第76節 空の酒甕
「む、もうなくなってしまったか。」
空になった甕を逆さにして振りながらおじさんは名残惜しそうに言った。
薄めたのがよくなかったのか、おじさんは顔色一つ変えることなく持って来た酒をすべて平らげてしまい、ひっくり返した甕の底を覗き見上げて中身を確かめている。
「仕方がない。見張りに戻るか。」
残念そうにため息一つ吐いて、どうやったところで空の甕から酒が湧いて出るはずもないことを確認したおじさんはいくらかの未練を残しながらも、
「うまかったよ。」
「あ、はい。」
おじさんの飲みっぷりに呆気に取られていたわたしに礼を言って甕を返すと、再び見張りに戻ろうと櫓の階段に足をかけた。
(どうなっているんだろう、この人。)
酒を飲ませて見張り役を眠らせるのがわたしの役目。
つまり見張りがこの場にいてもらっては都合が悪いということなので、そのことに失敗したからには、すぐにでも次の一手を考えなければならない。
しかし、わたしはすぐそこに転がっている、たった一杯飲んだだけで伸びてしまった青年と、甕を空にしても平常な素振りのおじさんを交互に見比べては呆れるばかりで、そのことにまで考えが至っていなかった。
一方のおじさんの方はと言えば、そんなわたしを気に掛けることもなく、そのまま櫓の階段を齢の割には身軽そうにひょいひょいと半分ほど登っていってしまった。
しかし何を思ったのかおじさんは途中で一度立ち止まったかと思うと、するすると階段を降りてきて言った。
「おお、いかんいかん。忘れるところだった。」
何か用事を思い付いたらしいことを知ったわたしは黙っておじさんの言葉に耳を傾けていた。
おじさんは頭を掻きつつとある一点を指差すとわたしに告げた。
「そこに転がってるのは放っといていいからな。そのうち起きるだろ。」
「あ、はい。」
おじさんが指差した先には具合悪そうに眠りこけている青年がいた。
わざわざ降りてきてまで何ともひどい扱いを指示したものだが、この二人は一体どういう間柄なのか。
しかしわたしはわたしで、そんなひどい指示にもつい気を利かせることもなく同意してしまう。
おじさんはそれだけ言うと、再び階段を二段三段と登って行ったところで、何を思ったのか再び降りてきた。
「おお、いかんいかん。忘れるところだった。」
今さっきとまったく同じように頭を掻きながらおじさんは再びわたしに向かって言った。
「これを忘れちゃいかんよな……。美味かったよ。ありがとうな。」
「あ、はい。」
「ん、もう言ったっけか。」
「あ、はい。」
「はは。まあいいか。それじゃあな。」
なんだか相手の調子に呑まれっぱなしのわたしは、代わり映えのしない返事を繰り返すばかり。
そして、おじさんは今度こそ階段に足をかけると――
「おお、いかんいかん。忘れるところだった。」
わたしの方を再三にわたって振り返って、そして――
「……いや、別に何もないか。」
(この人、酔ってないように見えて実はかなり酔っているのでは。)
酔っ払い特有のしつこさに気付いたわたしは苛立ちを覚え始める。
「おお。いかんいかん――」
(いい加減しつこいな。)
これはおじさんの戯れか本気なのか、よく分からないまま怒るわけにもいかず、その行動を見守るしかないわたしは、もうおじさんが何を言ったとしても大した興味も持てないだろうと思った。
「いかんいかん……」
しかし、今までのそれとは少し様子が違うようで、おじさんは今度は振り返ることもなく「いかんいかん」を繰り返えしてばかりいた。
「――いかんいかん。飲みすぎた……か……?」
そう言うなり頭がぐらぐらと揺れ出したおじさんは、せっかく足をかけた階段を一旦降りると櫓に手を突いて、スーハーと強い勢いで深呼吸をしているが、どれだけ呼吸を繰り返しても一向に調子が戻る様子はなかった。
「俺も……齢かなあ……このぐらいで……。」
おじさんはその言葉を最後に、瞼がとろんと落ち込むとズルズルと姿勢が崩れゆき、そして地べたに寝転がるとそのままグーグーといびきをかいて寝てしまった。
(うわ。)
その様子をハラハラと見守っていたわたしは当初の計画通りの結果になったとはいえ、罪のない彼らにこれほどに強い酒を振る舞ってしまったことに、いくらかの後ろめたさを感じずにはいられなかった。




