㉙ 過去は変わらない
気がついたら、ベッドに寝かされていて、ユーリィが泣きそうな顔で私を見ていた。
頭がずきっと痛む。側頭部に裂傷、十針以上は縫ったらしい。
もしあのとき、ユーリィが私を引き寄せなければ、燭台が頭部を直撃してもっと酷いことになっていた。
「……泣いてるの?」
「貴方に、こんな怪我をさせてしまって……」
握った私の手に、彼は何度も口づけて、そして本当に泣いていた。
悔しいけど、義弟は泣き顔まで美しい。
小悪魔が流す涙は氷の粒だと思っていた。でも私の手に落ちるそれは、ちゃんと温かい。
──こんなふうに、泣かせたかったわけじゃないのに。
「勝った……とは言えないわね」
「なにと戦ってたの? こんなひどい怪我をして」
「あなたを、泣かせてやりたかったのよ」
「簡単だよ? 僕に『嫌い』って言えばいい。いくらでも泣くよ」
──なんだ、そんな簡単なことだったんだ。
でも、やっぱり勝てない。
嫌いだなんて、言えないもの。
ユーリィは涙を拭こうともせず、私の手を握ったままだ。
その視線がまっすぐすぎて、思わず目をそらす。
「……泣き虫ね。そんな顔、しないで」
握られていた手を、そっと引き抜く。
「どんな顔?」
「全部自分のせいみたいな顔よ」
彼は袖で涙を拭った。
「僕のせいだよ。だって、姉上を守れなかった」
「十分守ってくれたわ。この程度で済んだもの」
そう告げた途端、ユーリィの顔に影が差す。
「あの姉妹、許さない。死ぬほど後悔させてやる」
「怖いこと言わないで。……あの後、どうなったかしら」
「王宮で事件を起こしたんだ。もうアンダーソン家は終わりだよ」
また彼らは、私を憎むだろうか。
頭の傷よりも、心が痛む。
「私は……どうすれば良かったのかしら」
「そんなこと考えないで。過去は変わらない」
「そうね」
例え過去に戻れたとしても、私はヒューイとは復縁しない。絶対に。
「ヒューイが姉上を手放した。それで幸福が逃げていった。その幸福は、僕のもとに舞い込んだ」
「ユーリィは、幸せなのね」
「幸せだよ」
「……そう。なら、よかったわ」
ユーリィはただ、穏やかな笑みを返した。
「だからアンダーソン家が憎む相手は僕だ。ナタリアじゃない」
「誰も、あなたを憎んだりしないわ」
──憎まれ役は、いつも私。
そして、こんな私を愛してくれるのはただ一人、ユーリィだけだ。
しばらくして、スエリル卿が医療室に来た。
「老公が……ナタリア様に謝罪したいと申していますが」
今は、誰にも会いたくなかった。思った以上に、心が削られている。
「お断りして。……少し疲れたの」
「僕が話してくる」
「ええ、お願い。でも、ひどいことはしないでね?」
「……わかってます」
二人が出ていくと、自然に息がこぼれた。
義弟に任せれば大丈夫――そう思える安心感がある。
医師に頭痛を訴えると、薬が出された。
飲んで間もなく、私は深い眠りに沈んでいった。
* * *
目を開けると、薄暗い部屋の中で、ユーリィが椅子に腰掛けていた。頬杖をついたまま、眠そうにまぶたを伏せている。
「……ユーリィ?」
かすれた声に、彼の目が開いた。私を見ると、安堵の色がさっと広がる。
「ナタリア……まだ痛みますか?」
「大丈夫よ、話し合いは終わったの?」
「ええ。……さっきまで父上もここにいたんですよ」
「そう……」
眠っている間に、父が登城してアンダーソン家との話し合いも終わり、今は王太子殿下と話し合ってるらしい。
アンダーソン老公は、事件を起こした姉妹を連れてきた責任を問われている。
マリアンナは、婚約者と引き裂かれ、精神を壊していた。
「彼女は、医療施設に収容されると思います」
「そうね」
――私だって、一歩間違えれば命の危険があった。同情する余裕なんてない。
私が眠っている間に、全部終わっていた。
「ありがとう、ユーリィ」
「……僕は、何も……。姉上、婚約のこと、僕を恨んでいますか?」
「急に、どうしたの?」
「ヒューイが婚約破棄を宣言した瞬間、今しかないと思って……僕は一人で突っ走りました。必死だったんです」
「私は……流されるだけなのは、悔しかったわ」
「『愛されるのは幸せ』――姉上がそう言ったんです。だから僕は、間違ってないって信じて……貴方を絶対に手放したくなかった」
婚約のことを、義弟と正面から話すのは初めてだった。ずっと、互いに避けてきた気がする。
「間違ってないわ。私は、私の大切な人には愛されなかった。父にも、ヒューイにも、友達にも。だから……あなたが本当に私を愛してくれるなら、幸せよ」
素直に言葉がこぼれた。
ユーリィはかすかに微笑む。
「……姉上がそう言ってくれるなら……僕、自分を許せる気がします」
私も、少しだけ心が軽くなった。
「私なんかの、どこがいいのかしら。ほんとうに……全然分からないわ」
「ナタリアのいいところ? 全部です。そしてそれは僕だけが知っていればいい」
こういうセリフを義弟は照れもせず言ってくるから、返事に困る。
「お加減は如何ですか?」
医者が尋ねてきて「かなり楽になりましたわ」と、私は答えた。
けれど、奥に残る痛みが消えるには、きっとまだ時間がかかる。
読んで頂いて有難うございました。




