③ 彼女が去って(ヒューイ視点)
ナタリアが庭園を出ていったあと、私たち三人は、しばらく黙ったままだった。
「……クソ婚約、か」
あんなふうに言われるとは思っていなかった。
「侯爵令嬢の言葉とは思えませんわね」
アニタが笑う。いつもの含みのある笑い方。
少しだけ苛立ちが走った。
彼女は幼馴染だ。恋人ではない。
ナタリアを牽制するためだけに、傍に置いていた。
高慢で、意地が悪くて、上から目線。
それが、私の婚約者、ナタリアだった。
「……婚約は、間違いなく破棄ですね?」
無垢な顔で、ユーリィが訊いてくる。
「ああ。君のことは私が守る。心配しなくていい」
「僕は……何も、悪くないですよね?」
「ええ。あなたは被害者よ。かわいそうに」
アニタの言葉に、ユーリィがふっと笑う。
その下唇が赤いのは、きつく噛んでいたせいだろうか。
「あ、ありがとうございます……僕、帰らなきゃ。姉上が怒ってますから」
「虐められたら、すぐに公爵家に来なさい。私は、いつでも匿うよ」
「……はい。本当に、ありがとうございます。ヒューイ様には、感謝しかございません」
そう言って、ユーリィは小走りに庭園を去っていった。
──その背中に、何だろう……小さな違和感。
「大丈夫かしら。送ってあげればよかったのに……」
アニタが優しい声で言う。だが私は知っている。
彼女はユーリィを傍に置きたがっていた。私の代わりとして。二人目の“恋人”として。
可憐で、はかなげな姿のアニタ。
ピンクブロンドの髪に透き通るような肌。
でも、その実、欲深い――それが、私の幼馴染だ。
最初、ナタリアの悪い噂を、私に持ち込んだのも、アニタだった。
「彼女、義弟を虐待してるらしいわ。侯爵家でも手を焼いて、ユーリィ様を別宅に移したんですって」
その時の私は、まだ疑っていた。
婚約なんて簡単に破れないし、噂だけじゃ証拠にならない。
でも、侯爵邸に行ったあの日。私は見てしまった。
「立場を弁えなさい!」
ナタリアが、ユーリィの手を叩く瞬間を。
メイドたちは目を伏せていた。
「姉上、どうしてそんなに僕を……」
「あなたは、血のつながらない義弟なの。しつこい子は嫌いよ」
あの光景が、すべてだった。
嫌悪して、私はナタリアと距離を置いた。
父に訴えても、まともに取り合ってはくれなかった。
「虐待の事実はない、とのことだ」
それでも、私は信じなかった。
学園に入ってからも、私はナタリアに冷たくした。
ユーリィが入学すると噂はさらに加速し、周囲の視線もナタリアに冷たくなった。
私は、彼女が憎かった。
「ナタリアから婚約を破棄してくれないかな」
私がそう言うと、アニタは笑って答えた。
「だったら私を恋人にしたらいいわ。誤解させて、向こうから破棄させるのよ」
「君には婚約者がいるだろう」
「彼にはちゃんと話しておくわよ。誤解されないように。公爵令息に協力するだけ、ってね」
馬鹿げてる、と思った。けれど。
婚約を破棄できるなら……そう思ってアニタに恋人のフリをさせた。
「私達の仲を嫉妬して、嫌がらせをしてくるの……」
「ユーリィ様がお気の毒で」
そんな言葉、アニタがナタリアの悪い噂を流せば、まるで真実のように定着する。
誰も真実になんて興味はない。ただ、人の不幸が好きなだけだ。
それでも、婚約はなかなか破棄されなかった。
ナタリアに優しくした記憶なんてない。
けれど、彼女は文句ひとつ言わなかった。
なぜなら私は、ナタリアの初恋。深く愛されているから。
可哀そうな令嬢だ。決して私に愛されることはないのに。
でももう、十分だと思った。
彼女の悪評は広まったし、アニタが私の恋人だという誤解も、いつまでも放ってはおけない。
なので今日、この庭園で決着をつけるつもりだった。
──結果が、「クソ婚約」だ。
……結局、彼女も同じことを思っていたのだ。
ナタリアの義弟への仕打ちは、学園中が知っている。
証言してくれる者もいるだろう。ユーリィも、きっと。
ガートナー侯爵家と争うことになっても、構わない。
私は、負けない。
ユーリィを守るためなら、どんな手でも使ってやる。
読んで頂いて有難うございました。