夜の少年とシナモン
黒天鵞絨の夜に粉砂糖をぶちまけた星が散らばっている。新月の今夜は夜闇に点在するそれらの輝きが殊に際立つ。嵐は自室の出窓に頬杖をつき、夜に魅入っていた。家人が寝静まった時間帯、一日の双子の片割れを嵐は好んでいた。自由に飛翔出来る気がする。だから時々、家からこっそり抜け出し、街中を散策する無鉄砲も犯していた。姉の薫子は大層な心配性だったから、嵐のこの無鉄砲を知ると柳眉をひそめて厳しく注意するのだろう。だが嵐はそんなへまはしない。
青と白を絶妙な配分で混ぜた肌の色合いをした少年は、今宵も密やかに家を抜け出す。鍵を開けて、閉める時、音を立てないようにする緊張感が何ともスリリングだ。銀繻子の猫が嵐の後をついて来る。嵐の愛猫の小虎だ。小虎は主人の気持ちが解るのか、心得たもので、無暗に鳴くこともなくしなやかな尻尾を振りながら足音立てず嵐に寄り添う。
「良いかい、小虎。僕は夜の王様なんだ。今、この時間ばかりはね」
嵐が足元の銀繻子に語り掛けると、猫は了承したとでも言うように尻尾をぱたり、と上下させた。夜の王者になることだけが嵐の目的ではない。彼は闇雲に徘徊する愚かを行う少年ではなかった。
「おばあさまに逢いたいんだ。おばあさまは夜の世界においでだと聴いたから」
無人の歩道を、猫一匹を供に歩きながら、嵐は誰にともなく呟くように言う。小虎は目を金琥珀に光らせながら沈黙している。嵐の父方の祖母は昨年に亡くなっている。不思議な人で、年経ても尚、酔芙蓉のような美しさを湛えていた。死に顔はまるで眠れる森の美女だ。祖母は生前、嵐に語った。自分はもうじきに死ぬのだけれど、夜の世界に行くのだから、何も恐れることはないのだと。時には遊びにおいで、と酔芙蓉は笑んだ。
だから嵐はこのように、時折の夜を泳ぐのだ。酔芙蓉の祖母は誰より嵐の理解者だった。最大の理解者を喪った嵐は孤独の真っ只中に叩き落された。その得も言われぬ辛苦は他の誰にも解るまい。晩春の黒天鵞絨の下、桜は道にもたれかかる。散りながら風に吹かれ嵐の行く手に桜貝が躍るようだ。嵐はそれを無造作に振り払い突き進む。小虎が細い声で鳴いた。
市の図書館の、前庭の噴水まで来た。白い石膏で作られた三人の乙女の持つ壺から水が流れ出ている。嵐はその内の一人、真ん中で少し俯き加減に水面を見る乙女が祖母に似ているとかねてより思っていた。水にそっと手を浸すと、底のほうから淡い光が仄めかされる。清水のように澄んだ水は、光の加減のせいかどこか青碧がかって見えた。冷たく柔らかく透き通った手応えに、嵐はより深く、手を浸水させた。小虎は主人の様子を黙って見ている。
もっと深く。より深く。
あっと思う間もなかった。嵐は奇妙な引力で、噴水の中に沈み込んだ。その段になって小虎が初めて積極的に動き、自らも水面に身を躍らせた。目を開けると、天井には揺らめく水の網があった。やはり青碧がかって見える。嵐は水中で息の出来る不思議にさして疑問を抱かなかった。そういうこともあるだろう。何せ夜という世界は気儘な生き物なのだから。それよりもこのやわやわとした世界は、嵐に祖母の気配を感じさせた。あたりを見回してもその姿は見出せないが、祖母が近くにいることを、少年は確信していた。小虎は嵐の足元で呑気に丸くなっている。
嵐はその様子を見て微笑した。それからふと、シナモンの香りがすることに気づく。祖母はとりわけシナモンを好んだ。やはり、嵐の目指す酔芙蓉は近い。もう一度上を見上げると、青碧の水を透かして天の星々が見えた。空の海と噴水の底の海の境目がつかず眩暈がする。嵐は頭を一振りし、水底を歩き始めた。よく見るとそこかしこに金平糖が色とりどりに落ちている。空の落とし物だろうか。嵐はその一粒を拾い上げ、試しに口に放り込んだ。甘さが口中に広がり溶ける。やはり金平糖に違いない。何だか妙に可笑しな気分になった嵐は、金平糖を幾つか拾い集め、口に放りながら歩いた。目の前はゆらゆらと揺れる水だが、不思議と不安はない。
唐突に水の世界が途切れ、まばゆい金色が嵐の目を射した。嵐は出窓に俯せていた。足元には小虎が寝ている。もう空は青紫に光り、曙の到来を示している。夢を見ていたのだろうか。だが、嵐は出窓に置かれた小瓶に気づいた。小瓶の中は賑やかな色を歌う金平糖。嵐の顔に笑みが広がる。それは祖母からの土産に相違ないからだ。涼やかに光る小瓶は、微かにシナモンの香りがした。