縁結びのお嬢様
縁結びのお嬢様。
それが、フレイヤ・カントランのあだ名だ。
そんな名前が付くくらいだから、お察しあれ。
フレイヤはそれはそれは多くの者たちを縁付けてきた。
初めてはフレイヤ自身の両親だった。政略結婚ですれ違いばかりの二人を必死に向き合わせること1年ばかり。
何がなんだか分からない中、生きたいという本能と、三歳児のあざとさのみでとやりとげた、最初にして最大の難関だったと今でも仲の良い両親を見るたびに感慨深い。
それから、幼馴染の優しい侍女には、堅物の侍従との仲を取り持った。
城下町で知り合った賢い花売り娘には、少しとぼけたパン屋の店主をご紹介。
道ならぬ恋に悩める騎士同士(双方男性である)を結び付けたことだってある。この時は法律をも変えさせるお国の大事に発展して大変だった。主に周りが。
そして、あと、一組。
あと二人を幸せにすることができれば、フレイヤに課せられた償いは終わるらしい。
なのに。
プカプカ浮かぶウサギのぬいぐるみが言う。
『ターゲット発見です!100組目ですよぉ!』
そう言って指無き手元がとある方をビシッと指す。
それを見てフレイヤは固まった。
指を表現する縫い目が可愛らしい黒い手先の指す先には、金色に輝く竜を従えた男が一人。
見間違える筈もない、あれは……。
しかし、フレイヤの戸惑いなどものともせずに、ウサギはテンション高く『イエーイ、パホパホ』と片腕を掲げて意味不明なお囃子を叫んでいる。
「……………………は?」
フレイヤの戸惑いの分だけの間をおいて、ようやく出たのは一文字での質問。
これに、触り心地最高な黒うさぎは、アゲアゲだったテンションをあっさりと下げ、不満げな口調で繰り返す。
『ちゃんと聞いてくださーい。次の片割さんは、ここイースタッド王国の子爵であるシェーダザラッ……』
「いやいやいや……それは無理!」
遮ったフレイヤに、しかし、ウサギは首を傾げる。
ぬいぐるみ故、ボタンの目も刺繍の鼻もピクリとも動かないが、仕草だけでも愛らしいことこの上ない。
だが、しかし。
『無理でもやらないと、呪いは解けませんよぉ?』
言葉は容赦がなかった。
あの時、フレイヤはウサギが言いかけた名を遮ったが、もちろんそれを知っている。
シェーダザラッド・ヴァル・ガードイルド。
ウサギの言うとおり、イースタッド国の子爵である。
実家はイースタッド国で最も古い侯爵家であるガードイルド家。そこの次男であり、王国が擁する竜騎士団の副団長職に就いている。
先代王が溺愛した妹姫を祖母に持ち、その姫君から受け継いだ紅玉の瞳と、強大な魔法使いであることを示す漆黒の髪を持つ、それはそれは威風堂々とした美丈夫である。
各国共闘による狂竜討伐においては、遠く離れた国境線にまで自ら黄金に輝く竜に騎乗し、圧倒的な魔法と剣術で、大小の狂竜とその魔素に群がる魔獣をあっという間に殲滅したというのが一番ホットな話題だ。
この方が100組目だとウサギが言う。
普通に無理だ。
どう考えてもダメだ。
もう、呪いとやらは解けないのだ。
フレイヤはこの先、どれほどの不幸に見舞われるのだろう。
いや、フレイヤ一人ならばまだ良い。
優しい両親や、可愛い弟妹にまで、呪いの余波が襲おうものなら。
いっそ、降参の意を表して自決でもすれば、せめて己以外は助けられるだろうか。
そこまで思いつめる。
だって、縁など結べる筈がないではないか。
物語の主人公のようなこの男……シェーダザラッド・ヴァル・ガードイルドは、フレイヤの婚約者なのだから。
だが、とフレイヤは思い直す。
婚約者とは言っても、お互いの家同士の利害が一致した、なんなら生まれる前から決められていた、いわゆる政略結婚だ。
その筈だ。
嫌い合っているということはないが、溢れて溺れるほどの熱情を伴う関係ではない、筈だ。
シェーダザラッドは家柄、見た目、人柄……はちょっと無愛想だけれどもそこさえ理解すれば、群を抜く優良株だし、フレイヤさえいなければ、と思っている女性はぱっと思いつく限りでも片手の指の数をあっさりしのぐ。
当のシェーダザラッドにしても、だ。
「フレイヤ? どうかしたのか?」
どうかしたのか。
どうかしたのか、とお尋ねですか?
