第1章-3
水の国ウォーティス領にある樹海。そこは年中薄暗く、魔物の住処となっている。夜は特に活発化し、樹海を通ろうものなら群れを成して襲ってくる。
そんな場所に、石と木で造られた小屋がポツンと佇んでいた。かなり前に建てられたものだが、使われている木材が頑丈過ぎるのか、雨で腐ることもなく虫に食われることもなくで、綺麗な状態を保っている。
住むヒトがいれば木材も生き続ける、などと言って、小屋に住むことを承諾してくれた、港町ポルテニエの漁師でこの小屋の持ち主であるフィエド。時々町に悪さをしてくる、樹海に生息する魔物の討伐が、アルスが小屋に住む条件でかつ収入源の一つとなっていた。
昨夜はいつになく騒がしかった。護身用の短剣を手に持って小屋から出ると、がたいの良いアルスでも乗れるほど大きな狼が頭を低くして唸っていた。足音を聴いて一瞬こちらを向くも、犬歯を剥き出しにして警戒を解かない。肩当たりに立つと、狼は再び前を向いた。そっと首元をひと撫でする。
「……どれくらいいそうだ?」
アルスは狼にそっと話しかける。スンスンと匂いを嗅いで魔物の数を確かめた狼は、少し頭を上げた。
『20か30はいる。小型多め、強い力は無い。街には向かう様子はなさそう。でも、こっちを見てるヤツがいる。そいつは強そう』
狼は一歩、二歩と前に出た。アルスは短剣を鉤爪に変化させて右手に装備した。刹那、ぎゃーぎゃー喚く魔物の鳴き声が樹海に響いた。
狼が遠吠えした。魔物が木々の合間を縫って、開けた小屋の近くに飛び出してきた。その数10。しかし、奴らは狼とアルスを認めると、踵を返した。慌て過ぎたのか、木に勢いよくぶつかり、皆バタバタとひっくり返った。……なんだこいつら。
アルスは鉤爪を短剣に戻してホルダーにしまい、近くにいた魔物に近寄ってみた。コウモリに似たそいつは、口を開けて気絶している。こいつらに戦意を感じない。咆哮にパニックを起こしただけなのか?
『アルス!』
狼に呼ばれて、再度短剣を取り出す。直後、背後から雄叫びと共に巨大な魔物が飛びかかってきた。振り返りざまに鉤爪を振るうと、魔物の首を切り裂いた。鮮血をアルスにふっかけてくるのを飛び退いて避けた。身体が落ち、次に頭部がごろんと転がると、ぼうっと燃えた。魔物の最期は大体、燃えるか紫混じりの光を放って消失する。
もう一体同じような魔物が、間髪を入れずに飛びかかってきた。今度は前脚が異常に発達しており、鋭い爪が振り落とされる。それを軽やかに躱すと、ヤツの爪が地面に食い込んだ。必死に抜こうと足掻いているところに、アルスが横から鉤爪で裂いた。もちろん、頸部を。
鮮血が飛び散るかと思ったら、火を吹いた。それも、紫と黒を混じらせた異様な色だった。煙は紫色だった。アルスは小屋の玄関付近に戻った。
「ヴァナ!」
呼ぶと、魔物を挟んで反対側にいた狼が、小屋の裏を通ってアルスの元へ駆け寄った。アルスはすぐに全体を見、外傷が無いのを確認すると、鼻の周りに黒い靄をかけた。ヴァナは少し鬱陶しそうな顔をした。
「あの火が消えるまでの辛抱だ。あれは猛毒だ、吸い込むと死んじまう」
ヴァナの首元を撫でながらも、アルスの視線は火に向いていた。こんな異様な色の火は初めてだが、どことなく嫌な予感がする。
目の前の火は、瘴気を孕んでいる。アルスはヴァナにその場から動かないように指示し、火の元に近づいた。闇の種族に瘴気は効かない。種によっては餌でもあるが、アルスには糧にならない。
足元で魔物の頭部が不気味にこちらを見ている。燃えながらほんの僅かに口が動いた。
『……エ……ア……』
アルスに思念を送ってきた。仕方なく受けてみる。魔物と対話が出来る能力を持っていると、たまにこうやって恨み節を投げつけてくるのだが、こいつは少し違った。
「……ほお」
思わず声が出る。魔物の頭部は、アルスにひとしきり訴えると、白目になって力尽きた。炭のように黒くなり、やがて灰となって消えていった。
