第70節 合図
竹筒の中身を移し替えてふうと一息入れた丁度その時、外からの異様な歓声に気が付いたわたしは慌てて倉の外に出た。
(もしかして。)
今までのそれとは何かが違う。
何か不穏ともとれるようなどよめいた気配が、急速に歓喜の渦へと置き変わっていったのだ。
見れば、宮殿に一番近い座に不自然なほどに人だかりができていて、他の座からも、続々と人々が吸い寄せられ集まっている。
あたかも産卵を控えたメス鮎に吸い寄せられ群がるオス鮎のようなその光景に、わたしは何が起きているのかと自分の目を疑いたくなったものの、
(あれが合図。)
わたしはそう確信し、気を取り直した。
これが合図でなければ、一体何が合図になり得るのか。
これまでとは一線を画す歓声の中心には一人の巫女の舞い踊る姿があった。
「すごい……。」
遠目から一目見ただけでも分かる彼女の舞いの素晴らしさに感想が漏れる。
タケハヤが一体どこであれほどの巫女を調達したか知らないが、その舞い踊る姿はまるで天から舞い降りた女神のように思える。
これほど美しいものが現世にあるとは露ほどにも考えたことがなかったわたしは、自分の使命も忘れて彼女の舞いにしばし魅入られてしまう。
(すごい……。)
ほかにどう表現してよいか分からない。
艶めかしいのに嫌らしくない、女らしさを強く感じるのに下品ではない。そういうものを見るのは初めてのことだった。
また、彼女の纏っている衣の袖の動きがまたとても綺麗で、彼女が腕を振るたびにふわりとその軌跡の追って――
(うわっ。)
何かが目に入ってわたしは思わず顔を向けた。
(何?)
目に虫が入った。これだけ盛大に火を焚いていれば、少しばかり季節を間違えた羽虫がこの陽気誘われてきても不思議じゃない。
そう思って、目を擦ってみてもそれらしいものは何も取れなかった。
わたしはいくらか興を削がれ不機嫌になりながらも、再び巫女の舞いに熱中する。が――
(あっ。)
まただ。
目に入ってくる何かに顔を背けながら、やはり何も取れないことを訝しんでいると三度目の襲来。
(何これ?)
わたしは目を細めて周囲の様子を窺ってみると、方々でわたしと同じように顔を背けたり細めたりしている人がいる。そして――
「あっ。」
その正体がチラリと見えた。今確かに見えた。
(光?)
その突然現れる光に照らされた人は、もれなく目を細めるか背けるかして不快感をあらわにしては、また彼女の舞いに熱中し直している。
わたしは巫女の舞いよりも光の方に興味を持ってその様子を観察していると、どうもとある一方向に向かって多く出現していることが分かった。
(壁……いや、窓?)
謎の光はわたしがいた賓客部屋の窓を中心として多く現れている。
(ああ。あそこにいたら、すごく不機嫌になってなあ。)
いくらなんでもしつこい。
そう思えるほどその光は執拗に賓客部屋の方を照らしている。
(確かに光。これが合図ね。)
目の前の夢世のような光景から無理やり現世に引き戻され、醒めた心地になりながらわたしは自分の使命を思い出した。
どうやってこの光を発しているのか知りたい気もしたが、歓声と光、指定された二つの合図がそろった以上、いつまでもここでのんびりしているわけにはいかない。
わたしはタケハヤとの約束を果たすべく甕を持って倉を出た。