「……ううん、なんでもないわ」
いや、あるある、なのです。
大あり、であるのだ。
声を大にして訴えたいが、今がそういう時ではないとはもちろん理解している。
ちなみに、現在、フレイヤは噂のシェーダザラッドと公式に式典の参加中である。
毎年春に行われる新人竜騎士の任命式は、フレイヤとしてもシェーダザラッドのパートナーして出席する恒例行事だ。
任命式自体は浮ついた雰囲気など僅かにもない、厳格な空気の中行われるものなのだが、その後に行われる新人竜騎士の披露式典は、立食式の豪華な食事が振舞われ、気安い懇親の場となっている。
そして、竜騎士団の副団長であるシェーダザラッドと、その婚約者であるフレイヤは現在ダンスの真っ最中なのである。
決して小柄でもなければ華奢でもないフレイヤとはいえ、国、いや世界最強と呼び声高い剣士であり、長身かつ逞しいシェーダザラッドとでは埋めようもない体格差がある。
踊りづらいはずなのに、この男前ときたら絶妙なタイミングで、フレイヤをフワリと抱き上げるようにしてターンするのだ。
これぞ小さい頃からのダンスパートナーであればこその熟練の技。
そうは分かっていても、フワフワとまるで羽が生えたかのように軽やかなステップを導くシェーダザラッドに、ときめかずにいられるだろうか。
……いや、ときめくな。
ときめいている場合じゃない。
フレイヤは、この婚約者殿に人生最良のパートナーを見つけなくてはいけないのだ。
「……なんでもない、ということはなさそうだけどな?」
体が覚えているステップを、不安一つない力強い腕に導かれて踏みながら。
フレイヤの小さなサインを見逃さない声をかけられて。
無意識にも、伏せがちになっていたらしい顔を上げた。
無表情の無愛想と揶揄されがちなその紅の眼差しは、怖気づくことなくきちんと視線を合わせれば、穏やかにフレイヤの言葉を待っていてくれていることがわかる。
それに勇気を得て、フレイヤは言葉を発した。
「シェドに聞きたいことがあるの」
と。
背に添えられた手のひらに促され、クルリと向きを変えれば、背後ギリギリのところで他の踊り手とすれ違う。
「なんだ?」
ぶっきらぼうに聞こえるそれも、ちゃんとフレイヤの言葉を受け止めての、優しい促しだ。
他の者がいろいろと吹聴するシェーダザラッドの一面が、本当はどんなものなのか、フレイヤは知っている。
でも、この方の運命は、フレイヤとは重ならないのだ。
フレイヤに縁付けるようにと黒うさぎが言うからには、この方には他に娶るべき方がいるということなのだろう。
「……シェドって……他に好きな人がいたりするの?」
唐突すぎることは分かっている。
シェーダザラッドは、ほんの少しだけ、眉を顰めた。
不快、というよりは、怪訝。
「……婚約……いやになったりとかしてない?」
問いかけを続行。
その間にも、また、クルリ。そして、フワリ。
大きなシェーダザラッドに囲い込まれるように踊るフレイヤには周りが見渡せてはいない。
ただ、ターンの数が増えているから、踊り手が増えてきているのだろう。
やたらと聞かれて良い話ではない。
改めた方が良いかもしれない。
返事がない中、踊りは続き、やがて曲が終盤に差し掛かった。
「……はれ?」
ふわりと体が浮く。
本当ならば、うまく体を滑らせて、背後のカップルを避けるところなのに、フレイヤはそのままシェーダザラッドに抱き上げられたのだ。
まるでそれを待っていたかのように、曲が終わる。
そして、パートナーを変えるに絶妙な間を置いて、次の曲が始まった。
周りの踊り手達が曲調が変わったのに合わせて揺れ始める合間を、シェーダザラッドはフレイヤを幼子のように片腕に抱いたまま、誰に当たることもなく歩み、壁際へと身を寄せた。
ストンと降ろされて、琥珀の液体が入ったグラスを手渡される。
そこでようやくフレイヤは正気付いた。
この男ったら、今、私を抱いて堂々とここまで運びましたよ?
あれ、今は、婚約者だから、そんなこともあるのかしら。
そんな訳はないだろう、フレイヤ。これはちょっとしたセンセーショナルな……。
が、そっと周りを伺うも、誰もフレイヤ達を見ていなかった。
それは、もう不自然なほどに。
シェーダザラッド・ヴァル・ガードイルドの威力、恐るべし。
「……とりあえず、それを飲め」
言われるままに、渡されたグラスに口をつける。
フレイヤが好んで飲むさっぱりとした果実酒だ。
飲み終わると、すぐさまグラスは取り上げられて、スマートに通りかかる給仕係が回収していく。
何を言うでもなくシェーダザラッドが手を差し伸べれば、フレイヤはごくごく当たり前の自然な動作でそこに手を添えて、エスコートされた先は式典が行われた庭園だ。
広々とした芝生には、室内の騒がしさなど知らぬ風に、三頭の竜がくつろいだ様子で佇んでいる。
1頭はシェーダザラッドの金竜、残りの2頭が今日の披露目を終えた新人の竜だ。
そういえば、今年の新人は史上初なんだったな、、、なんて思っていたら。
「で……なぜ、そういう話になった?」
これが、先ほどのフレイヤの問いかけに対する、シェーダザラッドからの返しなのだと気が付いて、なんと返そうかと考える間もなく言葉が続けられた。
「そもそも……本来なら今頃結婚式だったのを延ばしたいと申し出てきたのはそちらだろう」
怒りを含むでもなく、ただ、淡々と真実を述べるそれに。
「……そうです……」
まったくもってそのとおりだから素直に頷いた。
フレイヤは、今年初めに成人を迎えた。
1つ年上のシェーダザラッドは、現在、子爵であるが、これは過去の戦での功績として叙勲されたものである。
フレイヤが成人し婚姻を結んだ暁には、騎士団を退き、侯爵家の爵位の一つである辺境伯を継いで領地へと赴く予定だった。
順当にいっていれば、既にこの時期には二人は夫婦として領地で生活している筈だったのだ。
だが、フレイヤは婚姻に待ったをかけた。
二人の間には何も問題はなかったが、フレイヤの生家であるカントラン家にはちょっとした事件が起きていたから。
「で?……リリィとシリィはどんな感じなんだ?」
行き詰った会話を払しょくするように、シェーダザラッドが鉄板の質問をする。
その問いかけに、フレイヤは状況をスパンと忘れて胸で温めていた最新ニュースを、シェーダザラッドに向かって一気に語り始めた。
「すごい元気! シリィは、ハイハイができるようになったの。私を見つけると嬉しそうに一生懸命這ってきてくれるのよ! それで、そのシリィを追うみたいに、リリィが一生懸命に手を伸ばしてたら……コロンて……コロンて寝返りしたのよ! もう、すっごくけなげで可愛くて、私もお母さまも号泣してしまって……それでふと横を見たら、お父様が目元をハンカチで押さえてて……」
怒涛のまくし立て。
どこか呆れたように、それでいて優し気に聞いているシェーダザラッドの表情に、自分がこの男に何を言ったのかを思い出した。
他に好きな人がいる?
婚約が嫌になってない?
