第72節 赤い目玉
背中が熱い。頭が痛い。
見張りのいる櫓を前にして緊張するほどに、わたしの背中も頭もズキズキと痛みが増してきていた。
倉を出るまでは調子が良いと思っていた体も、今となっては熱を持ってしまっている気がする。背中の傷が開いたのかも知れない。
息を吐きだすたびに熱気を帯びた空気が鼻の穴を通り抜けるのを感じて、自分の体に何かしらの異常が起きていることを、わたしは嫌でも認識させられた。
こういう時は口で息をした方が楽になると分かってはいたけれど、それをしてしまうと自分の調子がよくないと認めてしまう気がして、そこは何とか思いとどまっている。
いくらか遠くに聞こえるようになった歓声は未だ止む気配を見せない。
あの巫女の舞いは相当受けているのだなあと、わたしはあの舞いを思い出しては、名残惜しくもそう思った。
(少しだけ休憩。)
ここから先は見張りの兵士とのやり取りが避けられない。
どうしたって下手は打てないと考えたわたしは近くの壁にもたれかかって、わたしがこれから向かうべき場所の様子を見た。
(このお酒を飲ませて、それから櫓に登って火を消す。)
もう何度目になるのか、わたしは手順を確認してから目の前にある大きな黒い影に目を向ける。
するとその影は、地から高く離れたところに一つだけある煌々と燃える真っ赤な目玉でこちらを睨みつけて、芥子粒のようにちっぽけなわたしに、これ以上近づいてはならないと威嚇しつけているように感じられた。
(……登れるかな。)
わたしがこのクニに来るずっと昔からそこにズウンとそびえ立ちつづけている、このクニで最も大きな建物を見上げて、わたしはにわかに怖気付いてしまう。
飲ませて、登って、消す。――
わたしに与えられた三つの課題は、実際に櫓の威容を間近に感じてみると、そのすべてがそれぞれにとてつもない難題だと思わずにはいられなかった。
とてもできる気がしない。わたしの体はボロボロでこうして壁に寄りかかっているのがやっとなのだ。
それでもわたしがヨシノに帰るためには、この課題を避けて通ることはできない。
わたしが篝火を消す。そして、タケハヤの言っていた兵が踏み込んでくる。それから――
そこまで考えてから、わたしはタケハヤとの打ち合わせのことを思い出した。
(わたしが無事櫓の火を消すことができたとしても、その後は……。)
――そなたは余計なことは知らない方がよい。――
結局、タケハヤはそう言ってこの先に起こることをわたしに教えようとはしなかった。
でも、教わらなくても他所のクニの兵士のやることなんて何となく想像はついている。
(戦いがあって――)
お互いに兵士がいる以上、戦いがある。
戦いがあれば、ケガ人も出る。死人も出る。
(それから――)
祭りに乱入するからには混乱は必至だろう。
混乱があれば、やはりケガにつながるし、人以外にも被害が出るかも知れない。
(後は――)
ないと思いたいが、戦地となった集落では強盗や凌辱行為なんかも当たり前のように行われると聞いたことがあったわたしは、自分がこれから仕出かすことがこの柵にとんでもない結果を招くのではないかという恐怖に襲われ、思わず身震いした。
――出さないつもり――
あの時のタケハヤの回答を思い浮かべる。
(つもりが何だ。)
つもりなんて「頑張ってみたけどダメでした。」で終わってしまう話ではないか。
嘘でもいいから「出さない。」とはっきり言ってくれた方がこんなに悩まずに済んだ。
(それをあいつがあんな言い方をするから……。)
それが彼の誠実さから出た言葉なのだと分かってはいても、戦の理不尽さに納得がいかないわたしは憤りつつもため息を漏らした。
すると、したくないと思っていた口で呼吸をするという行為をしてしまったのがまずかったのか、うっすらと目に涙が浮かんできた。
(どうしてこんなことになっちゃったの。)
おひい様が、オオトリが、くーちゃんが、マガツホシが――
(わたしはただクニのみんなと一緒に平和に暮らしていられればそれでよかったのに。)
涙が出たことでわたしの中の弱気の虫が活力を得たのか、自分がどんなに頑張っても上手くいった例がない現実を突き付けては、わたしにここで諦めてひざを折れと言っている。
(だって、そんなこと……。)
今さらそんなことを言われたって、ここでわたしが諦めたらタケハヤに被害が及ぶ。
彼が今どこで何をしているのか知らないが、彼はわたしを信じてこの役目を託したのだ。
わたしはもう引き返せないところまで来てしまっている。
だから、これは怖くてもつらくてもやらなくてはいけないことなのだ。
そんな今さらなことに思いを馳せていると、彼方で沸き上がった大きな歓声がここまで届いてきて、自分の世界から外の世界に意識を戻されたわたしは涙をぬぐった。
聞こえてくる歓声はあの巫女の第二幕といったところだろうか。
(わたしがやろうとしていること――)
それが本当に正しいことなのか。
いや、きっと正しくない。
それでも、いつまでもここでウジウジしていてよいはずがない。だって――
――やるわ。――
わたしはタケハヤに約束した。
――やる。――
約束は果たさなければならない。
――すべて終わったら正体を明かす――
信用できない彼の瞳の中に真実を見たわたしが彼を裏切ることは許されない。だから――
酒甕を抱えた腕にも力が入る。
わたしは目を閉じると覚悟を決めて口で思い切り息を吸った。そして、
「やれる。わたしはやれる。」
と一心不乱に呪ってから、体の中にあるすべての息を吐ききって目を見開くと、その約束の一歩目を踏み出した。




