二話
頬に当たった暖かな日差しがくすぐったくて、ルネは身を捩りつつベッドから起き上がる。
今日は室内なので、当たり前に宿の裏に繋がれたイナバはいない。通行人があの巨大な姿を見たら、どういった反応をするのだろう。想像してルネはくすりと笑う。フィルはすでにいなかった。また、イオリと朝の手合わせでもやっているのだろう。
自分用の軍服は何時できるのだろうと期待に胸を膨らませながら、平素の服を身に着ける。今朝はナハトと会う約束をしている。ルネは部屋を出る時に戸締りをしようと立ち止まりかけたが、貴重品は自分は持っていないし、フィルも自分で管理しているだろうと思いなおして階段を駆け下りる。
階段を下りればそこはロビーに繋がる。そのロビーに見覚えのある姿を見つけ、ルネはそちらに足を向けた。
「おはよ、皆早いんだね」
「おはよう、ルネこそ今日は早いな」
ルネの挨拶に顔を上げたのは、ウィンストンだった。早朝だというのに、もうしっかりと身支度を整えているところが彼らしい。ロビーには、ウィンストンの他にもストエカスがいる。設置してある椅子に座っているストエカスの髪を、ウィンストンが結っているところだった。彼の髪は両側頭部の髪の一部を後ろに持ってきて縛るもので、いつも丁寧に整えてあった。戦い以外ではずぼらそうな印象のあったストエカスだが、ウィンストンが毎朝結っているというのならば、綺麗で当たり前である。
だが、肝心のストエカスは全てをウィンストンに任せて船を漕いでいた。
ウィンストンはそんな彼を見下ろして苦笑を見せる。
「まぁ、でも、全員が朝に強いとは限らないな。こんな奴もいる」
「……確かに眠たそうだよね。いっつもこうなの?」
「こんな感じだ。苦労させられている、昔から」
最後の『昔から』という言葉と表情には、気のせいか翳りがあったような気がする。
昔からというには、幼馴染ということだろう。道理でこの二人は騎士団の中でも特に仲が良いはずだと、ルネは納得する。
しかしながら、先程の含みを持たされた言葉は、やはり自分の勘違いだったのだろうか。ルネは、人の感情の機微に疎い自分を恨めしく思った。
気になって仕方が無かったのだが、先日のリムの時のように好奇心で人を傷つけてしまうのはルネも望んでいない。ウィンストンの渋い表情からして、あまり良い思い出ではないのだろうから。ルネは口を開くのを逡巡していた。
そんな気まずい雰囲気を一気に捻じ曲げたのは、船を漕いで遙か大海原へ旅立っていると思われたストエカスだった。
「結果的に一大事には至ってないから良いんじゃないかな。そしてお早う、ルネ。ここの枕はなかなか寝心地が良かったと思うんだけど、どうだい?」
正しく猫の仕草で伸びをして、起き抜けの顔を擦るストエカス。丁度ウィンストンも彼の髪を結い終わったところだった。どの角度から見ても完璧な仕上がりに、ルネは感心してまじまじとストエカスを見る。
「やだなぁ、もう、そんなに見つめないでよ。それよりも、こんな朝からどこかに行くのかい?」
「ちょっとナハトに会いに行くの」
「そういえば、昨日アデラ達が遊びに来ていたな」
「気をつけていってらっしゃい。朝帰りの酔っ払いに絡まれないようにね……ふわぁ」
やはりまだ眠いのか、欠伸交じりに言葉を紡ぐストエカスとそれを呆れたように見やるウィンストンに手を振って、ルネは宿から飛び出す。
ヴォーリャが店を開いている路は、まだ早朝だというのに朝食の買出しのために人が集まって酷く混雑していた。ナハトのテントを探し、まだ慣れない人だかりの間をきょろきょろと見渡していると、露店の一つからポーレットが手招きしているのを発見した。彼女がいるのは、芳しい匂いのする林檎を崩れないのが不思議な程高く積み上げた露店だった。隣にカプラ族の男がいることから、ポーレット自身が売り子をしているのではなく、食品を扱う露店の見回りをしているのだろうと推測できる。
「おはよさん、随分と早いじゃないか。ほら、これあげる」
ポーレットが赤く熟した林檎の一つを手にとって、ルネに投げてよこす。ルネが右手を上げて受け取ると、パシリ、と小気味良い音がした。貰ってしまってもいいのだろうかとカプラ族の男の様子を窺うが、彼も嫌味のない全くない朗らかな笑顔で頷いている。彼の笑顔に後押しされて一口齧ってみると、甘さの中に程よい仄かな酸味のある果汁が絶妙で、ルネ自身も笑みが零れた。それほど大ではない林檎を齧っていると、ポーレットが奥から出てくる。