これは、フレイヤの勝手な言い分だ。
シェーダザラッドはいつだって、ちゃんとフレイヤを婚約者として特別に遇してくれている。
はたから見れば、わがままで婚姻を延期する迷惑な婚約者はフレイヤの方で、婚約破棄を言いださないシェーダザラッドの誠実さを疑うなんてもってのほかなのだ。
「ごめんなさい」
何に対しての謝罪かは告げず、全部に対してフレイヤはその言葉を口にした。
「お前が何より家族を大事にしているのは分かっている。だから1年の延期を受け入れた」
ことの始まりは、カントラン伯爵夫人、つまり、フレイヤの母親が妊娠したことだった。
政略結婚からの不仲、いろいろなすれ違いを経て歩み寄った夫婦の間に舞い込んだその幸せな報せに、カントラン家には歓喜の嵐が巻き起こった。
だが、それは、決してフレイヤの婚姻を延期させる理由にはならなかった。
母の体に宿った命は順調に育っていて、フレイヤも早く会いたいと願いつつ、いつかは自分もシェーダザラッドの子を抱けるだろうか、と思いながら婚礼の準備を進めていた。
しかし、お腹が大きくなり、育まれている命が双子だと分かったあたりから、母が精神的に不安定になってしまったのだ。
何人もの医師や魔導士が診察して分かったことは、お腹の中にいる双子の魔力がとても強いこと、それが魔力をほとんど持たない母の精神と肉体に影響を与えていること。
分かっていても、治療法は何もなくて。
母は、いつも何かを不安がり、泣きじゃくり、時には自ら命を絶とうとさえした。
そんな妻を抱きしめるのは夫の役割であり、そんな母の手を握るのはフレイヤが望んだことだ。
母は一向に落ち着く気配がなく、フレイヤはそんな母を残して、シェーダザラッドに嫁ぐなんてできないと父に訴え、父はフレイヤの訴えを拒むことはできずにイースタッド家に婚姻の延期を求めた。
これが、わがままであるとフレイヤだって、分かっていた。
シェーダザラッドが許してくれるであろうことも、予想していた。
でも、その傲慢さが、この先の未来に繋がっていたのかもしれない。
「それが……」
シェーダザラッドの指先がフレイヤの顎をすくう。
また、俯いてしまっていたフレイヤが顔を上げれば、屈んで視線を合わせるシェーダザラッドが間近にいた。
「なぜ、俺が婚約を続けて良いかと問われているんだ?」
近づいてくる面に、瞼を伏せれば。
柔らかな唇が目元に触れた。
「誰かに何かを言われたか」
ささやくような問いかけに、小さく笑いを零す。
「……そんなのは平気」
幸いなことに、可愛がってくれる両親がいて、こうやって気遣ってくれる婚約者がいる。
妬み嫉みを根底に育った、嫌みや嫌がらせなどに屈するほど弱虫ではない。
婚約者の方は失うかもしれないけど、それでもフレイヤは元気に生きていける気がしている。
「……お前のその強さは称賛に値するが……もう少し俺を頼っても良いんだぞ?」
瞼に触れた唇が滑って、頬に押し付けられる。
それが唇に近づいて……あと、何度、こうしてシェーダザラッドに触れることが許されるだろう……なんて思いながら、彼の口づけを受けるためにもう少し顔を上げて。
だが、口づける寸前。
「……助けて!」
切羽詰まった響きを持った女性の声。
揃って鉄のメンタル保有者であるフレイヤとシェーダザラッドは、慌てることもなく少しだけ身を離してそちらを見やった。
そこにはフレイヤと同じ年頃と思しき娘が立っていた。
「……あ、すみません……」
怯えるように背後を見やる少女は、今年から導入された女性用の竜騎士の制服を身に着けている。
キリっとポニーテールに結い上げられた髪は走ってきた名残でゆらゆらと揺れていて、夕闇にあっても鮮やかな金色であることをフレイヤに教えてくれた。
「あ……今年入隊した……」
フレイヤが気が付いて呟くと。
「ニーシャ・レンスか」
シェーダザラッドが、それが間違いではないと名前を口にした。
今日の式典の主役である新人竜騎士の一人だ。
史上初の女性竜騎士、ということでひと際視線を集めていた彼女であるが、式典で竜にまたがっていた凛々しい姿とは程遠く、不安げに背後を見やっている。
「……どうかしたの?」
フレイヤが尋ねると、ニーシャという少女はぺこりと頭を下げた。
「申し訳ございません! しつこい男に追われていて……」
竜騎士の立場はそれなりに認められているが、彼女は確か男爵令嬢だったか。
愛らしい容姿と、禁欲的な竜騎士の制服に、ちょっと悪戯心を刺激された貴族にでも追われているのだろうか。
「こちらへ」
シェーダザラッドが、フレイヤから離れて、ニーシャに近づいていく。
彼女もまたホッとしたようにいくらかも表情を緩めてシェーダザラッドに歩み寄った。
金竜と銀竜が、お互いの相棒が近づくことを歓迎するかのように、小さな声を上げる。
なかなか荘厳な光景である。
しつこい、と評された男がそこにいるのかは、フレイヤからは確認できないが、竜の御前で、彼女に寄り添うようにシェーダザラッドが傍らに立ち、一睨みすれば、どんな者でも逃げ出すだろう。
何一つ心配も不安もなく、二人の背を見守るフレイヤの前。
シェーダザラッドの腕にすがるように、娘の掌が触れる。
霞が立つように。
娘が触れた場所から、ゆらゆらと二人の間に彩が生まれていく。
「……うそ……」
小さなつぶやきは、きっと二人には届かなかった。
それは、過去に何度も見た光景。
『はいー! お相手はっけーん!』
今はいないウサギの声が、フレイヤの脳内に響き渡った。
「お前のために、多くの者たちが不幸になりました」
光に包まれた御方は、そう言って私の額に指を触れた。
私は紅より、なお赤い血に塗れた唇の端を上げる。
妖婦と呼ばれた私にふさわしい笑みを、最期のこの時にも浮かべようと。
「……存じ上げておりますよ。私が誘惑して貶めた方、私を奪い合っての果てに相討った方々……そして、そんな方々を慕う方達の嘆きも恨みも……」
だから、なんだというのだ。
花街で父の分からない子として生まれた私の行く末は、生まれ落ちたその瞬間から決まっていた。