喚いていた小型の魔物の気配はいつの間にか消えていた。火も消え、闇夜も静けさも戻ってきた。アルスはふう、とため息をついた。
ヴァナの元へ戻り、靄を解く。狼は顔をぶんぶんと振り、次に身体をぶるぶると振るわせた。そして、小さくくしゃみをした。
魔物騒ぎから一夜明け、いつもと変わらない朝を迎えた。小屋のダイニングで、アルスはぼんやりと朝食をとっていた。カモミールティーを淹れ、バターを薄く塗った焼きたてのパンをかじる。テーブルのそばに敷いてあるラグの上では、ヴァナがくつろいでいた。大型の狼がうろつけるほどにこの小屋は広く、アルスがひとりで住むには十分過ぎるくらいだった。
死ぬ間際の魔物から聞いたことを思い返す。『火が闇に堕ちた。全ての火、炎は瘴気を吐き出し、世界を殺していくだろう』と。アルスはカモミールティーを一口飲んだ。……落ち着く。
『……アルス』
伏せの体勢で、けれども頭は上げた格好で狼がこちらを窺っていた。小さく首を傾げると、ヴァナは喉を鳴らした。
『あの魔物が言ってたこと、どういう意味?』
二又の尾がゆっくり左右に揺れている。どうやら興味があるようだ。
「この世の火という火が、毒されたってことだ。色は見ただろ?ヴァナは鼻が効くから、瘴気と化した煙を嗅げば鼻が腐って嗅覚も死ぬ。そして瘴気は、身体を内から腐らせて死に追いやる」
尾がぴたっと止まった。互いにしばし見つめ合う。ヴァナは小さく鼻を鳴らして前脚で数回擦った。
火が闇に堕ちた……か。地界はかつて『大地が闇に堕ちた』ことがあったな、とアルスは思い出した。あの時は地の国アーステラ領だけが被害に遭った。大干魃から始まり、地割れ、陥没、集落の崩壊。アルスが天空界から降りてきて間もない頃だった。
当時は原因がわからず自然現象かと言われていたが、範囲が地の国だけという点が不気味だという声が上がった。他の3国とは地続きなので、同じ現象が起きてもおかしくないはずなのに、なぜ地の国だけが、と皆怯えていた。
後に原因がわかり、アルスもなぜか関わることになってしまったのだが、あの時と原因が同じであれば、対処も同じだ。
アルスは残っていたパンを口に放り込み、カモミールティーを飲み干した。さっと片付けて身支度を整える。小屋を出る頃にはヴァナも起き上がり、ドアノブを起用に前脚で開けたところだった。……開け方を教えた甲斐があったな。
外に出た瞬間、アルスは戦慄を覚えた。前にいたヴァナが振り返る。その額を撫でる。
「……お前はここにいろ。樹海から出ないほうがいい。全ての火が瘴気を出す毒炎ということは、街に行けば充満している可能性が高いってことだ。あの靄を鼻にかけっぱなしにするのも嫌だろ?それに、いざって時に鼻が効かなかったらまずい」
ヴァナは少し唸ったが、ゆっくり瞬きをしてアルスに顔を押し当てた。アルスは顎を撫でて、それから頬を、そして首を愛撫した。
くぅん、と甘える声を出すヴァナだったが、アルスは「悪いな」と狼を残して小屋を後にした。
そうして向かった先は、港町ポルテニエだった。やはりいつもと変わらない風景が広がっているが、行き交うヒトビトには靄がかかっていた。恐怖や不安、怒り、恨みといった『負の感情』を抱えていると、ヒトの頭部を包むように靄がかかる。実際本当に靄が出ているのではなく、アルスの眼が『負の感情』を靄に具現化させて見えているのだ。
アルスは真っ先にフィエドの住む家に向かった。家の前で、彼のこどもたちが仲良く遊んでいた。アルスを見つけると、目を輝かせて駆け寄ってきた。
「アルスにぃちゃん、おはよー!」
元気よくそう挨拶をするなり抱きついてきた。もうひとりも同じことを言って飛びついてきた。……元気過ぎるこどもは正直苦手だ。
「……おはよう。ふたりとも、降りてくんねぇか。重たいんだが」
素直にふたりとも同じタイミングでアルスを解放する。大柄な闇の種族をニコニコしながら見上げるふたりは、顔も背丈も瓜二つ。ついでにおさげに結われた髪型も同じ。どっちがどっちか、いまだに見分けがつかない。
