⑦ 姉弟の同盟
ユーリィが本宅に戻ってきた。
家族の部屋があるのは二階。なのに彼の部屋だけ、なぜか三階にある。
まだ私が彼を虐げるとでも思われているのだろうか。あまりに心外だ。
屋敷内で顔を合わせるのは、食事の時間くらい。
あとは、見事なまでにすれ違い。
子どもの頃、別邸に移ってから、彼はよく庭の散歩の時間を、わざと私に合わせていた。
ずっと離れた場所から、寂しそうに手を振る姿は、今でもふと心に浮かぶ。
メイドの目を盗んで、駆け寄ってきて「ねえさま~」と抱きついてくることもあった。私は彼を叱った。そうするしかなかった。
……あれから、六年の月日。
今さら、仲良くなんて。けれど、そんなことも言っていられない。
今朝、学園へ向かう馬車の前で、彼は待っていた。
吸い込まれるような、眩しい微笑み。
あまりに美しくて、付き添いのメイドたちは言葉を失っていた。
「姉上、おはようございます」
「おはよう。今日から一緒の馬車ね。仲良くできればいいわ」
「はい。お手をどうぞ」
差し出されたその手を取って、馬車に乗り込む。
あんなに小さかった手が、もう私のよりも大きくて、指先までも美しいのが癪に障る。
向かい合って座ると、私はカバンから本を取り出して、黙ってページをめくる。
そうでもしないと、落ち着かない。
ユーリィは、じっと私を見ていた。
真正面から、まるで探るような視線で。
「私の顔に、穴でも開ける気かしら」
言ったそばから、後悔した。
こんな私だから、可愛くないのだ。
「姉上、少し話してもいいですか」
私は本を閉じた。
「何を話したいの?」
「学園では仲良くする、と。姉上は、確かにそう約束しましたよね?」
「ええ」
「では、僕が親しげに接しても、叱らないでくれますか?」
「分かったわ。ユーリィの良識を信じましょう」
それは約束のようで、同時に自分への戒めでもあった。
ユーリィを味方にしなくては。ヒューイ様の言い分が、すべて正しいようにされてしまう。
義弟の言う通り、仲の良いふりは必要だ。
「信じてください。僕は必ず、姉上を幸せにしてみせます」
……まるで、プロポーズのようだった。
「わ、私は、婚約を破棄して。あちらが責任を取る。それで、十分幸せよ」
そうして築かれた姉弟の同盟。
——そんな絆が、どれほど脆いのか、まだ気づいていなかった。
学園に着いて、馬車から降りたその瞬間。
ユーリィは私に腕を差し出してきた。
さも、当然のように。
ヒューイ様は一度たりとも、私をこうしてエスコートしてはくれなかった。
彼の腕はいつもアニタに差し出された。
けれど今、私はこうして義弟の腕に寄り添って歩いている。
それだけで、廊下のざわめきが変わる。全方向からの視線。見られている。
「……ここまでで、いいわ。ありがとう」
「いいえ、仲良しアピールは必要です。教室まで、お送りします」
二年生の教室が近づいても、彼は離れようとしなかった。
私の歩幅に合わせて、並んで歩く。
そして、そのときだった。
「これは新たな嫌がらせかしら? それとも、ユーリィ様への強要?」
アニタの、甘ったるい声。
振り返らなくても分かる。
「まぁ、今さら仲良しを装って事実を隠そうなんて、卑怯ですわね」
取り巻きの一人が、すかさず援護射撃。
一気に周囲がざわついた。興味本位の視線が雪崩のように押し寄せる。
ヒューイ様の姿も見えて、目の前が一瞬ふっと白くなった。
「ガートナー侯爵令嬢、何をしているんだ!」
「こ、これは……」
頭の中が混乱する前に、耳元で声が落ちた。
「姉上、僕に任せて」
……ここで裏切られたら、すべてが終わる。
「ユーリィ、信じてるわ」
彼は私の肩を自然に抱いて、堂々と言い放った。
「ええ。僕たちは以前のような、深い愛情を取り戻したんです」
(え……?)
それ、ちょっと盛りすぎじゃない?
「君は彼女に虐げられていたはずだ」
「そんなこと、僕があなたに言った覚えは、ありませんが?」
義弟に返された言葉に、ヒューイ様は言葉をなくした。
「だ、だってユーリィ様は何度も叩かれてたじゃない。家でも別宅に追い出されて、辛い思いをされているはずよ!」
アニタの声は、どこか必死だった。
けれど、義弟は容赦なく切り捨てた。
「アニタ嬢。君は今まで姉上の婚約者であるヒューイ様の、愛する幼馴染だった。だから多めに見てきたけれど……僕の名前を気安く呼ぶのはもう終わりだ」
そして私を見る。悩まし気げな顔で。
「なんせ、僕のナタリアの婚約は、破棄されたんだ。ヒューイ様に、一方的にね」
(え……?)
この子、『僕のナタリア』って言った?
「ど、どうしたんだユーリィ……姉に脅されているのか? 私が守ってやる、こっちに来るんだ!」
ヒューイ様の手が伸びてきたその瞬間、ユーリィは一言。
「気持ち悪い」
……ああ、これがユーリィの本性だ。私は驚かない。
人を困らせるのが好きな、小悪魔。
「嘘だろう……?」
「ユーリィ様、どうしちゃったの……?」
うろたえる二人の様子が、あまりにも滑稽で。
私は、笑いそうになるのをこらえながら言った。
「うちの義弟が、どうかなさいまして? ……問題なのは、貴方とそちらの“幼馴染”でしょう」
読んで頂いて有難うございました。