第69節 枯れ落ちた橘花(其の一)
囃子の音も合いの手も、人々の笑い声すらも煩わしく感じられて、たまらずに空を見上げれば、夜はまだまだこれからと言わんばかりに、まん丸に肥えた月が天高くからわたくしたちを見守っていた。
(早く終わってくれないかしら。)
そう願うのは今宵もう何度目か。
先ほど同じことを想ってから、まだいくらも時は経過していない。
(ああ、帰りたい。)
その想いも叶うことはない。
どんなに気が重くても、今宵のこの大祭を退席することは許されない。
それがわたくしに課せられた、このクニの高女たる者としての責務。
それを分かっているからこそ、わたくしはこうしてここに居続けている。
しかし、本当の自分の小ささを思い知らされて失望して以来、沈み込んだ気持ちを引きずったまま、ただこの場に居座っているだけで、本当の意味で祭りに参加していると言えるのか。
(今さら高女の責務も何もないのに。)
もうクマ国高女タチバナヒメは死んだ。
今ここに置いてあるのはただの切り花。根もなければ生気もなく、そのうち干からびて塵と消えゆく。
帰ってよいのならば今すぐにでも帰りたい。部屋に籠って、もう誰にも会うことなくこの生涯を終えてしまいたい。
――心配いりませんよ。――
沈む気持ちに追い打ちをかける様に、その言葉が胸を刺した。
例の言葉はいつしか呪詛となって頭の中に潜み続け、気まぐれに目を覚ましてはわたくしを苛んでいる。
(心配いりません……。心配……。)
そう、心配することはない。
黙ってじっとしていれば時は平等に過ぎてゆく。それはどこに居ても同じはず。ただ黙って耐えればいい。
そうして、ただそこに置かれただけの置物になったような心持ちで、少しでも早くこのバカ騒ぎが終わってくれないかと願っていると、にわかに周囲がざわめいていることに気が付いた。
(何者……。)
祭りの光景をただぼうっと眺めているだけのわたくしの前に突如として現れたのは、薄衣を纏った乱入者だった。
白面の面を被ったその者は、一目で只者ではないと分かる軽い身のこなしを以って、いざ出番と息巻いていた次の舞娘に先んじて、颯爽と車座の中央に立ちはだかると、ピタリと動きを止めてそのまま囃子が再開されるのを待っている。
突然の乱入劇に、この座に居合わせた誰もが驚きにどよめいている。
自分の出番を取られた格好になった舞娘はどうしてよいのかとその場でまごついているばかりで、囃子を奏でる者たちもまた戸惑いを隠せず演奏の調子を上げられずにいた。
低調な囃子がいつまでも続く奇妙な空間で、時だけがじっくりと流れてゆく。
(一体どうすれば。)
目の前で発生した珍事に少しばかり興味を惹かれたわたくしは、自分ならばこの場を治められるかもと思っては見たものの、この事態を見ている大王はこれを容認したのか、動きを見せることはない。
(大王がそれでよいと思っているのなら……。)
ならば自分が口を出すことではない。下手に動いて大王の不興を買う必要などないのだから。
そう決め込んだわたくしはこのまま静観することにした。
そしてしばらくして――
意を決した囃子隊がいざ調子を上げると、それまで微動だにしていなかった白面の乱入者が動き始めた。
ゆったりとして繊細なその者の躍動がはじまると、辺りのどよめきは少しずつに歓声へと変わっていった。
囃子は白面の動きに合わせて鳴り響き、白面は囃子に合わせて優雅に舞い踊っていた。
そして、一差し終わる度に一斉に歓声が沸き上がる。
ほかの座にいた者たちもこの尋常ではない歓声に、すわ何事かとこちらへ集まりつつある。
(なんて壮麗優美な。)
これは、おそらくは古今に並ぶものなしと言ってもよいほどの舞楽だと思う。
それが証拠に、彼女の美しさときたら傍近くに控えているタエはもちろんのこと、言葉が出ないのかあの普段は姦しいばかりのサヨまでもがぽかんと口を開けたまま、彼女の舞いに見惚れてしまっている。