「……どっちがルーエだ?」
「ええー!?もういい加減覚えてよー」
「いや、お前たちマジで同じ顔で同じ服着てるからわかんねぇって……」
困っていると、ふたりはきゃっきゃと笑って家に向かって走って行ってしまった。アルスはため息をつきつつ歩き出す。片方がドアを開けて「ママー!」と大声で母親を呼んだ。ややあって、中からヒトが出てきた。
「あらアルスさん、おはよう!ごめんなさいねぇ、朝からうちのコたちが元気過ぎて」
フィエドの妻のエレナは、ややふくよかな容姿で活気ある女性だ。面倒見がよく、彼女のこどもたちだけでなく街中のこどもたちに慕われている。……とてもタフなヒトだ。元気なのは母に似たか。
「今朝、火使ったか?」
唐突にアルスに聞かれたエレナは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。だがすぐに「そうねぇ」と首を傾げながら言った。
「なんだか変な色だったから気味が悪くてすぐ消したわ。だから今日の朝食にスープを出せなかったの。あれ、なんなのかしら。アルスさん何か知ってる?」
アルスはエレナに昨夜魔物が訴えてきたことをざっくり話した。彼女は「あらまあ大変」と口元を押さえて目を丸くしていた。
「すぐに消したのなら直接の影響はないはずだろうから、そこは安心して欲しい。問題はこれからだ。火を使うことを禁じないと、みんな瘴気にやられちまう」
「そりゃ大変!町長に連絡しないと」
「町長には俺が話しておく。だからエレナさんは……」
突然、ばしゃーん!と波が岩礁を打ちつける音が派手に鳴り響いた。直後、低い咆哮が港町を震わせた。
「魔物だああああ!!」
波打ち際にいたヒトビトが一斉に逃げてくる。アルスは短剣を手に取った。
「家へ……」
「ルーエが!!」
一瞬のうちにアルスのそばにいた少女が、魔物の『脚』に攫われた。エレナの横にいたもうひとりは、悲鳴をあげながら母にしがみついた。
「中に入ってろ!」
ふたりが家に入ろうとするのを見て、アルスは駆け出した。10本の脚をくねらせ、そのうちの半分くらいはヒトに巻きついている。しかもみんなこどもだ。アルスは舌打ちをした。短剣を鉤爪に変え、魔力を込めた。
逃げ遅れたこどもを捕らえようとした脚をまず切り落とした。魔物が悲鳴をあげた。アルスはこどもを拾い上げて近くのおとなに預けると、魔物の本体に向けて魔法を放った。それは奴の口に吸い込まれた。ぼん、とくぐもった音が弾ける。今度は悲鳴をあげずに、ヒトを掴んでいない脚を伸ばしてきた。アルスを捕らえようとするも、1本、また1本と、鉤爪に切り落とされていった。
残り1本となったところで、魔物は脚を引いた。アルスは本体へ詰め寄った。しかし、そこで別の悲鳴を聞いた。視線を向けると、捕われたこどもを握る脚が彼らを強く締め付けている!
「…んのヤロウ!」
『動ケバ、コレヲ、握リ潰ス!』
魔物が思念を投げつけてきた。奴の口元はアルスの魔法によって焼け爛れ、黒ずんでいた。赤い眼をぎらつかせて睨んでくる。アルスが動こうものなら、こどもたちが犠牲となる。……さて、どうする!?
『ジャアナ』
魔物はこどもたちを握ったまま、海へ戻ろうと動き出した。同時にアルスも地面を蹴った。闇の魔法を脚に放つ。魔物は小さく呻き声をあげ、握っていたこどもを地面にたたき落とそうとした。宙を舞うこどもを、空中で受け止める。民家の近くに着地して、走らせる。その間にも、魔物はゆっくり海へ帰っていく。
アルスは突っ込んで行った。相手はアルスを見失ったのか気にしてないのか、攻撃してくる様子はなかった。闇の靄を相手の目にふっかけると、魔物は脚に力を入れかけた。鉤爪を渾身の力で振り回すと、次々と脚は身体から離れていった。しかし、切り落とされて落下していく間も、脚は締め続けていた。
このままでは窒息するし叩きつけられる!
