第1章-4
ラウルが目覚めたのは、アルスに魔術で闇を吸い取られてから数日経った頃だった。
ゆっくり起き上がる。あたりは薄暗く、カーテンは閉められている。目を凝らしてみると、近くのソファでヘイレンが眠っていた。彼だけのようで、シェラとアルスの姿はなかった。
ラウルはしばらく考え込んだ。随分と眠っていたようだが、はて、なぜ眠っていたのだろうか。
ポルテニエを襲っていたイカのようなタコのような魔物を屠った後、アルスや港町のこどもたちを療養所へ送り、アルスが目覚めたと聞いて部屋へ行き……火が闇毒に侵された話をしたところまでは思い出せた。それからが思い出せない。頭痛が思考を妨げてくる。
「んー……」
ラウルはこめかみを揉んだ。自分の身に何が起きたのかわからないのは気持ちが悪い。ベッドからそっと這い出て少し歩き、極力音を立てないようにカーテンをゆっくり開ける。外は闇だった。空を見上げると時折星が流れていたが、薄雲がかかっているのか、少しくすんでいる。
このくすみが、瘴気でなければいいのだが。
地界が瘴気で侵されてしまっていたら、気づかないうちに内臓が汚染され、腐っていく。痛みを覚える頃には、もう手遅れの状況だ。それくらい瘴気はサイレントキラーである。
核に痛みが走り、咄嗟に胸を押さえる。深呼吸を意識したいのに、つい息を止めてしまう。
ふっ、と背中が暖まった。振り返ると、淡い白い光が浮遊していた。それはすうっとラウルの胸に入っていった。全身が暖まり、心地良くなった。
「……ヘイレン?」
光が弱まると、ラウルと向かい合うように金髪の青年が立っていた。右手を胸元あたりまで挙げてラウルに手のひらを向けていた。彼の癒しの力は絶大だった。核が洗われていく感覚に、自然と息をゆっくり吐いていた。
「ありがとう、とても楽になった」
自分でも驚くほどに、お礼を述べる声が掠れていた。軽く咳払いをしたが、これで治るようなものではないことはわかっていた。
「お水飲む?喉乾いてそう」
ラウルが頷く前に、ヘイレンは率先して簡易キッチンに向かい、冷蔵庫から飲料水を出してコップに注いだ。ラウルは黙って近くの椅子に座った。ヘイレンからコップを受け取ると、一口飲んだ。乾いて張り付いていた喉が一気に潤う。
ヘイレンも空いていた椅子に座った。少し不安げな表情だったので、ラウルは微笑してみせた。
「シェラから聞いたよ。闇に囚われかけていたんだって」
「……そうか。私が眠っている間、何か進展あったか?」
ヘイレンは黙って首を横に振った。
「んー……その、私は……申し訳ないが何も覚えてなくて……」
「アルスがラウルに溜まってた闇を吸い取ったらしい。ボクは見てないけど。部屋に戻った時には、ラウルもアルスも寝てたから」
「……闇を……吸い取った……か」
アルスの魔術はやはり、コア族を救う力がある。ラウルは改めて確信した。全ての『火』を闇毒から救えるのは、彼しかいない。
「核の共鳴の力だっけ?あれは使っちゃダメだってアルスが言ってた。特にラウルは、闇に囚われやすい体質なんだって」
まったく困った体質だな、とラウルは苦笑いした。
「しかし、共鳴させないとエルビーナの居場所を突き止めることができない」
「そんなこと無いよ。それしか方法が無いわけじゃないでしょう?」
ラウルは危うくコップを落としそうになった。中の水が少しだけ跳ねた。「アルスがね」とヘイレンは続きを話した。
「ラウルから取り込んだ闇で、アルスはエルビーナさんらしきヒトを把握したんだって。しかも、闇毒に侵されるまでの経緯もわかったみたい」
「……なんだって?」
落ち着こうと水を飲もうとしたが、手が震え出してまたコップを落としかけた。ヘイレンがそっと手を添えてくれたので、水浸しは免れた。2、3回深呼吸をし、震えが治ったところで、ヘイレンは手を離した。ラウルは黙って水を飲んだ。
「……で、エルビーナはどうして侵されたんだ?」
「ずっと虐げられていたことが悲しくて悔しくて、生きていくのが嫌になった……からだって」
大方予想通りの答えに、ラウルはため息をついた。
「ボク、精霊がエルビーナさんを賢者に選んだ理由が知りたい。賢者候補だったヒトを選ばなかったのには、何かあるんじゃないかな」
「……知ってどうする?」
少し強い口調になるも、ヘイレンは怖気づく様子はなかった。
「エルビーナさんだけが本当のことを知っているはず。自分が賢者になった理由も、虐げられてしまったきっかけも。賢者候補だったヒトのことも、何か知ってるかもしれない。ボクはそれらを知った上でエルビーナさんを助けたい。そう簡単に、命を捨てて欲しくない」
ラウルはヘイレンの気持ちが理解できなかった。エルビーナを知って、同情でもするのか?虐げられてもいいのか?……先日の感情がまた沸々と湧いてくる。
闇毒をアルスの力で取り除けたとしても、彼女に残るのは絶望感だけだ。彼女は死を望んでいる。それなのになぜ、救おうとする?
