第75節 枯れ落ちた橘花(其の二)
白面の舞娘の舞楽が終わると会場は今日一番の大歓声に包まれた。
わたくしの下女たちも三様に目を輝かせては手を叩いて、彼女に惜しみない賞賛を浴びせており、さらに宮殿に目を移せば、大王もまた彼女の舞楽に甚く感心したようで、白面の舞娘を直ちに召し出すよう、近侍の者に指示を出している様子が見て取れた。
(大王……。果たして酌だけで終わるでしょうか。)
いいえ、終わるはずがない。
わたくしは目を閉じるとわずかにかぶりを振った。
指示を出している大王の淡々とした表情を見る限り、表向きはあの舞娘にこれといった入れ込みもないように見える。
しかし、その茫洋として感情を表に出そうとしない大王の顔が、却ってドロドロと絡みつくような劣情がその心の内側に渦巻いているのを際立たせていて、酌をさせるだけで終わらせるつもりがないことを雄弁に語っているように見えた。
あの白面の彼女、どう贔屓目に見ても大王の好みではないように見えたものの、大王のあの様子を見る限り、夜伽まで命じられることになるのはほぼ間違いない。
(あの人は、そういう人ですから。)
大王は自身の嗜好に適ったモノは勿論のこと、周囲が好評価を下したモノも、それが何であれ万事我が物とすることを良しとする性格をしていた。
だから、今この場であれほどの賞賛を一身に受けている者を、あの大王が己が手中に収めようとしないはずがない。
(ああ、憐れな娘……。)
図らずも悲運に直面してしまった彼女を直視することができなくなったわたくしは視線を自分の膝に落とした。
あの舞楽――
一朝一夕で身に付くようなものではないことは一目見れば明白のこと。
おそらくは、幼き頃より歳月をかけて不断の努力の果てに手にしたものと思われた。
しかし悲しいかな、彼女はその最上の芸事を軽々しく大王の前で披露してしまったがために、あのような男に嬲られることになるとは。
これはもう、あまりの悲嘆劇の主役になってしまった彼女のために涙の一つも流してあげたくなるというもの。
わたくしはそう思うと、よよ……と彼女のために秘かに嘆いてみせた。
しかし――
(……でも、わたくしには関係のないこと。)
わたくしはそう考えて嘆くのをやめると、今度は力なく嗤った。
――そう、関係ない。
誰がどうなろうと、そんなことは自分には関わりなき事。
力なき者が力ある者に抗えるはずがなく、わたくしも彼女も大王の前ではあまりにも無力な存在でしかない。
無力な者がいくら声を上げてみたところで何も変わる事はないのだから、わざわざ自分から積極的に関わりにゆく必要はないし、何かをしてあげようとする意味もない。
無意味なことはしない方がよい。
そう割り切ってしまえば、やれ高女だ匹婦だのと自分の弱さを責める必要もなくなり、これ以上苦しむこともなければ気持ちも楽になれた。
(何もかも受け入れてしまえばいいのです。)
フフと嘲笑みが漏れると肩が揺り動いたその様を余人が見れば、何事かと不審に思うかも知れない。
しかしわたくしは他人の目も気にせず考え続けた。
――受け入れてしまえばいい。弱い自分の心も、弱い自分の立場も、なにもかも。
例え、目の前でかよわい民が虐げられていたとしても、民の在り方とはそういうものだからと受け入れてしまえば、わざわざ彼らに手を差し伸べる必要もなくなるというもの。
(そう。抗うだけ無駄なら大人しく運命に身を委ねるべきなのです。)
そうして目の前の白面の舞娘に視線を戻すと、もう彼女のことを憐れみる気持ちが沸いてくることはなかった。
――わたくしも彼女も、つらいのはほんのひと時だけ。
そう思えばこそ、こんな刑苦の場を祭祀の焚火で塗り固めただけの欺瞞に満ちた祭り会場の中に身を置いていることも耐えられる。
(でも……。)
面を通してもなお伝わってくるほど息を荒くしている彼女が、自分の腕の中に抱かれて匿われている光景が浮かんできて、わたくしはせっかくまとまった考えを揺さぶられた。
――でももし仮にわたくしが、あの白面の舞娘が養父の手に掛かってしまう前に保護することができたら……。