娼婦の娘は娼婦にしかなり得ない。
私の唯一の幸いは、花街の元締めが目をかける価値を見出したほどの美貌だろうか。
捨てられることなく、飢えることなく。
女衆に手練手管を教え込まれ、持って生まれた美しさを、金を生む道具として更に更にと磨き上げられた。
ならば、そのとおり生きるのが道理ではないか。
ならば、こうして凶刃に倒れるのも、また道理。
深々と胸を貫く短剣を最後の力を振り絞って自ら抜いた。
無残に引きちぎられた衣の合間を、自らの血で染め上げるために冷えた指先で辿る。
毒婦の名に恥じぬように、何者とも知れぬ光の主に、百花と称えられた自らの肢体を誇るのだ。
「……さあ、審判を……」
私の額に当てられた指先が、ひと際、激しい閃光を放つ。
光に身を焼き切られた私は、痛みを感じることなく。
それがひどく残念に思える。
最期くらい狂うほどの痛みが欲しかった。
逃げたいと思えるほどの苦しみが欲しかった。
そう思えるほど、私の人生には何もなかった。
「……多くの人に幸せを……お前が不幸にした者の数だけ……」
不本意なくらいに無感覚な身の内に、光は言葉となって埋め込まれる。
「そして……」
だが、最後の言葉は聞こえなかった。
久しぶりに見た夢は、心優しい警告だろうか。
『今回はチョロいー。あっという間に縁を結べちゃいそうですう。チョロチョロチョロいー、イエーイ』
規則正しい生活に則って昨夜も寝たはずなのに、寝た気がしなくて少々頭痛を覚えるフレイヤの横で、ウサギがデリカシーに欠ける発言を繰り返す。
なお、聞いたことのないリズムは、言葉とは別にしても大変不快である。
「……んー……婚約破棄、かなあ?……ううん、そんな物騒な……穏便に婚約解消を目指すべきか」
あの日、庭で遭遇した娘の名はニーシャ・レンス。
レンス子爵家といえば、シェーダザラッドの実家である侯爵家に古くから仕える一族のはずだが、彼女のことはフレイヤは知らない。
シェーダザラッドも知っている風ではなかったが。
「……きれいな娘だったわー……」
夕暮れ時の赤紫色の中に浮かぶ金髪は天使の煌めきを。ちなみに、フレイヤの髪は赤毛だ。
シェーダザラッドを見上げる瞳は、湖の彩をたたえるブルーだった。
そんなきれいな娘を、シェーダザラッドが、新人竜騎士の披露式典でエスコートした、という噂は、あっという間に広がった。
それが噂であり真実でないことは、誰よりもフレイヤ自身が知っている。
披露式典に、シェーダザラッドに手を取られて出席したのはフレイヤだし。
ニーシャと出会ったあの時だって、シェーダザラッドはニーシャを会場に送ってから、すぐに庭先に戻ってきた。
ダンス1曲を踊る時間もなかったはずだ。
戻ってきたとき、シェーダザラッドから放たれていた彩は、既に消えていたし、彼の態度におかしいところはなかった。
それでも、あの彩を見つけてしまったフレイヤは、己の成すべきことを分かってしまったのだ。
噂が噂であったとしても。
『さあ!フレイヤ。最後の縁を結びに行こう!』
ウサギが、ビシッと扉を指さす。
やるべきことは分かっている。
「……分かってるわよ」
分かっているのだ。
とは言っても、自ら、シェーダザラッドに婚約解消を告げる度胸はないし、身分的にも難しい。
次に縁を結ぶのがシェーダザラッドだと聞かされた時は、なんとかなるかと思ったが、実際にそれが差し迫ってくれば、なかなかに重い腰は持ちあがらない。
『ほらほらー。行ってみればすぐ終わるよ~、そうしたら、次こそフレイヤが幸せになる番だよーん』
私の番。
それはシェーダザラッド以外の人と、ということか。
「……ネー……」
塞ぎこみかけたフレイヤの膝を、ペチペチと小さな手がたたく。
双子の弟であるシリィだ。
ハイハイを始めた双子のために、父は1室を土足厳禁としてカーペットを敷き詰めた。
四つん這いで好き放題に動くシリィと、まだ寝返りからランクアップできないリリィに紛れて、フレイヤもこの部屋でゴロゴロと過ごすのが最近のお気に入りである。
現実逃避と言えなくもない。
動かなくてはいけないと思いつつ、今もウサギから目をそらして、コロコロと寝返りを打っているはずのリリィに目を向けると。
「……だー……」
リリィがハイハイをしていた。
初めてのハイハイ!
「……っ!……お母さま!お母さま!……リリィがハイハイしました!!」
フレイヤは別室にいる母を呼ぶ。
現実逃避万歳である。
とはいえ、現実逃避も1か月を超えると、戻ってこれなくなりそうだし。
『フレイヤー!!いいかげん、最後の縁を結びに行こう!』
少しずつ焦りを含ませてきたウサギの様子からもそろそろ限界だろう。
という訳で、本日、フレイヤは町に来ていた。
「フレイヤ様!」
見つかれば声を掛けられるだろうな、と思いつつ通りがかったパン屋の前で名を呼ばれる。
何番目かに縁付けたパン屋夫婦の嫁の方であるアナとは、今や身分を超えて親友と言って過言ではないほど親しい間柄である。
おいでおいでと手招きされて、開店前のお店の前に護衛と侍女を待たせて内に入れば。
「それで、フレイヤ様、婚約破棄なさるの?」
挨拶もそこそこに、の一言である。
「……有名人の婚約者になんてなるもんじゃないわね」
オドオドと気遣われるよりはよほど良いから軽口を返すと、アナの雰囲気が昨日のパンから、焼き立てのパンくらいに柔らかくなる。
「お元気そうですね」
この様子では屋敷に籠っていたことも知っているのだろう。
いや、知っているに決まっている。
ここのパンは、フレイヤの屋敷にも届けられているのだ。
屋敷の者たちは、フレイヤとアナの仲を知っているからこそ、その様子を伝えたに違いない。
そして、アナは、きっと毎日毎日、フレイヤが元気な様子でこの店の前を通るのを待ってくれていたのだろう。
「ごめんなさいね」
心配をかけたことを詫びてから。
「で……私の婚約破棄の話はいったいどんな風に広がっているのかしら?」
すっと、顔を寄せて尋ねれば、アナは眉間にしわを寄せる。
ほらほらフレイヤ様のメンタルの強さは知っているでしょう?
