第62節 潜み伏せる者の焦燥
(間もなく薄暮か。そろそろだろうか。)
わしは身を隠しながら連絡が来るのを待った。
過去二回、宴に招かれたことでトラひげの癖は知っている。
そこを突けば犠牲を出さず終えることもできる。
いや……。
(これ以上、彼女を裏切ることはしたくないのだが……。)
犠牲は出さないつもりだが出るかも知れない、そう答えた時の彼女がしょげかえる姿が思い出される。
わしとて好んで人を殺めたいわけではないが、本当に犠牲が出ないで済むとは思っていなかった。
形は変われど、これはクニとクニの戦には違いないのだ。
理想を諦めてはいけないと思いつつも、現実はそう上手くいかないものだということも知っている。
祭りの囃子が聞こえてきて久しいが、未だ連絡はこない。
出ていくのが早すぎれば居場所がなく余人に見咎められ、遅すぎれば機を逃す。
(ええい、落ち着かんか。まだ慌てる必要はない。)
今すぐにでも飛び出したくて仕方がないおのれを叱責する。
ここで神経質になる必要はない。祭りはすぐに終わってしまうことはない。
そう分かってはいるのだが、風に乗って流れてくる囃子の音に気が逸るのを抑えきれない。
尻の穴がムズムズするのを感じながら、それでも粘り強く身を潜めているとこちらへと近づいてくる気配があった。
いっそう息を潜めて様子を窺っていると、人影はこちらの存在に気が付くことなく馬の世話を始めた。
(来たか……。)
待ちかねた。こちらから話しかけようとも思ったが、もし人違いであったら目も当てられない。こんなところに潜んで何をしているのかと尋ねられても何も説明できないのだ。
そう思い直し、そこは自重する。
人影は馬の世話をするような動きを見せたまま、姿を隠しているわしに話しかけてきた。
「頃合いです。行きましょう。」
やはり馬子だった。
元々、内通者としてこのクニに置いてきたが、その時は純粋に内偵として働かせるつもりで、このような手引き役をやらせるとは思っていなかった。
トラひげの奴はそのことに気付いていないのか、それとも気付いていて尚、捨て置いているのか、どちらにせよ彼に危害が及んでいることはないようだった。
「遅かったではないか。」
「わたしに言われても困ります。」
ガサッという音と共に伏せていた体を起こして言った文句に馬子が不服を申し立てる。
彼が祭りの進行をしているわけではない。
そんなことは分かっていたが、それでもなお文句の一つも言いたかった。
「用意は?」
「こちらに。」
そう言って渡された衣に手早く着替える。
叔母上から貰い受けたこの衣、まさか自分で使うことになろうとは。
「どうだ。」
すっかり着替え終えて、最後に腰ひもを結わいて着替え終わるとくるりと一回転して袖を振って見せる。
舶来の品だ。絹を惜しげもなく使った薄衣で、太陽にかざせば着た者の体の形がはっきりと見て取れ、動かすたびにひらひらと蝶が宙を舞うような袖が特に美しい。
今宵、月光の下で舞い踊るその姿を想像してみれば、まるで物語に出てくる天女のようではないか。
是非、傍からおのれの姿を見てみたかったのだが、この場に鏡がないのが悔やまれてならない。
「髪を解いてください。」
「おっと、いかん。」
いくら麗しき衣に身を包んだところで頭がこれでは男としか見られない。
わしは忘れていたおのれの揚巻を解くと、衣と共に渡されていた櫛で適当に梳く。
「どうだ。」
再び感想を求める。
「似合って……いるのではないですか?」
「釣れないな。貴様は世辞を知らんのか。」
馬子のあまりに下手くそな賛辞に不平を漏らす。
「お方様に差し上げれば喜ばれたのでは。」
「つまらんことを言うな!」
馬子のいらぬ一言に口ばしが尖る。
「なぜ今ここで妻の話をする。大体、お前はいつもいつもわしの嫌がることをずけずけと言いおって――」
「行きますよ。」
あまりにも酷い返しの言葉に、我慢の限界とばかりに説教をくれるわしに取り合うことなく、馬子は厩を出ていった。
確かに、いつまでもここでじゃれ合っている猶予はない。祭りはもう始まっているのだ。
こいつへの日頃の不満をグイグイと胸の内に押し込んで、奴の後を追って外へ出ると日中の冷涼を通り越して寒冷とも思える空気が肌を刺激する。
(いよいよか……。)
気持ちが引き締まり、馬子への不満も怒りもどこかへ消し飛んだわしは宵闇に包まれながら、祭りの会場へと向かった。




