイナバも小さく見える。かなり高い位置への跳躍、彼らもやはり肉体強化をしているのだろう。ここからだと、土煙が待っている様子も見える。どれだけ激しく争っているのだろう。怪我はしていないだろうかとルネは少しだけ心配になる。

 だが、突然腰に回されていた体温が消えた。ヴォットの腕が解けたのだ。ルネの体は当然、落下をはじめる。


「えぇぇぇッ!? 何で!?」


 急速に近づく地面。双子が手を貸してくれる様子はない。ルネは本能のままに従い、逆さまだった体を立て直す。足を下に向けやや膝を曲げて関節を守るように、状態を少し前に傾けてやはり肘を曲げた手を前に出し、安定した体勢で着地。獣のような四足の姿勢となる。その隣に、軽やかにヴォットをスピキオが降り立った。それだけでなく、拳大の大きさのモノが数多降ってくる。


「危なかったあるよ。ヴェリェントの群れに突っ込んでたある」

「なんとも無いようだけど、ルネも肉体強化しているあるか?」


 スピキオの問いにルネか首を横に振る。ベルヴェルグによる肉体強化は、聞いた事はあっても見るのは昨日が初めてだった。そんなルネが肉体強化を行っているはずもない。

 そんなとき、上から降ってくる物体がルネの頭にも当たり、転がり落ちてきた物を手を出して慌てて受ける。それはヴェリェントだった。但し目玉は上を向いて下はだらしなく垂れ下がり気絶している様子である。右手に何か硬い物が触れていたのでひっくり返してみると、首の部分に銀色の針が一本刺さっていた。ルネは恐る恐る針を抜いてみる。抜くと針は意外と長く、大人の男の掌をいっぱいに広げたほどの長さだった。一方のバリアントは何の変化も見られない。思い切って振っても叩いても気絶したままである。

 首を傾げるルネを見て、双子が笑う。


「延髄に撃ち込んであるから、何しても起きねぇある」

「振っても叩いても延髄を損傷してるかた起きられないある」


 ルネは手の中のバリアントを改めて見下ろす。それは全身を鱗に包まれ、腹に飛行を目的とするベルヴェルグがある。動物にたとえるならば、鳥のような姿をしたバリアントだった。双子においう通り、ピクリともしない。周りを見渡せば、同じ姿をしたバリアントが双子を中心として散らばっている。これだけの数を足場のない不安定な場所で全て延髄を狙って正確に射抜いたのだから、その腕前はルネを驚かせるのに十分だった。


「やっぱ皆強いんだね」


 ルネが思わず零した言葉に、しかしヴォットとスピキオが首を横に振って否定する。


「こんなの全然強くないあるよ」

「そもそも我らは戦闘要員ではないあるからな」

「あんな破壊力は出せないあるよ」


 ヴォットが手を振って言った直後に、それに同意するかのように木が一本こちらに向かって傾ぐ。それは三人の横すれすれを通り、派手な水飛沫を上げて川に倒れこんだ。向こう岸ではイナバが驚き飛び跳ねている。木は途中で乱暴に折られており、散った木っ端がバリアントと共に転がっていた。


「ほらこんな風に」


 スピキオが事もなさげに言う。倒れた木の無効では、件の人物達フィルとイオリが『手合わせ』をしていた。手合わせだと双子は言ったが、ルネには実戦にしか見えない。それというのも、二人が自分の得物を躊躇せずに使っているからだった。

 フィルは関接や甲に金属の入った皮製の手袋を使っている。メーディナ族が元々持っている怪力にベルヴェルグによる肉体強化の効果もあり、地面に当たれば一発で抉ってしまうほどの威力を持っていた。動きから察するに、ブーツにも同じ仕掛けがなされているのだろう。

 一方のイオリは、昨日も見せてくれたように刀を使っている。滑らかな動きや刀の裁きは一切の無駄が排除されていて、フィルと比べて柔らかい印象を受ける。その引ききるような動作は、こちらでは珍しい異国の物だった。