どこから調達したのか、彼女は向こう側が透けて見えるほどに薄い衣を身に纏い、その腕が上下左右に動くたびにひらひらと宙にたなびいて、彼女の動きの流麗さを強調していた。
(優雅、華麗、嬋媛、艶美。いえ、これは……。)
どんな言葉も言い表すのに十分とは言えないほどの目の前の光景に、ある者は湧き上がり、またある者は魅入られ言葉を失っている。
そしてそれはわたくしにも言える事であり、瞬きをするのも惜しいと思われるほどに、この夢見心地の光景から目を離せずにいた。しかし――
――心配いりませんよ。――
(あっ。)
再び目を覚ました呪詛の言葉が、舞い上がった心をチクリと刺して一瞬にして悲哀の中へと引きずり込んでゆき、わたくしは我に返った。
(そう、わたくしは楽しんではいけない……。)
こんな自分が楽しんでよいはずがない。
わたくしでは、あの娘を助けることができない。
わたくしでは、あの大王に逆らうこともできない。
わたくしでは、自分の弱さを認めることもできない。
そんな自身の不甲斐なさに失望したまま、この祭りへの参加を断る勇気もなく、宮殿から降ってくる大王の圧力に身をすくめて、どうにかこの場をやり過ごすことだけを考えているような矮小な人間が、どうしてこんな見事な舞楽を楽しんでよいのか。
(いいえ、楽しんではいけないのはわたくしだけではないはず。)
辺りを見回せば、ここにいる誰もが心から今宵の出来事を楽しんでいる様子が目に入ってくる。
それは好ましい事だと思う。
来年もまた同じように祝うことができるか、それは人の身には計り知れないことなのだから、今年を精一杯祝うのはとても良い事だと思う。
(でも……。)
でも明日にはまた、あの悪夢のような光景がこの場で――この会場の、この場所で繰り返される。
それが分かっているはずの者がどうして祭りなどに現を抜かしていられるのか。
――裸に剥かれて、逃げられないように杭につながれたあの娘の姿。
赤黒く腫れ爛れた背を皆に見られ、泣き叫んで許しを請うても決して救いの手は差し伸べられることはない。
その光景をうすら笑いを浮かべて眺めている男がいる。
大王と――大王の狂気がこの光景を実現させている。
目の前の現実に背を向ける高女がいる。
タチバナ。つまりわたくし。
他にも諸臣居並んでいても、大王に意見する気概のある者など皆無で、一様に己が主君の顔色を窺っているのみ。
怖いもの見たさなのか、はたまた被虐趣味でもあるのか、広場の外には人だかりができている。
(ああ、なんておぞましい光景なのでしょう。)
居合わせた誰もが浮かない顔をしていたことが思い出される。
(あのような顔をするぐらいなら、誰かあの娘を助けてあげればよいのに。)
皆つらそうな表情を見せていても、果たして一番つらい思いをしているのは誰なのか。
結局、あの場の誰もが吾が身に火の粉が降りかからないようにすることしか考えていない。
――心配いりませんよ。――
しているのはあの娘の心配ではなく、あの娘の心配をしているふり。
さもなければ、自分の身の安全を心配しているだけ。
誰もが吾が身可愛いのは当たり前のことで、それはわたくしとて例外ではなかった。
(醜い。)
そういう見たくないものを見せられるぐらいなら、今すぐ消えてなくなってしまえばいい。
「何て美しいのでしょうね、おひい様……。」
意識を自分の外に戻せば、あたかも物語の中から飛び出したとも思えるような眼前の光景に、恍惚の表情で同意を求めるタエの言葉が煩わしくて仕方がない。
目の前では幻想的な姿の舞娘の幻想的な舞楽。何度見てもこの光景を言い表す言葉が浮かんでこない。
しかし、もうわたくしの心には響かない。
「そうね。」
わたくしはタエに何とも気のない返事をすると、舞楽を見るのをやめた。
(もう、放っておいてほしい。)
わたくしは消えた存在になりたいのです。誰もわたくしに構わないで。
叶うわけのない子供じみた願いにすがってただその場で目を伏せると、その姿勢に満足したのか、わたくしの中の呪詛の言葉は再び眠りに就いた。




