第36節 夜這う
寝付けない。
あれから故郷のことが頭から離れずイライラとして、どうにも気になって仕方がない。
忘れていたわけではなかったが考えないようにしていた故郷。一度頭についたらそう簡単に離れるものではなかった。
(……やるか。)
皆が寝静まったころを見計らってわたしはこっそりと部屋を抜け出した。
誰にも見られないように足音を殺してひっそりと移動を開始する。
寝ているのか夜鳥も鳴かぬ静かな夜。このクニ唯一の柵門近くにそびえる櫓の篝火の明かりと、それに負けないくらいの光が空から降り注いでいる。
考えても考えても、考えがまとまらなかった。もっと情報が欲しい。だったら自分から動いて手に入れてしまえばよい。
そう思い立ってタケハヤと名乗った例の使者が泊まる部屋の前まで来ていた。
日を改めることも考えたが、使者は明日には発ってしまうという。それに一介の下女ごときが他国の使者と話しをする機会などないだろう。
だから今しかない、そう思ってここまで来たのだが。
一度息を深く吸って、止める。ゆっくりと吐く。
知らない男の部屋を訪う。そんなこと意識したこともなかったが、こんなに緊張するものなのか。何かやましいことをするわけでもないのに胸がどきどきとして止まらない。
「もし。」
意を決して声をかけるも返事がない。もう一度。
「もし……使者の方。」
気付かずそのまま寝ていてくれてもいい。それならわたしは諦めて下女部屋に戻るだろう。いや、むしろ寝ていてほしい。
緊張に耐えきれず、やってきた目的を余所に放り投げたかのようにそんなことを考える。
しかし、わたしのそんな淡い期待をいとも簡単に打ち砕くように中から返事が返ってくる。
「誰か?」
分かっていたさ、彼が起きてるってことは。だって戸の隙間から明かりが漏れてたんだもの。
「夜分遅くに申し訳ありません。あの、少しお話ししたいことが……。」
女は度胸。腹を括って答えると部屋の戸が開かれた。
タケハヤはわたしの顔を見るなり喜色を浮かべた顔をさらに上気させて、
「やあ、女子の身でありながら男子の寝所に自らやってくるとはなんと積極的な。さ、恥ずかしがることはない、こちらへ。」
そう言ってわたしの肩を引き寄せるように中へと招き入れる。
なにを言っているのかこの男は。そう思ったが、こんな夜中に女が男の部屋を訪れればそう勘違いするのも無理はないかもしれない。
しかし、だからと言ってこちらもそのまま体を委ねるわけがない。
ここで彼の機嫌を損ねてはまずい。かと言ってこのまま流されたらもっとまずい。ここは穏便に断らなければ。
「ち、違います。あなたにそんな興味はありません。」
そう考えて口を開いたはずなのに出てきたのはかなりはっきりとした拒絶だった。
それはいくらなんでも失礼ではないかそう思ったのだが、
「おや、ではどのようなご用かな?」
彼は着座を促しながら聞いてくる。残念そうな顔ではあるが、どうやら彼の機嫌を損ねることもなかったようでほっと胸をなでおろす。
「実はお話ししたいことが……。」
わたしは気を取り直すとわたしがヨシノの人間であること、故あっておひい様に仕えていることを話した。
もちろん彼に対する猜疑の心は忘れていない。わたしがヨシノ大王の娘などということは言わなかった。
彼はわたしの話を腕組みなどしつつ聞き入ってくれた。
そしてヨシノが今どうなっているのか聞かせてほしいと頼んだわたしに彼は語った。
「我がヨシノのクニはここクマのクニから遠く離れた山林に囲まれた小高い丘の上にあります。丘の下には川が流れておりますが、これはかつて我がクニを襲った災厄の炎を防いだことから――」
「そうではなく。」
当たり障りのないことを述べる彼の話をさえぎる。
地理歴史が知りたいわけではない。そんなことは聞かされなくても知っている。ヨシノが今どうなっているのか、情勢が知りたいのだと問い直す。
「なるほど。しかし、それはできん。」
彼がヨシノの使者を騙っているのであればその内側のことまでは知らないはず。
騙り者ならば、そのように答えるだろうと思っていたそのままの答えが返ってくる。
「それは、なぜですか?」
「そなたが何故この地に留まるのかは知らぬが、今は他国の臣である以上おいそれと我がクニの内情を話すわけにはゆかぬ。」
タケハヤの言い分はもっともなことだと納得してしまう。
こちらの事情をすべて詳らかにしなかったことが災いしたが、だからと言って本当のことを明かす気にはなれない。
「では、せめてクニのみんなは変わらずにいるかだけでも……。」
どうしても知りたい。どんなことでもいいからみんながどうしているかだけでも。
「うむ、変わりないぞ。そなたがヨシノのどこの者か知らぬが、皆息災にしておる。」
そりゃそう答えるだろう。なんて馬鹿な質問をしてしまったのか。
聞きたいことが何も聞き出せない。もどかしくてたまらない。
「そうじゃなくて!マガツホシは?災厄の大神は?クニは無事なの?くーちゃんはどうなったの?」
我慢できず、少しでも好印象を抱いてもらえるように被っていた猫を放り投げて、噛みつくように問いかける。
これにはタケハヤも驚いたようで、うおっとのけ反ったが、
「……そうか……。」
と言って姿勢を正すと、口元に手を持っていって真剣そうに思案に耽たっきり黙り込んでしまった。
そもそもタケハヤが本物の使者かどうかもわかっていないのに、そんな突っ込んだ質問をしても仕方がないのだが、冷静さを失ったわたしはそのことに気付けなかった。
「……やはり言えん。」
顔を上げたタケハヤは、今日一番といっていいほどの真面目な顔でそう答えた。
「なんで?」
「クニの大事だ。口が裂けても言えぬ。」
そう言われたら何も聞き出せない。でも、だからと言って引き下がるわけには。
「すべて済んだ、とだけ言っておこう。」
「……っ。」
すべて済んだ……。その言葉がわたしの心に重くのしかかる。
「まあ、そう気を落とすな。わしは今後もこのクニに通うことになる。いずれ話せることも出てこよう。」
もっとはっきりしたことを聞きたかったが、ああ言われるとそれも怖い。
悔しくても悲しくてもこれ以上はどうしようもなかった。
わたしは失意を隠せぬままタケハヤに頭を下げると部屋を後にした。