「お? ルネじゃねえか、早いな」


 フィルとイオリが三人に気付き、フィルがひょいと右手を上げた為、その場が中止となった。

 イオリが流れるような動作で刀を鞘にしまい、フィルは手袋の中のテーピングがずれていないか確認している。

 辺りは燦々たるありさまだった。地面は混ぜ返され、木などは殆ど斬られるか砕かれるかで倒れている。逃げてしまったのか、獣どころかバリアントさえも見当たらない。先程双子が仕留めたバリアント達は、この二人の争いに巻き込まれないように逃げていく途中だったのだろう。ルネはほんの少しだけバリアントに同情した。


「下位のバリアントか」


 イオリが哀れなバリアント達を見下ろしている。フィルも筋肉を解すように伸びをしながら辺りを見回していた。


「朝飯とる手間が省けたな」

「食べるの!?」


 ルネは思わず叫ぶ。今迄獣や魚などの肉は食べたことはあっても、バリアントの肉は口にした事は無かった。というか、食べられるという事さえ知らなかった。一歩退いたルネに向かって、ヴォットとスピキオが子供に言い含めるように人差し指を振って言った。


「食べないならこんな綺麗な姿のまま捕まえないあるよ」

「皮をはがすのは手伝ってもらうある」

「鳥の肉みたいな感じだから、安心しろ」


 ルネは辺りに散らばる未知の食材を見下ろして深く溜息を吐いた。



      *      *      *



 ネジュはグラードと分かれてから、森の中を進んでいた。進んでいたといってもそこには明確な道があるわけではなく、細い獣道の為、木の根や岩など様々な障害が存在する。しかしネジュはその獣道を普通に歩くよりも早いスピードで進んでいく。

 彼は今、ベルヴェルグの残滓を辿って歩いているのだった。その残滓はプルーの眼球に残っていた物と同一の物である。ただ、バリアントとプルーは上空を移動していたようで、地上では薄れていて非常に辿りにくい。ネジュは表情に出さないまま、内心で舌打ちをする。ここから先は更に薄くなっていて、ほとんど無に等しい。もう辿れる証拠は無いも同然だった。ネジュは周りをゆっくりと見渡し、そしてあるものを見つけてそちらの方へと足を向ける。


「ギャシャアッグゲ」

「グッグッシャゲギャアシャアア」


 ネジュが見つけたのは、三体の下位のバリアントだった。どれも同じ種族で、似たような姿形をしている。その醜さにネジュは眉を顰める。人間の子供ほどの大きさで頭が大きく、背の曲がった姿勢は猿を思わせる。その体はやはり他のバリアントを同様に鱗に覆われ、体を不釣合いな大きな平たい手の指先からは薄汚れた爪が伸びている。顎が小さい逆三角形の顔は白めの黄ばんだ目がその大半を占めていて、鼻は小さく骸骨のように上を向き、小さな口からは無数の尖った歯が覗いていた。薄い耳朶は尖った先端が折れて垂れている。そのバリアント達が身に纏っているのは、人間から奪ったであろう襤褸切れだった。

 三体のバリアントは今まさに死肉を貪り食っている最中だった。その死体は腐敗が激しく、腕の肉などは組織が破けて崩れていた。バリアント達はネジュが死体を奪うのを恐れているらしく、小さな歯を懸命に剥き出して威嚇している。ネジュには人の屍を喰らう趣味など無い。だが、彼にとってその死体は重要だった。

