⑳ 後悔させてやる(ヒューイ視点)
話がまとまるはずだった。
婚約は継続、責任も問われない。その条件で、こちらは王家に十分すぎる対価を用意していたのに。
結果は、婚約解消。
しかも――責任はこちら、って、どういうことだ。
机の上、スエリル卿が差し出した同意書に、父は黙ったまま署名した。
そして、それを払うように、すっと私の方へ紙を滑らせてきた。
見た瞬間、目を疑った。
そこにあったのは、膨大な額の――慰謝料請求。
他にも、こまごまと制約が書かれていたが、頭に入って来なかった。
「これで、ナタリアと縁が切れるんだな!」
書きなぐるように署名した。
「……なんてことだ、お前は本当に、私の息子なのか?」
父の声が、ひどく冷たくて。私を憎むような響きだった。
「母が、裏切るなんて……そんなはず、ありません!」
咄嗟に言い返したけれど、内心では怖かった。
父はしばらく口を閉ざして……ぽつりと呟いた。
「私だって、信じたい……しかし……」
親子鑑定も、血筋の鑑定も、父は拒んだ。
……もし万が一、父が“本物”の公爵家の血じゃなかったら。
その瞬間、全てを失うことになるからだ。
「私は、貴方の息子です! 正当な跡継ぎです! 髪だって、目の色だって……同じでしょう!」
最後は声が裏返った。必死だった。
でも、祖母も、曾祖母も、もう亡くなっていて……もはや確かめる術もなかった。
「祖父は、まだ生きています。きっと……何か、知っているはずです!」
そう訴えた私に、父は苛立ち――
「黙れ!」
怒鳴り返された。
……どうして、こんなことになったんだろう。
ナタリアと、ちゃんと向き合っていればよかった。
彼女を大切にしていれば、こんなことは……
私は、アニタの言葉を信じた。ユーリィに惑わされてしまった。
結果、婚約破棄を一方的に宣言してしまった。
そのとたん、ユーリィは牙をむいた。
まるで、今まで我慢してた獣みたいに。私に真っ向から挑んできた。
――返り討ちにするつもりだったのに。
今のこのザマは、いったい、何だ。
しかも、ユーリィは切り札を持っていた。
“王弟の隠し子”という、想像を超える出自。
それを突きつけて、あっさりとナタリアの婚約者の座に収まった。
王家からも、同意書が差し出された。
話し合いの内容は他言無用。概ね、そんな内容だった。だけど――
「……なぜ、鉱山を差し出さねばならないのですか?」
抑えた声で問うと、父は首を振った。
「口止め料だ。今日のことは、目をつぶる。……そういうことだ」
父は、上を見上げて「はぁ」と短く吐息をこぼした。
その顔は、今朝よりもずっと老け込んで見えた。
「……お力になれず、申し訳ありません」
スエリル卿は、深く頭を下げた。
だけどその目は、はっきりと私を責めていた。
情けない。――分かってる。言われなくても、自分自身がそう思っている。
リゼッタ王女との婚約話は、まだ生きていた。
王女本人は、強く拒んでいるらしい。だが王家としては、どうやら前向きに進めるつもりのようだ。
ナタリアとの件で、地に堕ちた我が名に――まだ、価値があると見なされているのなら。ありがたい話だ。
……リゼッタ王女が降嫁されれば、公爵家の体面は、多少なりとも保たれる。
財産の多くは失った。けれど我が家は、筆頭公爵家だ。
その誇りと地位は、何があろうとも譲れない。他家の追随など、断じて許されるものではない。
今度こそ、父の期待に応えたい。
私には、それができる。そうでなければ、生きる意味もない。
……そして、ユーリィ。
お前だけは、許さない。
私の目の前でナタリアを奪い――勝者の顔で、こちらを見下ろした。
いずれ必ず、後悔させてやる。
その傲慢さを、粉々に砕いてやる。
この時、不意に思いついた。
もしも――陛下が、ユーリィの存在を知ったなら。
王弟の死後、気力を失い、今は床に伏していると聞く。
だが、アドニス殿下によく似た甥が突如として現れれば、王家に新たな波風が立つだろう。
その中心にいるユーリィは、もはや“問題”そのものとなる。
隠していたガートナー侯爵家も、陛下から直接の叱責を受けるだろう。
ナタリアとユーリィの婚約も――白紙に戻るかもしれない。
……そのときの、ユーリィの顔が見たい。
どうすれば、陛下の耳にその存在が届くだろう。
それは、王家との密約を破ることを意味する。
だが――
あの忌々しい義弟に、何の報いもないまま終わらせるなど、到底、私の矜持が許さない。
読んで頂いて有難うございました。




