第47節 狂気
「きゃあっ……!」
ひいちゃんの体が板張りの床に崩れ落ちる鈍い音と、目の前で起きた惨劇にわたくしが上げた自分のものとは思えないほどの金切り声、二つの音が緊迫した気配に満たされた宮殿中に響き渡ったのはごく短い間だった。
(なんということを……。)
喜色、怒色、何の感情も表さずただ自分の足元を見ている義父と、その足元に転がるひいちゃんの体。
信じがたい光景に、今の今まで力が入らなく平伏することしかできなかった体が、一転して力が入りすぎるほどに入ってしまい体中のありとあらゆる節々が強張って、身じろぎ一つできなくなってしまう。
(ひ、ひいちゃんは……。)
無事なのでしょうか。横たわったまま動かない彼女を見やる。
血は……出ていない。血しぶきが上がることもなければ、おびただしく流れ出た血があたり一面を赤く染め上げるということもない。
養父は手指に絡みつた髪束を無造作に彼女に向かって放り捨てる。
そこでわたくしは気付いた。切られたのは髪。首ではなく彼女の髪の毛だった。
彼女は死んでいない。
そのことを理解すると、わたくしの中で張り詰めていた緊張の糸がぷつと切れ、またしても体から力が抜けてゆく。
もう、しばらくは足も腰も立ちそうにない。わたくしにあるまじき無様を皆に晒してしまった。
でも良かった。ひいちゃんが助かったのだから。
みっともなく丸まった背中を伸ばすことも忘れて安堵するわたくしの気持ちをあざ笑うかのように養父は宮殿に居並ぶの者たちに聞こえる様に高らかに宣言した。
「棒叩きにしてくれる。二十だ。」
棒叩き……。仕方がないのかもしれない。彼女に全く非がないわけではない。
平時の自分であれば、わたくしに断りなく臣下に罰を下すなと翻意させるまで何としても反対していたのでしょうが、息つく間もなく起こる一連の出来事に翻弄されてばかりで、ここからさらに反対するだけの精も根も失われていた。
彼女の若さ、体力ならば二十を耐えられないこともない。
これを乗り越えてくれればまたわたくしの庇護の中で彼女を守ることができる。その時はもっと手厚い庇護を与えて、養父には絶対に近づけさせない。もう二度と彼女につらい思いをさせないようにしよう。
「……五日空けてさらに二十。それを十くりかえす。」
今後のことを考え始めていたわたくしの不意を突くように養父はそう続けた。
(それは……!)
いくらなんでもあり得ないことです。考え直してください。
抗議の声を上げたつもりだったが、あまりのことに口がパクパクとするばかりで声が出て来ない。
この場に居並んでいる普段は養父におもねるばかりの諸官も、そのあまりに冷酷無惨な裁定に驚愕の色を隠せていない。
それでは彼女が死んでしまう。養父ははじめから彼女を許す気などなかったのだ。
(義父は……なぶり殺しにする気だ。)
まさか、これほどまでに残虐な嗜好の持ち主だったとは。
「一回目を始めるぞ。直ちに準備せよ。」
そう言うと養父は高笑いを挙げながら宮殿を出て行った。
わたくしは乾ききった唇を閉じることも忘れ、彼を追うこともできずにただ呆然とその背中を眺めるしかなかった。