 ネジュは更に一歩を踏み出す。その時、バリアントのうちの一体が躍起になって飛び掛ってきた。汚い爪を振りかざしてネジュに襲い掛かる。しかしネジュはそれを予想していたかのような動作で左手をバリアントの顔面に翳した。バリアントが飛び掛ってきた勢いでネジュの人差し指と中指が両眼に突き刺さる。バリアントは途端にもがいてネジュの左手に縋り、引き剥がそうとする。だがネジュは親指と薬指、小指に力を込めると、上顎骨が砕け、動きが微弱なものとなった。骨が砕けた影響で内出血を起こし、顔がどんどん腫れていく。ネジュは手を横に振り、バリアントを地面に落とす。しかし皮肉にもバリアントは生命力が人間と比べてもかなり強い。潰れた目を押さえてのたうちまわる。その苦しみ悶えるバリアントの胸をネジュは踏み潰す。内臓を潰した為、バリアントの小さな口からは血が吹き出る。赤黒く痣が出来た胸を探ったのを最後に、一体目は息絶えた。

 仲間の死を目前にして、残りの二体は後ずさり慎重に間合いを取り始める。

 しかしネジュはこれで終わらせるつもりはなかった。全部殺しておかなければ、今後の活動に支障を来たすかもしれない。

 一体ずつでは敵わないと悟ったらしく、今度は二体纏めて飛び掛ってくる。ネジュは片方を上半身を僅かに横にずらしてよけ、左腕を大きく薙ぐ。薙いだ左腕はもう一体の頭部を捉え、近くの木の幹に叩きつける。そのバリアントは即死だった。上顎から上は完全に消失し、残った下顎に血液の脳漿が溜り、破片となった脳味噌の一部が浮き沈みしていた。粘り気のある液体がバリアントの惨死体と木の幹をくっつけているため、死体はゆっくりと幹を伝って滑り落ちていく。地に落ちると、下顎の杯に入っていた薄赤い液体が地にまかれ染み込んでいく。

 最後の一体はネジュとの圧倒的な力の差を察し、背中を見せて逃げ始めていた。ネジュは足下の胸が潰れた死体を蹴り上げる。死体は逃走を図るバリアントの首を直撃し、重みで地に引き倒す。ネジュの蹴りの威力で最後の一体の首の骨はくの字に折れていた。口の端から血泡が吹き出ている。

 ネジュは自分の作り出した肉塊を尻目に、人の屍に近づく。顔が腐っていて男か女かの判別もつかないが、必要な情報は十分に得られた。プルーの眼球に残っていた物と同じベルヴェルグの残滓が感じられたのだ。三体のバリアント達がこの死体を手に入れた場所には、何か新しい証拠があるはず。

 ネジュは再び残滓を辿って足を進める。



      *      *     *



 ルネはまだ一人ではリムの制御するバリアントに乗れないため、今日も移動はフィルの鞍に同乗してだった。出発から数時間後、見えてきたとフィルが指差したのは、先端を鋭く尖らせるように削った木を隙間なく並べた、見上げる程高い垣だった。リムの話によれば、バリアントを容易に侵入させないための物だという。


「はぁ、それであんな高い所から落ちてきたのか。パラシュートぐらい使えよ」

「だって使い方が解らないから。ところで、パラシュートって何?」

「うお……」


 ルネは移動中、これまでの経緯を話していた。ルネの村が潰れた原因も。フィルの話によれば、バリアントの被害によって潰れる村は数え切れないほどあるらしい。

 そんなこんなで見えてきたのがその垣だった。

 リムが馬車から降りて、関所を守る衛兵と何事かを話している。衛兵は内と外に二人ずつ、計四人ついていた。リムと会話しながらも時々こちらを注意深く窺ってくる。その無作法な視線にイオリが舌打ちをしたが、その視線は離れる事なくルネの方にも纏わり付いてくる。ルネが少しだけ身を縮めた時、丁度リムと衛兵の話がつき、騎乗するバリアントが動き出す。が、関門の辺りですぐに止まった。


「バリアント達はここに預けていくそうじゃ。ほれ、降りるぞい」

「何それ、めんどくさっ」

「以前はここまで厳しくは無かったはずだが」


 ストエカスとウィンストンが文句をいいつつも、衛兵とリムに従って鞍を降りる。ルネも先に降りたフィルに支えられながら飛び降りた。

 馬車に繋がれているバリアントも全て衛兵達に引かれていく。ただ今場だけは大きいとはいえ元は動物のため、残されていた。双子がわざと衛兵達に聞こえるように大袈裟に溜息と吐く。