「死を望むものを生かそうとするのは、拷問にも程があるんじゃないか?」
自分でも驚くほどに、その声は低く闇を孕んでいるかのようだった。ヘイレンもこれにはさすがに唖然としている。……ダメだと思い、また少し水を飲んだ。
思考がおかしい……気がする。
「……ラウル、あんまり大丈夫じゃなさそうだね」
「……私は……エルビーナを殺そうとしているのだろうか。あまり関わりはなかったにせよ、同族だからこそ助けなければならないはずなのに……彼女をこの世から追い出そうとしているよな……」
自分自身に絶望しかける。負の連鎖というものだろうか。悪い方向にしか考えられなくなっていた。
「ヘイレン、すまない。今後おそらく私も完全にダメになると思う。その時は……覚悟しておいてほしい」
「覚悟?」
「君たちを……」
「ダメだよ、そんなこと言っちゃ」
ヘイレンに肩を掴まれた。無意識にコップをテーブルに置いた。金色の眼に見つめられる。視線を外すことは、できなかった。その美しい眼に、吸い寄せられていく。
「自我を失うな」
「……え?」
ヘイレンらしからぬ言い方に、目を見開く。しかしその言葉が身体に浸透していくと、己の心に蟠る闇が押し出されていった。そして徐々に、意識が薄れていった。
ヘイレンは前のめりに倒れてきたラウルを受け止めると、ぎゅっと抱きしめた。身体でラウルの闇を感じとる。彼には戸惑いがありそうだ。
ーー『火』を闇毒から救わなければ、地界は死ぬ。
火を救うには、エルビーナの核を浸した闇毒を抜かねばならない。あるいは破壊するか。後者を選ぶことはすなわちエルビーナの死を意味する。
エルビーナは死を望んでいる。それならば望み通りに核を破壊すればよいのではないか。そうすれば彼女は死に、火は救われる。それでいいじゃないかーー。
「ラウル……」
ヘイレンは、そのまま朝までずっとラウルを抱きしめていた。
陽が分厚い雲に覆われているせいで、朝になっても薄暗いままだった。寒期は雪が降る。しかしポルテニエでそれは降らないはずだった。
「……マジか」
桟橋からぼんやりと海を眺めていたアルスの頭上から、白い結晶がひとつ、またひとつと降りてきた。地界に降りてきて、ポルテニエで雪を見たのは初めてだった。背後で「雪だー!」とはしゃぐこどもたちの声が聞こえてくる。
「こりゃあ漁に出られねぇなぁ」
船を出しに桟橋へやってきたフィエドが、竿と魚籠を持ってアルスの隣に立った。アルスの胸元までしかない背丈は、おとなの男性としては小柄なほうだ。日焼けした肌に少し白髪の混じった黒髪。年中半袖で過ごしている。エレナと同様にタフな漁師だ。
「小雨くらいなら出ちまうけどよ、『雪が降る海は大蛇が走る』っつって、昔から云われてんだよな」
「大蛇……?」
「あるところでは『レヴィアサン』って呼ばれてる、海の神様の化身だ」
そいつは魔物ではないらしいことに、アルスは少し安堵した。
さすがに今日は冷えるのか、フィエドは肩を震わせていた。アルスがコートを脱ごうとすると、彼は「大丈夫だありがとな」と手をひらひらさせた。
「今日はチビたちの相手でもしてくるわ。滅多にねぇからな、ゆっくりできる日なんてさ」
じゃあな、と短く挨拶をしてフィエドは戻って行った。再びひとりになる。降ってくる雪の量が、徐々に多くなってきた。アルスは手のひらを広げてみた。ふわふわの雪が着地した瞬間、水滴となった。
「ここにいたのね。ラウルが起きたわ」
振り返るとミスティアが傘をさしてやってきていた。暖かそうな白いコートを羽織っている。
「今ヘイレンが様子を見てくれてるけど、あんまり調子は良くない感じだったわ。ぼーっとしてるし、かと思ったら何か思い悩んでいるのか頭を抱えて俯くし……」
またあいつ、闇毒を取り込んだのだろうか。アルスはため息をつきつつ、桟橋を後にした。
アルスが入院していた一室は、ラウルの病室に変わっていた。部屋に入ると、彼は起きていて、ヘイレンと向かい合って小さなテーブルを囲む形で椅子に座っていた。俯き加減で目を閉じていたので、アルスは近寄って彼の肩をやや強めに掴んだ。ハッと我に返ったラウルの瑠璃色の眼はくすんでしまっていた。
「お前なぁ……また使っただろ、共鳴の力。使うなってヘイレンから聞いてるだろ?」