アナが聞いたという婚約破棄の理由が、シェーダザラッドに不利な内容ではないと良いと思っているだけ。
だから、教えて。
ニコリと笑って見せると。
「……子爵家のお嬢様とシェーダザラッド様が結ばれなくてはいけないそうです」
想定外の言葉が聞こえてきた。
なんだ、それ。
顔に出ていたのだろう。
「私だって、なんだそれ、って思いますよ。でも、そのお嬢様が『シェーダザラッド様は私と結ばれなくてはいけないのです』ってあちらこちらでおっしゃっているらしいです。詳しいことは分からないのですが……」
結ばれなくてはいけない。
それは、実のところフレイヤだって思っていることだ。
フレイヤとシェーダザラッドとの婚約はなしにしなければいけない。
フレイヤは、シェーダザラッドと彼女との縁を結ばなければいけない。
でも、彼女がそう言っている?
なぜ?
「そういう訳で、食パンです」
どんと、フレイヤの目の前に食パンが置かれる。
「どういう訳よ」
「これはお城の騎士舎厨房に納品する分です!」
騎士舎とは、城の一角にある騎士達の宿舎だったり食堂だったりを擁する一棟である。
竜騎士の面々も、そこにいるだろうし、副団長であるシェーダザラッドもいる可能性は高い。
「あなた、私に配達係をさせる気?」
今日は、ちょっと町に出て、気分転換なんてしてみつつ、婚約解消に向けての策を練ろう、などと思っていたフレイヤの心中をお見通しとばかりに。
「相手と話をしもしないで逃げるなんて、とんだ弱虫なのですね」
アナがにっこり笑いながら言うそれは、いつかの好きな人の前で怖気づく花屋の娘にフレイヤが言った言葉だった。
ブーメラン、怖い。
ついてきた侍女二人に5本ずつ。フレイヤ自身が4本。
現在の荷物、つまりは持った食パンの本数である。
護衛騎士が自分が持つと言い張ったが、いや、いざという時に両手がふさがっていたらだめではないの?という言葉に渋々引き下がった。
それでも、ご令嬢にお使いを頼むとはなんて無礼な、、、とならないあたりが使用人に恵まれているな、とフレイヤは思う。
パンを配達する姿にぎょっとされつつも、城の財務で要職に就く父の七光りと、今はまだ竜騎士団副団長の婚約者という威光のおかげで、顔パスで城門を潜り、騎士舎へ向かう途中に騎士たちの訓練場を通りかかる。
できれば、ここは通りたくなかったが、大荷物を持って大回りもしたくはない。
苦渋の決断であったが、案の定、訓練場では騎士たちが剣を振るっていて。
「お嬢!」
フレイヤに気がついた一人が駆け寄ってくる。
ここは、素知らぬふりをする気遣いが欲しかったのだが、この男にそんなことを期待するのは難しいということもよく知っている。
ひとまず、足を止めた。
「婚約破棄のことは、私に聞かないで」
こういう輩には、先制攻撃である。
声が届く範囲に足を踏み込んだ騎士にズバッと告げる。
足を止めた男が、まじまじとフレイヤを見つめた。
白銀の髪を一つに束ね、本日は質素な訓練服を着ているにも関わらす、キラキラを振りまく「これぞ近衛騎士」といった容貌の男の視線は、そこらのご令嬢であれば頬を染めるものであろうが、フレイヤはこの男に微塵も幻想を抱いていない。
「……相変わらず、鉄メンタルですね」
向こうも向こうで、フレイヤを令嬢扱いしないから、お相子だ。
「あなたも相変わらずデリカシーに欠けるわね……」
余計なことを言ったら、ぶっとばす。
いや、今は両手が塞がっているから蹴ってやる。
にらみ合う二人の間を穏やかな声が割って入った。
「……お嬢。大丈夫なんですか」
横から手が伸びて、持っていたパンを取り上げられる。
パンの行方を追えば、優し気なブラウンの髪と、穏やかな翠の瞳の美丈夫が立っていた。
「……どう思う?」
ちょっとしびれた腕をプラプラ振って解しながら答えれば。
「質問に質問で返すなよ」
きらめく騎士がそう割り込んでくる。
「シド……お前は静かにしていろ」
「いや、だってさ、ロイ。俺はお嬢が大事なんだよ」
「そんなのは私も同じだ。だが、こう言ったことは……」
うんうん。
相変わらず仲良しで、なにより。
同性婚を法令化した甲斐があったというものである。
頑張ったのは主にシェーダザラッドとか、文官の皆様だが。
などと、感慨深くなってしまったフレイヤの視界に、それを一掃する、今もっとも見たくはない、だが、どうにかしなくてはいけない二人組が目に入る。
竜騎士団の制服を着ているし、それぞれに金竜と銀竜を連れているからには、何か公式な行事にでも出てきたのだろうか。
引きこもっていたフレイヤに、その事情は分かりかねたが、二人は何かを話し合っている。
騎士同士であれば違和感のない、妙齢の男女であれば近すぎるような距離で。
近衛騎士二人、侍女二人プラス護衛一人から不穏な空気が流れてきた。
「……お嬢、ぶっ飛ばしてきますか?」
フレイヤと時を同じくして気が付いたらしい近衛騎士のうち、シドが案外冗談とも言えない声音で尋ねてくる。
相方が止めることを期待して、フレイヤはそれを聞き流したのだが。
「ああ……お前が正面から行け。俺はそっと背後からどつきに行くから」
「やめておきなさい。返り討ちにされるわよ」
当事者よりよほど怒りを露わにする近衛騎士を制して、フレイヤは二人から目をそらした。
策もないまま、アナの言葉に背を押されてここまで来たものの、こんな風に二人の姿を目にしてしまえば、もはや話し合いをする必要もないと思えた。
「帰りましょう。ほら、パンは彼らに渡して」
言うが早いか歩き始める。
チラリとだけ見やって、遠くに煌めく彩を見る。
「……相変わらず……きれいだなあ」
誰に言うでもなく、フレイヤは呟いた。
今まで何人もの人たちの幸せを見守ってきた。
フワリフワリと二人の間に流れる優しい彩を。
いつだって、それは鮮やかに美しく。
今もそう。
銀色の霞がシェーダザラッドに絡むように。