「えっと、ここを真っ直ぐ行った一番奥がナハトのテント。アイツのだけ紫だから、すぐに解るわね?」
「ありがと。それに林檎も美味しかった」
どういたしまして、と温かな笑みを浮かべたポーレットと気前の良いカプラ族の男を後に、ルネは更に人を掻き分けて進む。道の突き当たりには確かにポーレットのいう通り紫のテントがあって、色合いと漂ってくる匂いのせいか、その一部だけ次元が違うように感じられる。ルネが入り口まで歩を進めると、中から「入るが良い」と静かに染み渡る声が聞こえてきた。
「失礼しまーす……久しぶり」
「あぁ、久しいな、ルネ。会えるのを楽しみにしていた」
天井から垂れ下がる紗幕の間から柔らかな微笑みを向ける男――――――ナハトな緩やかな動きで手を伸ばし、ルネの額を小突く。
「村が消えたというから心配していたのだが、杞憂であったな。セインが大丈夫とは言っていたが」
ナハトの服の裾からも香の香りが漂ってくる。不思議と気分が落ち着くため、ルネはこの香りが好きだった。
心に染みこむような声にルネは耳を傾ける。ナハトは自分の言葉を聞く姿勢をとったのを確認してから、すこし表情を引き締める。
「いつもお前は一人で行動してしまう。それが自分を追い込んでいるのに気付くがいい」
最後の言葉は、囁き伝えられた。
「罪は何があろうともお主を逃がしはしない。受け入れろ」
強い瞳で見つめられる。未来を見据える、強い瞳だ。ルネはその眼光に押され頷いた。ナハトの言った事が間違っていた例はない。ナハトはこれを生業としているが、決して胡散臭い物ではない真実だとルネは知っている。必ずナハトの占いは当たると評判が高いし、連日多くの客が押し寄せる。
昨夜も忙しかったのだろうか、ナハトが初めて疲労の色を見せて目を閉じる。ルネは気を使って足音を忍ばせて静かにテントを出ようをしたのだが、そこで再びナハトが言葉を発する。
「少し説教めいてしまって悪かったな。兎に角、お主に再会できて嬉しい」
それだけを一方的に伝えた後、ナハトは腰掛けていた肘掛け椅子に身を持たせ掛けた。そんなところで寝るのかとルネはテントの中を見回したが、椅子以外に寝ることができそうな物が中には無かった。
それに、今から移動させようにもすでに寝息を立て始めているナハトを起こしてしまいかねないので、無理である。
「僕も皆と会えて嬉しいよ……お休み」
世間一般の時間軸と大きくかけ離れた挨拶を残し、ルネは今度こそテントを後にした。
* * *
数時間後、ルネは森の中の小道にいた。ルネの生まれ育った村に行く為だ。
しかし、突如として、ストエカスが足を止め、頭を巡らす。
「匂いがする」
「何のだ?」
呆れたような表情を作ったフィルが聞き返す。たとえ聞かずとも、その答えが分かっているからだろう。
「血の、だよ」
案の定、ストエカスは笑顔で言い切った。
アーバン族の優れた嗅覚が風に乗った僅かなそれを嗅ぎ取ったのだろう。イオリやウィンストンも、判然としない表情を作っていた。
「って訳で、僕は行くね」
「あぁ、私も行こう」
「おい、ちょっと待てって」
フィルの制止も虚しく、ストエカスとウィンストンは草木を掻き分け、森の奥の小道へと分け入ってしまった。
フィルが頭を乱暴にがしがしとかく。
「全く、何でここは自分勝手なヤツが多いんだ」
その言葉には自分への自嘲も込められているのだろうか、薄く笑う。
そんなフィルを尻目に、イオリが動いた。
「嫌な予感がする。俺も行く」
「へいへい、どーぞ」
止める気もなくしたのか、フィルが投げやりに手をふった。
その態度を無視し、イオリはストエカスをウィンストンの後を追いかける。
「どうするの?」
「どうするって、俺達だけで進むしかないだろ」
溜息を吐きつつフィルが振り返り――――――ルネの方を見て固まった。
「――――――ルネ!! 後ろだ!!」
「――――――姉さんを殺したのは、お前か?」
――――――ルネが振り返るとそこには、白で覆ったような青年が立っていた。
* * *
「罠……かな」