ヒトの忠告を聞かないラウルは初めてかもしれない。アルスは少し不安になった。対するラウルは、ごめんと小声で謝るも、眼は虚だった。
「アルス、違うの。ラウルは使ってない。受けてしまってるみたいなんだ」
横にいたヘイレンが訴えた。どうやら共鳴の力を相手がラウルに向けて放っているらしい。強制的に闇毒を流し込まれている状態だと言いたいようだった。
「拒否して遮断できないのか?」
アルスは目を合わせるために、肩から手を離し、片膝をついてラウルに問うた。ラウルはアルスの赤と紫のオッドアイを見つめ返すと、やや見開いた。
「……最初に私が、エルビーナに共鳴で呼びかけたのがいけなかった。アルスの忠告通り、私から彼女に共鳴しないようにしてたんだが……っつ」
ラウルは額を押さえた。嫌な予感がした。アルスはもう一度、今度は両肩を掴んだ。
「ラウル、やめろ」
「わかってる!でも……できない。一方的に……来るんだ……拒否できない」
ラウルは唸りながら頭を抱えた。身体が震えている。もう一度闇毒をアルスが取り除くしかなさそうだが、やっても同じことの繰り返しになるだろう。アルスはため息をついた。
「じゃあ、今、エルビーナはお前に何と言ってきた?」
「……え?」
ラウルはきょとんとして目を瞬かせたが、何だったかなと顎に手を添えて思い出そうとする。眉間に皺を作りながら、小さく唸った。
「……燃えろ。瘴気に塗れろ。毒されて皆死んでいけばいい。ワタシを死の淵へ追いやった報いだ……」
そのラウルの声は、彼の声ではないように聞こえた。女性的な、けれども怨みのこもった声。アルスはラウルの額に右手を当てた。これ以上放っておくと、あの頃のラウルになる。
アルスはまた、闇を吸い取った。寄りかかってきたラウルを抱えてベッドに戻した。酷い痛みが全身を襲う。アルスはベッドのそばでくずおれた。
「アルス!」
ヘイレンが咄嗟にアルスを支えた。蒼白な顔で、苦しそうな表情を見せている。ヘイレンは慌てて癒しの力を使おうとしたが、アルスに止められた。
「殺す気か……?」
「……あっ!」
ヘイレンは青ざめた。聖属性の力を宿すヘイレンが、闇属性のアルスに力を注ぐことは即ち屠ることである。思い出してパニックになり、徐ろにアルスを強く抱きしめた。「うっ」とアルスは声を漏らしたが、口角は少し上がっているように見えた。
「ごめん……」
「……冗談だ。お前の癒しの力では……死なねぇってわかってっから。ただ……この痛みは……魔法では取れねえ。一時的なもんだから……放っといてくれ」
そうは言っても、とヘイレンは言い返したくなったが、グッと己を抑えた。力を緩めると、アルスはするりとヘイレンの腕から抜け出した。やや転がって、それから身体を丸めて動かなくなった。荒い息遣いが部屋に小さく響いていた。
地の国アーステラの首都ダーラムの、召喚士が集う家にシェラはいた。ラウルがアルスに闇を吸い取られた日の2日後、最上位召喚士ヴァロアから招集がかかったためだ。
この時アルスは回復し、ラウルはまだ眠っていた。アルスもミスティアもしばらく滞在すると聞き、シェラはヘイレンを残してポルテニエの療養所を発った。
家に着くと、ロビーは緊迫した雰囲気に包まれていた。このピリピリした状況は、約1年前から続いている。シェラがヴァルゴスの代わりに火の国の王族の御魂送りを行った頃からだ。
今もなお、ヴァルゴスの消息は不明のままだった。
大広間の窓から外を眺めていると、扉の開く音がした。金の刺繍が施された深緑色のローブ。たったひとりの召喚士が袖を通せる、最上位の証だ。シェラは姿勢を正し、最敬礼した。ヴァロアはシェラをソファへと促した。
「これは全員に確認している事なのだが、ヴァルゴスからシェラへ直接の連絡はないか?」
「ありません。召喚獣を通じても、同じく」
そうか、とヴァロアは顎髭をさすった。
「皆、巡礼先で彼を探してくれているが、さっぱりでな。さすがに1年も探し続けていると、嫌な考えをしてしまうものだな」
地界中どこを探しても見つからないとなると、まさか天空界か?とシェラは思った。ヴァロアにその可能性を聞くと、最上位は首を横に振った。
「いるとしたらヴィルヘルだろうと思い確認した。見つけたら知らせてくれることになっているが、何もない」
「そうですか……」
