⑩ 動き出すなにか
「婚約破棄を取り消したいと、望んでおられます」
ポートマン卿の説明に、息が止まった。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
応接室にいるのは、父とポートマン卿、私とユーリィ。
いつになくピリついた沈黙の中、卿は淡々と続きを口にする。
「公爵令息が、正式に謝罪したいと申し出ておられます。それに伴う迷惑料も、相応に支払う所存とのことです」
「……負けそうなので、全部なかったことにしようってわけか」
ユーリィがぼそりと吐いた。
卿は、それを否定せず、ただ静かに頷いた。
「私としても、悪くない話だと思うのですが。いかがでしょうか」
差し出された問いに、答える間もなく、父が先に口を開いた。
「……いや、受け入れない」
……えええええ⁉
思わず心の中で叫んだ。
ちょっと待って、お父様どうしたの。
もしかして……私が本当に尼僧になったら困るって思った?
「……そうですか。あくまでも、婚約は破棄となさいますか?」
「そうだ」
「承知いたしました」
ポートマン卿が頭を下げたので、私も口を開いた。
「謝罪は必要ないと、お伝えください」
「ヒューイ様は“勘違いだった”と仰っております。ナタリア様と、もう一度話し合いたいと──」
「騒ぎを起こしておいて、“勘違いでした”だなんて、よくも言えたものです」
「……そのように、お伝えいたします」
そう、私がこんな安っぽい提案に乗るとでも思ったのなら、見くびらないでほしい。
絶対に、婚約は破棄してみせる。
「では、私はこれにて失礼いたします」
そう言って卿が扉を開け、部屋を出た。
そのあとに続いたのは──ユーリィ。
さっさと退席してしまった。
……ちょっと素っ気ない態度が気になった。
「……ナタリア」
父の声で、ぼんやりしていた意識が戻る。
「はい、お父様」
「本当に、断っていいんだな」
「もちろんです。……それに、アニタとその取り巻きの令嬢たちも、絶対に許しません」
「……そっちは、もう抗議しておいた」
「お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
「構わんが……」
父は、もう一度私の目をじっと見てきた。
「……後悔しないな?」
「致しません。お父様。──次こそは、もう少しまともな方を見繕ってくださいませ」
父は小さくため息をついて、目をそらしながら手で扉を指した。
──退室ね、了解しましたわ。
*
婚約破棄を言い渡されてから──まだ、たったの三週間しか経っていない。
それなのに。
父が「断る」と言ったのが、いまだに信じられずにいる。
あれほどまでに私に「我慢しろ」「貴族とはそういうものだ」と言い続けてきたあの父が、まさか。
もしかして、もう次のお相手が内定しているのかもしれない。
そうでなければ、あんなにもあっさり断った理由が説明できない。
──まあ、別に構わないけれど。
ヒューイ様に対して、私はこれっぽっちも未練なんてないから。
次にご縁がある方がどんな方でも、お顔にはそれほどこだわらないつもり。
でも……ポートマン卿くらい素敵な人だったら、それはちょっと、嬉しいかもしれない。
性格は、そうね──おおらかで、優しくて、私をそのまま包み込んでくれるような、そんな人がいい。
私は、生意気で、少しとげとげしくて。
だから、ずっと年上の人のほうが、相性がいいんじゃないかと思う。
「比べるのも変だけど……まあ、義弟とは正反対の人ね」
そうつぶやいて、少しだけ笑った。
──その夜のことだった。
夕食が終わると執事長が、廊下で私を呼び止めた。
「ナタリア様。明日から、しばらく学園はお休みなさるように、とのことです」
「……え? どうして?」
「旦那様のご命令ですので」
それきりだった。
執事長は、それ以上は何も教えてくれなかった。
妙だ。
何かがおかしい。
私の知らないところで、何かが確実に、動いている。
でも、それが何かを知る術は──今のところ一つもなかった。
読んで頂いて有難うございました。