心の中の自分は自信と慈愛に満ちた表情で舞娘を優しく包み込んでいた。
そして、その腕の中にある舞娘の白面を優しく取り去るとそこにはあの娘の、ひいちゃんの顔があった。
ひいちゃんは穏やかな表情を見せ、わたくしの腕の中で安らかに寝息を立てている。
(あ……ああ……。)
理想の自分がそこにいた。強く、凛然として、慈愛に溢れた、たゆまず努力し目指し続けた自分の姿。
分かっている。今となってはそんなものは虚構にすぎない。
現実では、ついにあの娘を護ってあげることは叶わなかった。
しかし、今ここであの白面の舞娘に同じことをしてあげられたなら。
(わたくしは、また輝きを取り戻すことが……。)
あの日以来、あの時以来、あの刑苦の渦中に失くしてきてしまったわたくしの誇りが今この場に置いてあるのではないか。
あの舞娘を大王の手から護ることができれば、わたくしはわたくしの誇りをまたこの手に取り戻すことができるのではないか。
そして、その誇りを取り戻すことができればわたくしはまた、あの凛然とした橘花に戻れるだろうか。
皆が慕い讃えてくれたクマに咲く一輪の橘の花に戻れるだろうか。
(そうすれば……。)
そうすれば、今度こそ大王の手からあの娘を、ひいちゃんを護ってあげられるだろうか。
一度は枯れ落ちたはずの橘花の開花とひいちゃんの保護にまで想いが及ぶと、それまで小さく丸まっていた背筋が次第に伸びてゆき、暗色一辺倒にしか見えなかった辺りの景色にも彩りが加わって輝きに満ちてゆくような気がした。
――橘花の開花、舞娘の保護、刑罰の中止、ひいちゃんの安寧、祭りは盛況のうちに無事終了する……。これはまさしく好いこと尽くめと言ってよい。
わたくしが今ここであの白面の舞娘を匿うことができれば、それがすべて叶うかも知れない。
(そう、あの大王の意志に逆らってあの舞娘を匿えば――)
そこに考えが至ると、それまでの勢いはどこかに失せてしまい、たちまちの内に心が萎えてせっかく伸びた背中と一緒に折れ曲がっていった。
(いえ、それは無理……。)
――そんな無謀ができるはずがない。
わたくしが大王に逆らうことはできないし、今さらそんな勇気も持ってはいない。
その勇気も誇りと一緒にあの時あの場所で失くしてしまったから、今自分はこうして苦しんでいる。
(そんなこと、考えてはいけなかったというのに。)
考えれば苦しくなる。考えれば辛くなる。分かっていたから考えないようにしていた。だからこれ以上考えては――
必死になって頭の中を空白で埋めようとすればするほど、橘花、ひいちゃん、刑罰、白面、大王、祭り、下女たち、自分を慕う民たち……といった、いろいろな想いが渦巻いて隙間なく埋め尽くしてゆく。
「できない……できる……。」
この期に及んで一体何の望みがあるというのか、ぽつぽつと口を吐いてくる言葉も誰にも聞かれることもないまま周囲の大歓声に溶け込んでは消されていった。
今わたくしの中では、たとえ困難な道のりでも諦めることなく歩み続けてもう一度返り咲こうする橘の花と、もうここで諦めて立ち止まり楽になろうとする名もなき草花がせめぎ合っている。
できる事ならわたくしだって橘花に戻りたい。
どんなに諦めようとしても、心の奥底ではクマ国高女の地位に相応しい人物として誇り高くありたいという気持ちは未だに消えていない。ならば自分が選ぶべき道は勿論――
――心配いりませんよ。――
その一言が脳裏をよぎると胸が締め付けられた。
(あ……。)
わたくしの中の呪詛が再び目を覚まして、橘のつぼみは敢え無く枯れ落ちた。
(やはりダメ。)
あの娘を見捨てたわたくしが、図々しくも自分の栄誉のための希望を持つなど許されることではない。
わたくしは自分の浅ましさを恨みながら天を仰ぐと、そのままそっと目を閉じた。
外の世界では、いつまでも鳴り止むことなく白面の舞娘を讃える大歓声が響き渡っていて、わたくしはその歓声の中に加わることすらできないまま、ポツンと独り取り残された気がしていた。