シェーダザラッドからも柔らかな金色がユラユラと。
絡まりいずれは交じり合うその彩は、どんな文様を描いて二人の幸せを包み込むのだろうか。
いつか、私もあんな風に誰かと彩を交えて、美しい絵画を描けるだろうか。
でも、それはシェーダザラッドと、ではない。
「……うん、領地にこもろう」
そんな風に呟きながらサクサクと歩くフレイヤの脇を、フワリと黒い靄が通った。
つい足を止めてその行方を覆えば。
ふいにそれは鋭い影へ姿を変えて、今にも交じり合わんとする二人の彩に、割って入っていく。
これは……もしかしたら、私の未練だろうか。
こんなの見たことないけど。
フレイヤは、二人に背を向けた。
帰ろう。
帰って、お父様に「婚約者に運命の人が現れたので、穏便な婚約解消をしたい件」について話そう。
大丈夫。
伊達に「縁結びのお嬢様」なんて呼ばれていない。
きちんとできる筈だ。
無意識にも早足になる。
淑女教育の賜物で、こんな時でもフレイヤは走ったりはしないのだ。
「フレイヤ様!」
侍女が小走りで追いかけてくる。
「フレイヤ様!」
護衛騎士も。
歩みを緩めることはできないから、みんな頑張ってついてきて。
辺境伯夫人として領地を回る気満々だったフレイヤは日頃の散歩も乗馬も手を抜いていないから、足腰には自信があり早足はかなりのタイムを誇るのだ。
「フレイヤ!」
だが、どんな健脚もその声で名を呼ばれてしまえば止まらざるを得ない。
フレイヤは覚悟を決めて、足を止め、振り返った。
息を切らした侍女の向こうに護衛騎士、そしてその向こうに、フレイヤを追いかけてきたのだろうシェーダザラッドと、それを追ったのであろうニーシャがいた。
金、銀、そして、濃い灰色。
入り乱れ、渦をまく。
「私、シェーダザラッド様の想いを尊重します」
邪魔なんてしない。
だから。
「……何を言って……」
「ほら、彼女もそう言ってます。だから私と」
「俺はお前とは番わない!」
いや、人間同士で番うってなに?
耳慣れない言い回しに首を傾げる余裕はない。
靄は、いよいよ暗黒への色を深めて他を凌駕せんとする。
「ですが、貴方様の金竜王の番は私の竜です! だから、私とあなたも……」
やめて。
ちゃんと、二人から離れるから。
邪魔したりしないから。
だから。
なのに、靄は大きくなって、シェーダザラッドに向かう。
「なんで」
ねえ、どうして?
聞きたいけど、今、ウサギはここにいない。
ただ、靄は明らかに包み込もうとしている。
シェーダザラッドを。
ドロリ、ドロリと、二人の鮮やかな彩を上書きするように。
やがて、それは、固まり伸びあがり、が、シェーダザラッドに向かって落ちてくる。
「シェド!」
フレイヤは、とっさにそれを遮るように立ちはだかった。
これは、何?
これは私の醜い嫉妬の化身なのだろうか。
だとしても、望んでない。
そうフレイヤは言い切ることができる。
どんなに、フレイヤがシェーダザラッドを好きでも。
シェーダザラッドが誰かを、フレイヤではない誰かを愛しているのだと言うなら。
仕方ないではないか。
前世のフレイヤではない私。
誰に愛されることも、誰かを愛すこともなく、大きな大きな空虚を内に抱えていた私は、たくさんの愛を弄んだ。
ここにいるフレイヤの名を持つ私は、愛されることも愛すことも知っている。
だから、フレイヤは絶対に、想いを踏みにじるような、裏切るような、そんなことはしないと、そう誓ったのだ。
もし、これが私の生み出した妬みや嫉みなのだとしたら、私がそれから守るのだ。
金と銀の紡ぐ美しい営みを、何であろうと邪魔させはしない!
黒い靄がフレイヤに突き刺さる。
「フレイヤ!」
聞こえたのはシェーダザラッドの声。
そして、何かの獣の咆哮。
「竜が!」
「押さえろ! ニーシャ、竜を大人しくさせろ!」
ふわりと見えたのは金と銀の彩。
それを邪魔しようとする靄は、今、フレイヤに深く刺さって藻掻いているのに、一筋が伸びていく。
「……だめ!」
フレイヤはとっさにそれを掴んだ。
「きゃあ!」
なぜか悲鳴を上げたのはニーシャ。
黒い靄は、ニーシャの腕にと姿を変えていた。
フレイヤに突き刺さる靄は、相変わらず金銀を目指すように藻掻いていて、だが、見逃さない。
黒い靄はニーシャの胸元へと繋がっていた。
「……何をしているの?」
フレイヤが唯一の女性竜騎士服へと手を伸ばすと、顔をひきつらせたニーシャがそれを払いのけた。
この娘が黒い靄の元凶なのか。
だとすれば、金と銀の彩はいったいどこから。
フレイヤが見回す先には、竜。
金色の竜は、知っている。シェーダザラッドの心強い相棒だ。
金の彩がこの竜から伸びている。
ならば、銀の彩は。
金竜の横には銀色の竜が翼をはためかせ、身をよじり、地響きのような声を上げている。
近衛兵が囲い、抑え込もうとしているようだ。
「ニーシャ、何をしている!? 竜を止めろ!」
兵士の一人の叫び声に、フレイヤの前でニーシャが竜に駆け寄る仕草を見せれば、彼女の動きに合わせて靄がブワリと揺れてフレイヤを追い抜こうとする。
間違いない。
この娘だ。
金と銀の彩が、あの竜たちならば。
「あなた、あの銀竜に何をしたの!? それが銀竜を傷つけているんだから、今すぐそれをやめなさい!」
叫んだ瞬間、シェーダザラッドがニーシャを押さえつけた。
「離して!」
「シェド、胸元! 胸元に何か!」
シェーダザラッドの手が相手が女性であるというためらいを見せない強さで制服を暴く。
そこにあったのは、ネックレスだ。
銀の鎖の先には、禍々しいほどの黒い彩を放つ石。
シェーダザラッドが鎖を引きちぎり、手元に起こした業火で石ごとを消滅させた瞬間。
フレイヤを貫いていた、銀竜に伸びていた、靄がサーっと消え失せる。
金と銀が結びつき、きらきらと煌めきながら、謎めいた模様を描き出していく。
ああ、描かれた。
ホッとしたのもつかの間、フレイヤを取り巻くのは閃光。
