第56節 望郷と決意
タケハヤの言葉を聞いてわたしはいささか訝しんだ。
トラひげを怒らせた彼のあの言動、なぜそうしたかまでは分からないが、わざと怒らせたのだということぐらいは判断がついていた。
でも、わたしはあの時、咄嗟の判断で彼を助けた。
その後でどんな目に遭わされるのかまでは考えもしなかったが、あの時は体が勝手に動いてしまった。
もうそれでいいではないか。これ以上わたしに何を望むのか。
(もう放っておいて。)
クニを亡ぼすとか、そんなきな臭いことにわたしを巻き込まないでほしい。
大体、彼を手伝ったところで一体わたしに何の得があるのか。
「わしはな、そなたを救いたい。」
タケハヤは真摯な態度でそう言った。
そう言ってくれるのはありがたいが、このクニを這う這うの体で逃げだして、今も見つかれば直ちに殺されてしまう彼に何ができるというのか。
「いい。別に……。」
どうせ何もできないのなら彼まで死ぬ必要はない。
「どうせ死んだって……。」
生きていたところでつらいばかりで、わたしに残されたものはもう何もない。
だったらいっそ死んでしまった方が楽になれるのでは。
「滅多なことを言うものではないぞ。」
「……。」
怒っているのか、諭しているのかと言った口調で、まるで親しい縁者のように嗜めるタケハヤに言い返したいことも沸いてこず、ただ押し黙る。
「帰っ――」
「わしはな。いかなる手段を用いてでも、そなたをヨシノへと連れ帰ろうと思うておる。」
「――て……?」
断りの言葉を口にしようとしたわたしを遮るように出たタケハヤの言葉に、在りし日の故郷の景色が、家族が、クニのみんなが脳裏に浮かび上がってくる。
(え……、帰れるの……?ヨシノに……?)
不意に飛び出した彼の帰郷発言に気持ちの制御が利かなくなっている。
彼にそんなことができるはずがない、冷静になれ。と諫める自分がいる一方で、感涙を惜しげもなく溢れさせようとしながら、彼の表明を歓迎する自分もいる。
どうしていいかの分からなくなり、ただ涙だけが心の内に収まりきらずに瞳の淵からこぼれ出てくる。
「このままここにいては、そなたは遠からず殺されてしまうであろう。」
揺れに揺れているわたしの心に追い打ちをかける彼の言葉に、それはその通りだと心の中で同意する。
トラひげはわたしが打たれる様を嬉々として眺めていた。
おひい様もいつもの気丈さはどこに行ってしまったのか、消沈したきりで助けてくれる様子はなかった。
ここにもう救いはない。それは分かっている。
「だが、傷ついた今のそなたでは忍んでこのクニを抜け出すことなど叶わぬであろう。」
だからこのクニの制圧に手を貸せというのか。
確かに今のわたしがこのクニを出るには正面から堂々とするしかない。
「……やるわ。」
ろくに思案もせずに答える。
依然として気持ちがぐるぐると揺れ動いているように思えて、その実、故郷に帰りたいというその一念が彼の意見を支持して止まない。
ここに味方はいない。故郷に帰りたい。家族に会いたい。そして、
(くーちゃんに……。)
どうしたいのか……。その先を考えることはなかったが、その一心に埋め尽くされたわたしの気持ちがそう判断するのに時間など必要なかった。
応諾を口にしたことで、血が全身を巡っているように力が湧いてくる。
「やる……。」
繰り返し応諾して自分を奮起させる。
他にも言いたいことがあるが、うつ伏せたままではうまく声が出せない。どうにかして体を起こそうと全身に力を籠める。
しかし、わずかでも動かすたびに、ミシミシとまるで体が崩れるかのような痛みが背中を駆け回って、直ちに動くことをやめるよう警告してくるわたしの体。
「っ……!」
「ああ、動いてはいかん。そのままに……。」
いつでも人を食ったような態度を好むこれまでの彼と同じ人物とは思えないほどに、わたしを案じてワタワタと制止するタケハヤを無視して、歯が砕けるのではないかというほどに食いしばって両腕に力を入れて体を起こす。
ぐぐぐ……と少しずつ上体が起き上がって、被さっていた毛皮もそれに合わせて、ス……ス……と少しずつずり落ちてゆく。
「……。」
「お……おお……。」
わたしの執念に驚きの色を隠せないタケハヤを脇目に、どうにか体を起こして座り直すと、しばらく下を向いたままで呼吸を整える。
息が上がっている。背中がズキズキと疼く。体が熱い。頭が痛い。目が回る。耳が詰まっているような感覚。呼吸をするたびにボーボーと耳の中で反響しているのか、ひどく煩わしい。
背中の傷は痛いのか熱いのかすでに分からなくなっていて、体がふわふわと宙に浮いているように思える。
だけど、わたしにはまだこれくらいのことはできる。だから……。
「やる。」
息を整えたわたしは、彼に向かって力のこもった言葉をはっきりとぶつけた。