互いにため息をつく。シェラの召喚獣エールも、ヴァルゴスの召喚獣ルシアとのコンタクトを試みてくれてはいたが、成果はない。完全にお手上げ状態だった。
ヴァルゴス様が行きそうな場所……シェラはずっと考えていたが、妙に視線を感じるので顔を上げると、ヴァロアが凝視していた。
「あの……どうかなさいましたか?」
「いや、ほかに伝えなければいけないことがあったんだが……内密に、と伺った件だ」
はて、とシェラは首を傾げた。ヴァロアは目を閉じてううむと唸ると、しばらく考え込んだ。ごぉう、と外で突風が吹いた。部屋に響いてしばし、ヴァロアはハッとした。
「風……ウォレス王だ!思い出したぞ」
ヴァロアのすっきりした表情を見て、シェラは少し複雑な気持ちになった。思い出せたのはいい事だが、よりによって風の国の王からの伝言とは……。『代理』で王に君臨している身とはいえ、威厳の無さにいたたまれない気持ちになる。
「忘れてしまっていたなど……王に失礼だな」
ウォレスならそこまで気にしなさそうだけどな、とシェラは苦笑する。
「改めて……これはシェラにのみ伝える件だ。付きビトのヘイレンだったか、彼には話してもいいが、それ以外には口外しないように。いいかね?」
シェラは黙って頷きながらも、何を言われるか勘づいていた。ヘイレンに話してもいいということは、おそらくあのジンブツのことだろう。
「昨年の涼期の暮れ頃に、オッドアイのジンブツがライファス遺跡で拘束された。ロキアーシュカという女性だ。4年前、エクセレビスでヘイレンを襲ったとされるジンブツだ」
ライファス遺跡は、風の国ヴェントル領のトア・ル森北部にある。以前、バルドという同じくオッドアイの魔導士と一戦交えた場所でもあったが、まさか同じ場所に潜んでいたとはと、シェラは内心驚いていた。
「大人を虐殺したはんにんは、バルドという魔導士だと見て年明けに捜索を再開したが、手がかりなしだそうだ。……闇の種族は隠れるのが上手だな」
「ロキア……ロキアーシュカは、エクセレビスに?」
「ああ。ウィンシス城に投獄されている……という程で、実際は牢屋ではなく一室で軟禁状態だそうだ。ウォレス王はロキアが虐殺犯でないと判明してから、ヘイレンの殺害未遂の罪に切り替えて審判にかけると声明していらっしゃる。普通なら極刑だろうが、審判側に即判決とせず留意してくれと命令したらしい」
命令というより懇請のような気がするな、などと思いつつも、口に出さずにただ頷くだけにした。
「ヘイレンを連れて城まで来てほしい。これが王の要請だ。ヴァルゴスのことも心配ではあるが、向かってくれるかな?連絡は私からしておく」
「承知しました。……あの、王へは3日後くらいに謁見するとお伝え願えますでしょうか?」
「何かあったのかね?」
「ええ……ちょっと」
シェラはラウルのことを話すべきか一瞬迷った。言いあぐねていると、ヴァロアは「まあいい」とこれ以上追求してこなかった。
「では話は終わりだ」
そう言ってヴァロアが立ち上がったので、シェラも追って立ち、頭を下げた。
大広間を出てロビーに着くと、白のローブの召喚士たちがあるジンブツを囲んでいた。何事かと近づいてみると、ひとりがシェラに気づいて身を引いた。それにより、囲まれていたジンブツが露わになり、シェラは絶句した。
「今しがた、こちらへ戻られたんですが……こんな状態で……」
身を引いた召喚士が、声を震わせながらシェラに説明した。ローブは着ておらず、黒のチュニックとズボン姿で、全身傷だらけのヴァルゴスが、治癒を得意とする上位召喚士に応急処置を施されているところだった。
「……ガーデンに連絡は?」
「してます。もう時期来られるかと」
シェラはヴァルゴスのそばにしゃがんだ。手首をそっと掴むも、脈は弱々しい。皮膚を埋め尽くさんとばかりに痣と切り傷があった。上位召喚士は首に魔法を集中的にかけている。シェラの鼓動が早まる。
首は……致命傷になりかねない。
「何事かね……!」
低い声に、皆一斉にヴァロアを見た。対する最上位召喚士は、先ほどのシェラのように目を見開いて絶句していた。
程なくして、ヒールガーデンから救護隊が駆けつけ、ヴァルゴスは運ばれ、治癒の召喚士も付き添いで家を出て行った。しんとロビーは静まり返った。
「……皆、各々戻りなさい。ヴァルゴスのことは、追って連絡する」
シェラも含め、召喚士たちは黙って頷いた。