アルスはまた舌打ちして、こどもたちを助けに行こうと向かいかけた刹那……。
「しまっ……!」
残っていた『脚』に気づくのが遅れた。横から素早い動きでアルスに巻きついた。その脚を切ろうと鉤爪を振るう前に、電気が走った。
「うあああ!!」
締め付けると同時に、魔物は雷の力をアルスに流し込んだ。一気に脱力すると、ものすごい力で締め上げられた。息が詰まる。
こどもたちの悲鳴が、上から下へ移動していく。自分自身も動けない。最悪の結末だ。
「くそっ……」
アルスは悪態をつくしか出来なかった。腕に力が入らない。魔物の勝ち誇った咆哮が、アルスの耳を劈いた。
ここでくたばってなるものか……!闇の力を貯めて全身に巡らせ、自身を縛る脚を微塵にしようと試みるも、魔物は察知して再び雷を浴びせた。意識が遠のきかけるも、どうにか保たせる。
なす術のない絶望感が押し寄せてくる。
ああ、ルーエが、ほかのこどもたちが……。
刹那、海岸が波のように盛り上がった。脚たちはバウンドし、ようやくこどもたちを解放した。彼らは巨大な鳥と蒼い狐に保護された。意識が薄れていく中、その様子をぼんやりと見ているしかなかった。
ヒュッ、と風を切る音がした。魔物が悲鳴をあげて身体を、脚をくねらせた。弾みでアルスは投げ飛ばされた。無気力で宙を舞うのを、とんでもない飛越で近づいてきた半獣の騎士に受け止められた。
砂の波の頂上で、射手が魔物に狙いを定めていた。魔力で出来た矢を3本一度に番えて、そして放った。それは魔物の両目と脳を貫くと、そこから上の部分が吹き飛んでいった。黒と紫の入り混じる光に包まれた魔物は、断末魔の叫びと共に霧散した。
気がつくと、アルスはベッドの中だった。痺れが残っているのか、締めつけられるような痛みが全身を支配していた。小さく呻くと、小さな足音がパタパタと近づいてきた。
「アルスにぃちゃん!!」
かろうじて動く首を横に向けると、目を腫らせた少女が涙を流して立っていた。よくよく見ると、左右で眼の色が微妙に違っていた。右眼の方が青が濃い。
「……ルーエ、か?」
「そうだよ……!アルスにぃちゃん……よかった……」
その場でくず折れてわんわん泣いた。その声におとなたちが集まってきた。
「目が覚めたのね!よかった……!」
エレナも目に涙を溜めていた。ルーエの母の後、ミスティアが続いて入ってきた。霧の療法士は、安堵のため息をつきながら、アルスの容態を窺った。
「まだ痺れてる、か。じゃあもう少しだけ霧の力でケアするわね。少し待ってて」
ミスティアはエレナとルーエに療養所のロビーで待っているように伝えると、ふたりはそっと部屋を出て行った。扉が閉まると、静寂が降りた。
「ルーエちゃんは無傷、ほかのこどもたちも、なんにんかは骨折しちゃってたけど命に別条は無し。だから安心して」
「……そうか、無事でよかった」
「あんなイカだかタコだかがポルテニエに出てくるなんて初めてだ、ってみんなそう言ってたわ」
ミスティアはそう言いながら、アルスの手首をそっと握った。少しひんやりとした、白い彼女の手から、白い霧がほわりと現れると、腕を伝って身体をゆっくりと覆っていった。……心地良い。
「……もうひと眠りしてもらっている間に、シェラたちを呼んでおくわね」
やはりあいつらだったか、と思いながら大きく息を吐いた。そのまま微睡む。少しして、アルスは夢を見た。
そこは沼地だった。
その沼は蒼かった。
こぽり、と煮えたぎるような音を奏でている。
そこからゆらりと煙が上る。
気配がして、アルスは振り返った。5馬身程離れた位置に佇んでいたのは、あの射手だった。しかし容姿は今と違う。明るめのベージュの髪は長く、腰まで伸びている。シェラに似ているな、となんとなく思う。
射手と目が合った。双眸は赤色に染まっている。
アルスは思い出していた。目の前にいる彼は、初めて会った時の彼だ、と。
矢を番え、弓をゆっくり引く。鏃はアルスの胸を狙っている。
矢が放たれる。反射的にそれを掴んだ。矢を掴んだ手から赤いものが滴る。
……あの時のお前は、闇に囚われ、大地を割り、地の国を滅ぼしかけた。言葉は出てこず、こちらの話も理解していなかった。
まさに『魔物』だった。
あの時初めて俺は『ヒトを救った』。屠るしか手段がないといわれていた中で、俺はあいつを殺さずに助けられた。……俺が『黒の一族』だったから。