それは、いつかフレイヤがまだフレイヤでなかった頃に包まれたあの光に似ていた。
でも。
痛い。
すっごく痛い。
あの時、与えられなかった痛みなのか。
あの時、望んだ痛みなのか。
分からない。
それでも、聞こえたような言葉は。
「そして……今度こそあなたも幸せにおなりなさい」
あの時、聞こえなかったそれなのか。
「はい!今回も無事に縁を結びましたー!100組目達成です!」
重ねるように厳格さの欠片もない声が響いた。
竜舎は、基本的には関係者以外の立ち入りを厳に禁じている。
それは、竜というものは、決して人に従属することなく、竜騎士と呼ばれる者たちは、竜にこそ選ばれて縁を結べた特別な存在であるからだ。
故に、竜舎は竜と竜騎士のみが立ち入ることのできる聖域であり、竜騎士という存在も、また、身分を問わず国に厚く遇されているのだ。
フレイヤは、本日、竜騎士ではない身ながら、特別に許されてそこに足を踏み入れた。
なお、許したのは人ではなく、竜である。
「いいな、少しでも辛くなったら言うんだ。絶対に無理するな」
真剣な顔で、何度目かという圧をかけてくるシェーダザラッドに、フレイヤは素直に頷いた。
あの日、黒い靄に身を貫かれたフレイヤは、あの場で昏倒し、数日間、目を覚まさなかったらしい。
その間、フレイヤは例の夢を見ていた、と思う。
でも、いつもと違ったのは、夢の中で血に塗れた『私』にかけられる最後の言葉。
いつも聞き取れなかったそれが、聞こえたような気がしたのだが、もしかしたら、フレイヤの都合の良い夢にすり替わったのかもしれない。
そして、目が覚めると、蒼い顔をして憔悴しきった、そのくせ明らかに怒っているという顔の男がいたのだ。
うっかり「私……生きてるんですね」などと言ってしまったのが運のつき。
「言っておくが運が良かっただけだからな……あの時、俺の侍従に治癒魔法に長けた者がいたのはたまたまだ! たまたま! だ、か、ら、助かっただけだからな!」
などと、叱られてしまってからの、現在である。
どれだけ心配をかけたのか分かっているから、ここを訪れたいというフレイヤの願いを聞き入れてくれたシェーダザラッドや竜たちのためにも、決して無理はしないという約束を新たに胸に刻む。
竜舎は王宮の一角にある広大な森の中にあるという。
シェーダザラッドに手を引かれて、生い茂る緑の中を歩いていくと、突如として目の前に木造りの巨大な門が現れる。
建物ではない門だけ。
その前にシェーダザラッドが立ち、無造作に手をかざすと音もなくそこが開いた。
「すごい」
思わず呟けば、シェーダザラッドが「内から竜が応えなければ開かれない」と言うから、改めて竜と人が主従ではないことを認識した。
扉を潜れば、圧倒される光景が広がる。
森にいたはずなのに、目の前には広い広い草原。
そして、様々な色、様々な姿をした竜が、ずらりと並んでシェーダザラッドとフレイヤを迎え入れた。
その竜たちの合間を抜ければ、金色と銀色。
輝く鱗を持つ二頭の竜。
今は、もう、フレイヤの目は、その竜から流れ出る彩を見ることはできないけれど。
寄り添う二頭を見れば、きっと、素晴らしい文様を描いているのだろうと、確信する。
「ようこそいらっしゃいました。フレイヤ・カントラン様」
二頭の竜の脇に、一人の女性が立っていた。
ニーシャが着ていたものと同じ竜騎士の制服を着ているのを見て、おや?と思う。
今年の新人竜騎士は二人。一人は史上初となる平民出身の男性で、もう一人もまた史上初となる女性騎士、と何かと話題になる二人だったはず。
「初めてお目にかかります。竜騎士のニーシャ・レンスです」
胸に手を当て、頭を下げるという騎士の礼を向けられ、フレイヤは反射的にスカートを上げて令嬢らしく返す。
この女性は。
「銀竜の本当の相棒だ」
やはりそうかと、フレイヤは顔を上げて、その女性を見つめた。
この女性が本物のニーシャ・レンス。
偽物の彼女と、どこかと似ているような気がするのは、騎士らしい凛とした立ち姿のせいだろうか。
「以前、私の名を語り、ここに竜騎士として現れたのは……アニサ・レンスと言います……私の従妹にあたります」
フレイヤの疑問が聞こえたかのような答え。
そして、その場にニーシャが膝をついて。
「この度、アニサが犯した罪につきまして、深くお詫び申し上げます」
その姿に、ぎょっとして思わず後ずさるフレイヤの腰を、シェーダザラッドが支えてくれる。
見上げれば、穏やかな瞳が見下ろしていて、シェーダザラッド自身は彼女を許しているのだと知る。
ならば、フレイヤも。
「貴方が詫びる立場であるのか私にはわかりません。ですが、お話をして下さるのなら、きちんと顔を見せてください」
そう言うと、ニーシャはもう一度深く頭を下げてから、すっと機敏な動きで立ち上がった。
「……竜が選んだのは紛れもなく彼女だ」
シェーダザラッドが言うのに、ニーシャが頷く。
「レンス家は子爵位にあります。領地は険しい山や森が多く産業には乏しいのですが……誇らしいことに、この山や森には多くの竜が棲みついています」
ニーシャが銀竜に手を伸ばせば、銀竜もまた、顔を彼女の手に寄せる。
「私は、森で彼女に出会い……彼女は私を選んでくれたのです。アニサも最初は私が竜騎士となることを喜んでくれました……でも……」
ニーシャの表情が暗く沈み、それを宥めるように銀竜が彼女の頬を鼻先で撫でた。
ニーシャはわずかに微笑みを浮かべて。
「この竜の番が、副団長の竜だと知って、アニサの心に魔が差したのです」
フレイヤは隣にいるシェーダザラッドを見やる。
シェーダザラッドもまた、フレイヤを見下ろして。
「竜は生涯に一度だけ番を得る。その竜の相棒同士が男女であれば……」
ああ、とフレイヤも思い至った。
その男女も共に在るのが都合が良いだろうと。
竜の相棒に女性が選ばれることが稀であることを思えば、なおさらに周りの思惑は底知れないのかもしれない。