「あーぁ、どうやって馬車を移動させればいいあるか」

「よし、フィル。お前が引いてくある。お前が一番力持ちある」

「俺かよっ!?」


 そんな会話を流しながら、ルネは辺りを見渡していた。

 関門そばは雑然として人はあまりいないものの、道を暫く真っ直ぐ行けばそこは商店街で様々な店や露店が立ち並び、活気で溢れている。客を呼ぶ声、値引きを求める声、全てがルネにとって新しい物だった。生まれてこの方、これだけの数の人をルネは見た事が無かった為、圧倒される。

 それに見とれていると、馬車が動き出した。結局全員で引いていく事になったらしく、ルネも慌てて一台の馬車の後ろに手を当てて押す。それでも始終、馬車の陰から通りを覗いていた。近づくにつれて、音は耳が痛くなる程に大きくなっていく。


「クレタはギルドも騎士団も多いからな、町はかなり大きい」


 隣にイオリの引く馬車が並ぶ。


「僕達は待ち合わせのためにここに来たのさ。ほら、あそこ」


 口を挟んできたストエカスが顎をしゃくって示した先は、いくつもの露店が立ち並ぶ道だった。

 覗いたルネは少し息を呑む。それはルネにとって見覚えのあるものだった。ごったがえす人ごみの中それと確信させるものを見つけた時、ルネの足は駆け出していた。


「セインッ!」

「ん?おぉっ、ルネじゃねぇか!」


 振り返った人影に、ルネは遠慮せずに思い切り抱きつく。相手の方もそれを咎めずに、寧ろ痛い程ルネの背中を繰り返し叩き、再会の喜びを表していた。

 ヴォットをスピキオが傍に来て、驚いた用に二人を交互に指差す。


「知り合いだったあるか?」

「意外な組み合わせある」

「うん! セインはよくうちの村に行商に来てたから」


 他の騎士団のメンバーも興味深そうにこちらを見ている。

 セインは行商人ギルド・ヴォーリャの団長であり、ルネが住んでいたような辺境の村にも顔を出していた。年が近いという事もあってか、二人はすぐに打ち解けた。ルネにとっては自分とこれほど親しくしてくれる人はいなかったため、かなり懐いてしまったのも無理はない。

 世間とは狭いものだな、と感嘆したウィンストンの言葉に、フィルが苦笑でもって答えている。ただ、リムだけは合点のいったという顔で頷き、セインも口で言うほどには驚いていないようだった。

 しかし、その余裕に満ちた態度が突然反転する。


「ヤバっ、ちょっと隠してくれ」


 ルネが是と答える前に、セインがルネの背中に回り込んで身を縮める。しかしセインよりもルネの方が小柄なため、どんなに身を小さくしても彼の目立つ髪色は隠しきれない。その事を本人にちゃんと指摘してやろうとルネが背後に手を伸ばしかけたのと、それはほぼ同時だった。


「セイン! セイン、どこにいるのですか! また私に無断でこのような物を飲んで! 今日と……い、う……あ」

「今日は、ルーファス。久しぶり」


 人混みをかき分けて、姿も見えない上司に怒鳴りながら出てきたのは。ルーファスだった。

 両手に持っている酒瓶とグラスは、おそらく先刻までセインが飲んでいた物だろう。ヴォーリャではセインが飲酒したことでルーファスに怒られているのは、日常茶飯事であった。

 その光景に、ルネは思わず笑みを零す。自分とは違い、こちらは何も変わってはいなかった。


「本当に久しぶりですね、ルネ。あぁ、アデラ達はこの奥の酒場にいますが、忙しくて手が離せません。手が空いたら、貴方がこの町に来ている事を伝えるとしましょう」


 ルーファスも手のものを全て放り出して、ルネに親しげに歩み寄ってくる。


「ローダに拾われていたのですね、良かった」

「そうじゃ、存分に感謝するがいい。ところで、クレタ出発はいつになるかの?」


 自分がのけ者にされながら進む会話に辟易してきたのか、リムが遠くから口を挟んできた。その質問にルーファスは顎に手を当てて考え込む。片眼鏡に覆われていない右目が思案気に細められた。