射手の姿が歪む。ゆっくりと、世界が明るくなっていく。夢から覚めようとしていた。アルスは手に持っていた矢を眺めた。
……まあ、お前は覚えていないだろうけどな。
ゆっくり瞼を開けると、シェラとヘイレン、そしてラウルが部屋にいた。いち早くヘイレンがアルスの目覚めに気づき、そばに来た。
「……おはよう、アルス」
「……おう」
アルスは少し戸惑った。樹海近くの海岸で倒れていたのを拾った頃と比べると、別ジンレベルで変わっている。金髪と金色の眼は変わらないが、背格好はシェラぐらいになり、声も少しおとなっぽく落ち着きのあるものになったか。臆病過ぎる傾向だったが、どこかどっしりと構えている風格がある。改めて凄まじい成長だなと思い、心の中で苦笑いする。
「痺れ、取れた?」
ミスティアから状態を聞いていたらしい。アルスはゆっくり起き上がってみる。痛みや怠さは無くなっていた。軽く肩を回したり腕を伸ばしたりとストレッチする。
「……大丈夫そうだ。心配かけたな」
「よかった。ボク、ミスティアに知らせてくるね」
ヘイレンはすっと立ち上がると、颯爽と部屋を出て行った。ソファに座っていたシェラと目が合うと、彼は微笑した。心の臓が掴まれたように、キュッと縮こまった……気がした。
「……助かった。シェラたちがいなけりゃみんな終わってた」
「ちょうどアルスに会いに行こうとここに向かってたからね。丘の上からでも見えるくらいに水柱が上がっててびっくりしたよ」
「俺に会いに、だと?」
アルスは少し首を傾げると、シェラはうん、と頷く。それから、ラウルに目配せすると、窓際の壁にもたれかかっていた射手が身体を起こした。
「火が闇毒に侵されてしまったんだ」
「……ああ、そうらしいな」
「誰かから聞いたの?」
「誰かっていうか……昨日樹海で魔物が騒いでてな。そいつらがそう言ってた。火が闇に堕ちたってな」
「魔物……」
ラウルは驚いて言葉に詰まっていた。構わずアルスは続けた。
「闇毒を食らったヒトの闇を取り除けるか?って話だろ?」
ついには口をパクパクさせる始末。ラウルの表情が滑稽だったが、笑える話ではない。アルスは一息ついた。
「……仰る通りなんだが、可能だろうか?」
ようやく発したラウルの声は、なぜか掠れていた。アルスはラウルを凝視する。瑠璃色の眼を中心に、うっすらと靄がかかっていた。
「……その前に、お前、代わりに毒を食らうのやめな。また侵されるぞ」
また、と聞いてシェラがソファから立ち上がる。ふたりに見下ろされる形になって、少し気まずくなる。
「またって……過去にあったのか、ラウル?」
シェラはラウルに視線を向ける。ラウルは目を閉じて俯いて、眉間を揉んだ。
「あった……のか?」
そう言ってラウルはアルスに視線を向ける。自然とシェラの空色の眼もこちらに向く。ますます気まずい。
「……今はその話じゃねえだろ。その……すまん、俺がややこしくした」
「エルビーナ様の居場所を掴もうと、ラウルはコアの力を使ってる。その度に闇毒の影響を受けている。……やっぱり良くないよね、この状況」
シェラはラウルの腕をそっと掴みかけた。
「よせ」
それをアルスは止めた。素早くベッドから飛び出ると、大股でラウルに詰め寄り、躊躇なく彼の胸元を押して壁にひっつかせた。反射的にラウルの左手がアルスの右腕を掴む。
一瞬にして緊迫感に包まれ、シェラが2歩程退いた。それを合図に、アルスは一旦目を閉じて右手に力を込めた。カッと見開くと、ワインレッドの右眼が光った。刹那、ラウルは金縛りにあったように身体を硬直させた。靄がアルスの右腕に吸い寄せられる。徐々にラウルの力が抜けていった。身体を受け止め、抱えてソファへと運んだ。
ラウルを置いて、アルスはベッドに戻った。闇を取り込む魔術を使った後は、しばらくの間全身に痛みが走る。苦痛を経て己の生命の糧となる。傷ついた身体は修復される。『回復するのに苦痛を味わう』というよくわからない状態になるため、この技は極力使いたくないんだがな……。そう思いながら、アルスは三度微睡んだ。
静寂が降りたのも束の間、扉が開いてヘイレンがミスティアを連れて戻ってきた。起き上がっていたはずのアルスは突っ伏しており、ソファを見ればラウルが眠っている。
「……なにこれ、どういう状況?」
ヘイレンはポツンと佇むシェラに問うたが、彼は苦笑いするだけであった。