第85節 神楽舞う中で(其の七 霊剣怨嗟)
「おっと……。」
トラひげの奴は、ふとした拍子に手を滑らせて盃を落としてしまった。
(飲みすぎではないのか。)
わしは奴の不注意の原因を大量の酒に求めながら、足元に転がっている盃を拾ってやろうと身を屈めた。
(仕方のない酔っ払いめ。)
わしも嫌いではないから酒を飲みたい気持ちはわかるし、そうでなくても飲みすぎるぐらいに飲んでくれた方がこちらにとって好都合でもあるのだが、先ほどからこうもしつこく絡まれてばかりでは、少しは自重しろと苦言の一つも言いたくなるというものだ。
(絡み酒など碌なものではないわ。)
そんなわけでやれやれと盃に手を伸ばしていると、不意に我が懐からポロリと落ちる物があった。
(しまった!)
わしは心臓が口から飛び出そうなほどに焦った。
懐に隠し持っていた匕首を落としてしまった――
このような物を忍ばせて大王に近づいたとあらば、もはや言い逃れもできぬまま直ちに捕縛されるのが目に見えている。
(霊剣の加護とやらが聞いて呆れるわ。)
これもおのれの不信心の致す所業か、わしはおのれの失態に慌てふためいて、今し方まで覚えていたはずの感謝の念は、敢え無く怨嗟のそれへと変わってしまった。
(くそ、もはやこれまでか。)
このようなつまらぬ失態で策は潰えてしまった。
ここから先は我が機転と才覚のみで乗り切るしかないと覚悟を決め、落とした匕首に手を伸ばす。
(む?これは……。)
しかし、やはり霊剣の加護というものはあるものなのか、手を伸ばした先にあるそれをしっかりと見てみると、その形が匕首のそれとは違うことにわしは気が付いた。
それは匕首のような短い筒の形ではなく、いくらか丸くて手のひらに収まるほどの大きさ。
馬子から渡された薬草袋だった。
(あやつめ。人騒がせな。)
使わずじまいの無用な物を渡しおって、後で憶えておれ。と馬子を恨めしく思う一方で胸をなでおろすが、一度起こった動悸がすぐに収まるはずもなく、袋を拾う手が震えるほどにわしは動揺していた。
「待て。」
それでもどうにか落とした袋を拾い懐にしまい込もうとすると、トラひげの団栗眼がギラリと光って、わしの挙措を制止した。
(何かしくじったか?)
わしは気色ばんでトラひげを見た。
いささか気が動転していたとはいえ、何ら不審に思われるような行動はとっていないはずだが。
「何だそれは。」
慎重に相手の出方を窺っていると、トラひげはそう言ってゴツゴツと節くれたクマのような手を差し出してきた。
(そんなことか。)
もう今宵何度目の安堵になるだろうか。
この薬草袋は馬匹臭を気にしたわしのために、馬子が臭い消しとして持たせた物であって、特にやましい物ではない。
わしは問われるままに、一度は懐に収めた袋を差し出した。
受け取ったトラひげはその軽さを確認すると、袋の口を開けて中を覗き込んでみたり、鼻に近づけて匂いを嗅いでその正体を確かめている。
「ふん。」
そして、中身を知り得て興味を失ったのか、袋を放り返すと落としっ放しになっていた盃を自分で拾いにいった。
(おっと。)
口を閉じぬまま袋を放り返すとは無精な奴め。
ムッとしながら袋を受け取ったわしはそのまま懐にしまい込むわけにもゆかず、仕方なく抱えていた酒甕を置いて袋の紐を結い始める。
「おい。」
不快を感じているわしの気など知る由もないトラひげが相変わらずの口調で呼びつけてくる。
(今度は何か。)
貴様が袋を閉じぬまま寄越すものだから締め直しているのだ。
いささか不機嫌になっていたわしは紐を結う動きを止めることなく、相手の言葉だけに注意を向けた。
(どうせ酔っ払いの戯言よ。)
ちょっと強い口調で驚かしつけて、その反応を楽しもうという魂胆なのだろう。
それが証拠に一向に続きを言わぬではないか。
わしはトラひげの動向など気にも留めずに袋の口を結い終えた。
そしてそのまま袋を懐に仕舞いこもうとしたその時、突如として伸びてきた野太くがっしりとした腕によってわしの袖口は掴まれた。
(何だっ!)
まったくの不意のことで躱す隙も与えられぬまま、すわ何事かと奴の方を見たわしにトラひげは言い放った。
「随分と大きな手だな。」
奴の眼が今度こそギラリと鋭く光った。