 後ろでセインが何か囁いているので意識をそちらに向けてみると「三週間後、三週間後」と繰り返しているのが聞き取れた。


「三週間後?」

「ええ、そうですね、ルネ。それ位が妥当でしょうか」


 ルーファスがルネに完璧に整った笑みを向け、そして後ろに隠れた(つもり)のセインを見やる。今はルネ達の手前、怒りを露わにしないだけで、去れば途端にセインに対して特大の雷が落ちる事だろう。それを理解しているセインは更に身を縮め、騎士団の団員もヴォーリャに属する店員達まで不謹慎な笑いを必死で抑えようとしている。


「ローダとヴォーリャはな、協定を結んでいるのじゃ。移動中を守る代わりに、物資面ではかなり助かっている」


 リムが口元を手で覆って噴出さないように堪えながらルネに説明するが、それが限界だったのか、すぐにイナバの影に隠れてしまう。それには流石のイオリも唇を噛んで笑いを堪えていた。

 ルネの後ろでは小声でセインが悪態を吐いている。女に聞かれればその場で平手打ちを喰らいかねない言葉の汚さに、ルネは唯苦笑いを浮かべるしか無かった。ルーファスが仕方ないと溜息を吐いて、説明を引き継ぐ。


「行商中は危険が多いですからね、身を守る術の一つです……さて」


 ルーファスがこれ以上の物は無いというほどの壮絶な笑みを唇に浮かべる。ただし、露わになっている方の右目は全く笑わず、静かすぎる炎を燃やしていた。

 あまりの迫力にたじろいで、ルネは一歩後ずさる。騎士団のメンバーもこれは冗談じゃないと気付いて慌てふためいていた。フィルが手を垂直に立て、横にスライドさせて「どけろ」の合図をルネに送ってきている。ルーファスもそれに同意して頷いた。


「ルネ、後ろの悪ガ……いえ、セインをお出しなさい。さもなくば……」

「さ、さもなくば?」


 恐ろしさに震えつつも聞き返したルネの腕を、フィルが掴んだ。思わずルネは声を上げたが、それに構わず荷物のように小脇に抱えられる。これは今日二回目だな、とルネは脳の片隅で考えた。

 当然、隠れていたセインが、怒りに拳を握り締めて震えるルーファスの前に曝け出される。ギルドの店員達も自分達がとばっちりを喰らわないよう、いそいそと仕事に戻り始めていた。ただし、面白い出来事を見逃さないようちらちらと横目で二人を窺いながら。


「んじゃ、俺達は宿に荷物置いてくるからなっ」

「フィルーッ! この、薄情モンがぁぁあぁ!!」

「逃がすものですか!! たっぷりと仕置きしてやりますからね!」

「いぎゃああぁぁあっあッッッ!!!」


 セインの叫び声と周りの笑声とが道を満たし、ルネ達の背中に勢い良くぶつかった。



      *      *      *



 ルネは宿の表通りに面した部屋を当てられていた。二人部屋なので、ルネは保護者代わりであるフィルと一緒である。

 しかし、そのフィルは馬車に荷物を取りに行っていて不在のため、部屋にはルネ一人しかいない。ルネは部屋の窓を大きく開け放つ。夏が近づいてきている事を主張するような暖かで穏やかな風と共に、通りの喧騒が部屋の中に入り込んでくる。新鮮なその感覚に、ルネは暫く目を瞑って身を委ねていた。これほどの活気を感じるのは初めてで、喜びの中には新しい物に対する不思議な感慨がある。