「だろうな」
小道を辿った場所にあった、草木が疎らな開けた場所。
疎ら、と言いつつも、それは自然に出来たというには有り得ない。
その証拠に、刈られた草や掘り返された土が散乱し、切り株もあちこちに見受けられる。
「あ、何か出てきた」
ストエカスの言う通り、拓けたその地へと入ってくる者の影が複数。頭頂から爪先までを真っ黒に覆った男達だった。
「――――――楽しくなりそうだねぇ。ウィンストン?」
鉄の爪を舐めながらストエカスが笑う。
「――――――あぁ、そうだな」
薄く微笑んで、弓を構えたウィンストンも同意した。
* * *
「見失った」
イオリはぽつりと呟いた。
「お前等のせいだ」
そして、前方の集団を睨む。
彼らは、茶色を基調とした襤褸服をまとっていた。皆、手に手に武器を携えているが慣れないものらしく、構え方がぎこちない。
「イオリ・ナガサワだな」
筆頭らしき存在が手元の資料とイオリの顔とを見比べる。
「お前には、死んでもらう」
その言葉と同時に、固まっていた男達が、イオリを囲むように散らばる。
その彼らに向かってただ一言、イオリは良い放った。
「どうでも良いな」
筆頭が呆けた表情になる。
「お前等は、俺を殺すつもりなのか。じゃあ、俺もお前等を殺すつもりで戦おう。それが普通なんだろ?」
対してイオリは、一切の表情を変えない。
「――――――心底、どうでも良いが」
* * *
「ごめんねぇ、捕まっちゃった」
ポーレットが脂汗をかきながら謝る。
喋る元気があるのはポーレットただ一人で、他に捕まったエディッサ、サラはピクリとも動かない。
サラに関しては、今後も動くことは無いと思われた。彼女の顔のベルヴェルグが大きく破損していて、修理が不可能だからだ。
「情報屋、これを見てもまだルーネ・ギルデンについての情報を渡さないつもりか?」
襤褸服の男の言葉にセインは答えず、ただ静かに瞳を閉じた
* * *
それよりも少し前の話。
ヴォットとスピキオは、本日は休みをとっているナハトと共に、酒場の横に設置されているテントの前に置いてある、商品の詰まった木箱に腰掛けて酒を飲んでいた。今日は何故か何時も以上に酒場内が込んでいて、身内やそれに近い関係である彼らは客を優先させて外で飲むことにしたのだ。酒場内からは歓声が時折聞こえ、中が十分に盛り上がっていることを知らせて疎外感を煽って来る。
そんな時、たわいない話をしていたナハトが不意に視線をずらして酒場の入り口へと目を向ける。つられて、双子もそれまでの会話を打ち切ってそちらを振り返った。
彼らの視線に気付かずに入っていったのは、茶色などの冴えない色の服ばかりを着た、一見浮浪者や酔っ払いにしか見えない男達。何やら早口で言葉を交わしながら、焦ったような素振を見せて次々と酒場に足を踏み入れていった。
「何あるか、アイツ等」
「随分と汚い……」
『きゃあぁぁぁぁぁぁあぁあああああっ! い、いやッぁぁぁぁぁあああああぁぁぁあぁぁぁぁぁああ!!』
スピキオが感想を口に出した瞬間、賑やかだった酒場から聞こえてきたのはアデラの悲鳴で、酒場内が別の意味で賑やかになったというのを容易に想像させた。
* * *
「そう、僕。村の皆を殺したのは僕だよ」
白服の青年が求める答えを淡々と述べてみせるルネ。それは嘘偽り無い真実だった。
確かに村を滅ぼしたのはルネであり、村人達を皆殺しにしたのをルネだった。別に隠す気もないため、相手が知りたいのなら正直に答えるまでだった。その証拠に、フィル達ローダ騎士団のメンバーにはクレタに来る過程で説明しているし、何も言わないがセインはいつものように全てを知っているだろう。
そんなルネに対して、白服の青年が表情を変えずに、しかし声には殺気を上乗せしえ発する。
「それでは姉さんを殺したのはお前だな」
ルネは僅かに首を傾げる。殺した村人の誰かの弟だろうか。しかしルネの記憶ではこんな男に会った事は無かったし、似た顔立ちをした女もいなかった。
思わず何の事、と呟きかけたルネは、自分の吐き出す息が白くなっている事に気づく。
一方の青年は、その僅かな沈黙を肯定と勘違いしたのか、身に纏う殺気を累増させていく。
「同じく、死をお前に与えてやる」
雪のように冷たい表情を浮かべて。