「……私の父などは馬鹿げたことをと一笑しておりましたが……近しい者の中には私と副団長の婚姻を目論む者もおりました。そして、それを知ったアニサは狂った夢を見てしまったのです……銀竜の騎士となれば、金竜の相棒である副団長と結ばれることができる、と」
魔が差した、という。
銀竜の番が、金竜だと知って。
金竜の相棒であるシェーダザラッドと、銀竜の相棒であれば結ばれることができるのだ。
そんな夢を見た。
「シェド……アニサさんと顔見知りだったの?」
アニサの想いがシェーダザラッドにあったのであれば、と思いついて尋ねれば、当の本人は眉間にしわを刻んで首を振る。
シェーダザラッドの知らないところで、想いを寄せられるなんてこと、いくらでもあるだろうから、フレイヤはそれ以上の答えを望んではいなかったのだが、ニーシャが助け舟らしきものを出してきた。
「副団長は、以前、狂竜討伐の際に我が領に立ち寄られたのです。その姿を見て、アニサが一方的な想いを抱いただけです」
それだけであれば、淡い恋の思い出となったであろう。
だから、魔が差した、なのか。
「アニサは優秀な魔法使いなのです。それに私たちは竜ととても近しいところで生きております故、竜のことに少しばかり詳しいのです……アニサは私を魔法で封じ、私に成り代わり、魔道具でこの子を使役していたのです。私に答えてくれたこの子の意思を魔法で抑えつけて!」
比較的穏やかに、理性的に話を進めていたニーシャだったが、最後の言葉には強い怒りが込められていた。
それだけで、この女性が、銀竜に深い愛情と敬意を抱いているのだと知れて、フレイヤはアニサがどう足掻いても相棒にはなれないのであろうことも、また悟った。
「この子はその呪縛を解こうとあがいていました」
ニーシャが愛し気に見つめる銀竜と、そして、その隣に寄り添う金竜をフレイヤは改めて見上げた。
今まで、人と人を結ぶ縁しか見たことがなかったのだが、確かにあの金と銀はこの竜たちの縁であったのだろう。
黒い靄は、考えるに、どうやらアニサが使っていた魔法だったようだ。
そんなものが見えたことは、過去には一度もなかったのだけれど。
もしかしたら、シェーダザラッドを守ると意気込んだフレイヤに例のお方が力を貸してくれたのかもしれない。
「フレイヤ・カントラン様。私の相棒を助けて下さり、ありがとうございました」
ニーシャが再び深く深く頭を下げた。
ニーシャが一足先に竜舎を立ち去り、フレイヤはシェーダザラッドに導かれて、金竜の前に立った。
金竜は、まだ傷が完全には癒えていない番をいたわるように身を寄せながら、フレイヤに視線をくれる。
この竜がシェーダザラッドの相棒であることは知っていたが、こんなに近くで見るのは初めてだ。
思いもよらず、優し気な金色の瞳に見下ろされているためか、恐怖心はない。
「……で?」
と、突然、シェーダザラッドがフレイヤに問いかけた。
のだが。
「……で?」
意味が分からず、そのまま返す。
「俺の想いを尊重してくれるって?」
何のことだろう。
少し考えて、ニーシャと二人でいたシェーダザラッドに言った言葉を思い出す。
「私、シェーダザラッド様の想いを尊重します」
今もその気持ちに嘘はない。
だから、その言葉を繰り返した。
「私たち、出会った時には既に婚約者だったでしょう。私はそれに疑問も不安もなかったけど……今回、ニーシャさんとの話を聞いた時、シェドには幸せになって欲しい、って。その幸せが私とでは、成し得ないなら、身を引くのも仕方ないって……そう思ったの。ううん、今もそう思っているの」
シェーダザラッドの顔を見て言うことができなかった。
だけれども、最後までその言葉を。
「俺に幸せになって欲しいのか? 縁結びのお嬢様?」
問われて、なんとか頷く。
なんか、目頭が熱い気がする。
なんなら、体全体が怠い気も。
でも、頷く。
ああ、私、こんなにシェドが好きなんだな、と思い知りながら。
無事に198人と二頭を縁付けて、「今度はあなたも幸せに」なんて、都合の良い言葉を聞いた気がしたけれど。
それでも、シェーダザラッドの幸せのためなら、自分の幸せを二の次にして、フレイヤは身を引けるだろう。
「こっち、来い」
シェーダザラッドに手を引かれる。
ただでさえ、近かった金竜の鼻息がかかるほどの近くに連れていかれて。
「金竜王……俺の伴侶となるべき女性だ」
竜はフレイヤに顔を近づける。
本当に呼吸が触れて、フレイヤの髪を揺らした。
「……お前の番がその銀であるように。俺の番は、この女性だと……俺はもうずっと前から決めている」
シェーダザラッドは金竜王に告げて、そして、フレイヤと視線が絡む。
「お前が何かを成し遂げようとしていることを俺は知っている。そして、それが俺たちの幸せに繋がるんだと信じて待っていた」
今まで、フレイヤが夢見ることを、100組を縁付けて幸せにしなければいけないことを、誰にも話したことはない。
でも、シェーダザラッドはフレイヤを待ってくれていたという。
フレイヤはシェーダザラッドの手をぎゅっと握った。
そして、金竜王と銀竜を見やる。
「……あなた方が、私の結んだ100組目の縁です……あなた方を結んだことで、私は救われるのです」
竜の喉が低く鳴く。
「どうぞ、末永くお幸せに」
金竜が左の頬に、銀龍が右の頬に。
祝福のキスをくれる。
そして、真正面にはシェーダザラッドがいる。
「……次は俺に縁を結んでくれるのだろう。 俺の愛するフレイヤ・カントラン嬢と」
そう言って、ひょいっと抱き上げられる。
きっと、あの光から聞こえたのは、幻じゃない。
今度は私が。
そして、私は貴方が良い。
だから、この言葉を。
「シェド、私と幸せになりましょう」
シェドの彩は何色だろう。
私の色は?
それを見ることは叶わないけれど、きっと、今、この瞬間。
近づき、絡まり、鮮やかな文様を描いているに違いないのだ。