 ルネはそれを振り払うように首を振ると、町の垣の更に奥、森を見つめる。明日は、不要な荷物はここに置いて、ルネの住んでいた村に行く予定だとリムが言っていた。半日ほどでつくから、セイン達ヴォーリャに合わせて帰ってこれば良いそうだ。帰郷を楽しみにしながら、そろそろフィルの手伝いに行こうと窓を閉める。

 その時、開花で賑やかな声、続いて階段を駆け上ってくる複数の足音が聞こえてきた。聞こえる声は聞き覚えのあるもので、ルネは顔を輝かせる。


「ルネーッ! ぷわぁ、ルネだっ、ホントに来てたぁ!」

「久しぶりだね、元気だった?」


 蝶番が外れるのではないかと思う程の勢いで扉が開け放たれた。

 まず最初に入ってきたのは、露出が多く裾が派手に閃く舞台衣装を纏ったアデラだった。ヒラヒラとした裾を翻して思い切り飛びついてきたため、ルネは支えきれなかった分、半歩後ろに下がる。

 続いて入ってきたのは、ネルス族特有の幼い顔に似合わない落ち着いた笑みを浮かべたライリー。

 ルネはアデラの体を支えながら彼に向かって笑顔で頷き、元気だという意思を伝える。すると、まだ階段を昇る足音があった。今度は三つ。


「あらぁ、楽しそうじゃない。お姉さんも交ざろうかな」

「お前、ルネを殺す気か」

「……」

「いいじゃないか、少し位。ねぇー?」


 許可する前にルネとアデラを丸ごと抱えたのは、メーディナ族のポーレット。一族の特徴とはいえ、おおよそ女性とは思えない怪力で二人を床から持ち上げてしまう。その様をユーグが無言で見つめ、三角形の耳をパタリを一度動かした。その様子を見たアデラが「ユーグも交ざりたいのー?」と聞いている。

 更にその後ろにいるのは、大量の荷物を抱え眉間に皺を寄せるフィルだった。腕に下げている袋はおそらくルネ達の荷物だろうが、木箱に入った果物や干し肉なんかはポーレットのお土産だろう。

 得意げにポーレットが、思い出したように掌を合わせる。


「そぉだ服よ、服。フィルから聞いたよ、アンタ服のサイズ合わないんだって? ……サラ!」


 ポーレットはまた開いている戸口に向かって声を張り上げる。お塩とは三人分しか聞こえなかったが、まだいるのだろう。しかし、サラという名前は、ルネは聞いた事がなかった。ルネがまだ会った事のない新顔だろうかとドアの向こうを注視する。そこから足音も衣擦れも何一つ音を立てない所作で入ってきたのは、ポーレットと同じくらいの妙齢の女だった。


「はい、お呼びでしょうか」

「あぁ、呼んだ。コイツの採寸してくれるかい?」

「畏まりました」


 少しもずれのない完璧なまでの笑みを顔に浮かべ、サラはルネに一礼する。ルネはそれにつられて自分も少しだけ頭を下げてしまった。二人同時に頭を上げ、そしてもう一度見合わせたサラの顔が再び笑みを形作る。その顔をルネは興味深げにしげしげと見つめた。彼女に顔の左半分には、左目を挟んでベルヴェルグが施されている。ベルヴェルグはゆっくりと点滅し、作動していることを示している。ルネの視線にもサラは動じずに、スカートのポケットから巻尺を取り出す。


「失礼します」


 サラが無駄のない機械的な動作でルネの体の寸法を手際よく測っていく。不思議そうな表情をしているルネに、ライリーが説明を加える。



「サラは擬人型なんだよ、つまりはベルヴェルグで動く人形」

「はい、私はいつでも皆様の忠実な僕」


 ライリーの言葉を、サラが顎を引いて肯定する。そのサラを、ルネは改めて見つめた。確かにサラの動きや表情は完璧すぎて人工的に見える。便利で有能ではあるが、人と思って接するには少々物足りなさを感じる。もっとも、ルネは擬人型を見るのは初めてだったから、サラとの対面は新鮮なものとして感じられた。


「セインが、人手が足りない~って言って導入したの」


 アデラがライリーの説明に補足する。

 確かにヴォーリャは人手が少ない。多くの商品を扱っている割には働く人が少なく、一人一人の仕事の量がどうしても多くなってしまっている。アデラ、ライリー、ユーグ。ポーレット、そしてサラがここに来ることができているのは、昼時がすぎてほんの少しの余裕が出来たからである。夕方になれば、またてんてこまいになるだろう。

 そうこうしているうちにもう、サラは採寸を終えていた。メモを取った紙をポーレットに渡す。


「ありがとね、サラ。じゃぁ、私たちはこれで失礼するよ」

「他に必要な物があったら言ってね」


 元気良く手を振って部屋を出て行ったポーレットとライリーの後を、ルネの頭を一なでしたユーグが追う。去り際にポーレットがフィルに意地の悪そうな笑みを向け、それに答えてフィルが右手の中指を立てていた。人の感情の機微に疎いルネは、仲が悪いのかと首を傾げる。

 アデラも彼女らの後を追いかけていくが、その途中ではたと止まる。


「そういえばね、ナハトも会いたがってたよ。でも忙しくて来れなかったの」

「そっか。じゃあ、明日の朝会いに行くよ」

「解った! 伝えとくね!」


 アデラも天真爛漫な笑みを浮かべ、部屋を飛び出していった。階下から聞こえる他の三人を呼び止めるアデラの声に、らしくなくフィルが深く溜息を吐き、ルネは唇を綻ばせた。



      *      *      *



 グラードは雑多とした人混みの中を、辟易しながら歩いていた。

 これだけの人が集まる街は、ここを置いて他には無いだろう。安全と思えるところに、人は寄せられていく。所詮は人も群れを成さねば存在する事の出来ない矮小な種族なのだとグラードは心の中で結論付ける。

 断ってもなおしつこく詰め寄ってくる『心の穴を埋めてくれる薬』の商人の心臓をどうやって貫こうかと思案しているところ、曇天の中でもよく目立つ黄色の色彩を見つけグラードは人の合間を縫って狭い路地へと身を滑り込ませる。下降してきた鳥と二言ほど言葉を交わし、再び空に解き放つ。

 早くあの男を見つけなければと路地を挟んだ向こう側から視線が送られてくるのを感じた。

 否、そこからだけではない、周りからも痛いほどに感じる。グラードは思わず動きを止めた。

 路地の向こう側からグラードに視線を送ってきているのは、良く目立つ橙色の髪をした少年。彼はこちらを睨む訳でもなく、ただ淡々を見つめてくる。その視線は『観察』という言葉がぴったりと当てはまるように感じられた。

 不思議な事に、周囲からの視線も全く同じ性質だった。まるで一人の人物が幾人にも分かれてグラードを囲っているかのような感覚。その居心地の悪さにグラードの脳内に、この通りの者を全て皆殺しにしてやろうかという考えが浮かぶ。

 だが、それは双方にとってまったく不意に断ち切られた。何の関係もない一組の母子が、少年とグラードの交錯した視線を遮ったのである。

 これを好機とばかりにグラードは強く地を蹴って、後方へと高い跳躍をする。あのまま通りに出て行っては駄目だと、彼の経験が警報と共に告げている。

 グラードは建物から建物へとさらに跳躍を繰り返し、もう十分すぎるほど離れてから漸く振り返る。追いかけては来ていないようでもう視線はないが、こめかみの部分に時たま僅かな痛みを感じ、その痛みは心臓があるであろうところまで降りて違和感としてそこに鎮座していた。一体何だったのかとグラードは目を眇めて脳内検索をかけてみたが、彼の持ちえる知識の中には該当する、または近い答えは無かった。そのためグラードは考えるだけ無駄と判断して思考を中断し、建物の屋上から軽やかな身のこなしで飛び降りる。

 今はそれについて悩んでいる場合ではない。今のうちに早くあの男を見つけなければ、と。

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