01.クラウス
公爵から投げかけられた問いにどう答えるかが、全ての分岐点であった。ゆえにマルタは告げた。
「お父さま。クラウスにはまだわたしの執事でいて欲しいと思っております」
クラウスの任を続投する、と。
新任の執事は公爵が選んで連れて来る。
その過程にマルタが入り込む余地はない。
だから、ここでクラウスを留めるという選択が唯一助かる手段であった。
「マルタ……クラウスはもう良い歳なのだ。ゆっくりとした老後を送らせたいとは思わぬのか?」
公爵のその言葉には、マルタも内心では同意している。前回頷いたのも、まさにその気持ちがあったからこそだ。けれども、それがゆえにイルーツェクを招く事態に陥ったのである。
我儘なのは理解している。しかし、死にたくはない。
マルタはクラウスをちらりと見た。クラウスの気持ちについては無視して話を進めているから、どう思われているのか少し気になったのだ。
クラウスは目を瞑っていた。どのような結果が出ようと受け入れる。そういった雰囲気であり、表情からは良し悪しの感情を汲み取る事は出来なかった。
「マルタよ、儂をあまり困らせるな」
「でもお父さま……」
「でもという言葉はいらぬ」
マルタは焦った。
このままではイルーツェクが来る事になってしまう、と。
「……」
マルタはもう一度クラウスを見た。目を瞑ったままだ。相変わらずに良いとも悪いとも思っていなさそうな表情である。
けれども、それは同時に、少なくとも嫌だとは思っていないということも示していた。だから、マルタはクラウスに抱き着いた。
「わたしはクラウスが良いのよ! お父さま! クラウスは嫌そうな顔をしていないし、良いじゃない!」
マルタは駄々を捏ねた。すると、公爵が呻いた。
「ぬぬっ……」
公爵は常日頃マルタを律しようとしてくる。しかし、本格的に駄々を捏ねられれば一考する癖がある。マルタはそれを知っており、だから駄々を捏ねた。
夫人が長子のマルタを産むと同時に亡くなって以降、公爵は後妻や妾を取らなかったことから、家族がマルタしかいない。だから、そんなたった一人の愛娘から強くお願いされると頭を悩ませるのである。
既に決定し履行している事柄を覆すのは公爵もさすがに難色を示すけれども、その前段階で捏ねたのであれば、駄々は高い効果を発揮した。
もっとも、我儘や駄々には品性が感じられないので、マルタはこれをあまり好ましくはない手だとは思っている。しかし、今が生死の境目なのだ。利用出来るものは何でも利用する。
「……そこまで言うのなら、クラウス本人が良いと言うのであれば今回の話は無かったことにしよう。クラウスはどう思っている?」
公爵は息を吐いてそう言った。
どうやら、全てをクラウスの判断に委ねる気らしい。
マルタはぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、クラウスの顔をじいっと見つめた。「お願いお願い」と祈りながら、ごくり、と唾をのみ込む。
クラウスは少し困ったように眉根を寄せながらも、マルタをゆっくりと降ろして、
「……お嬢さまが望まれるのであれば、この身が塵あくたとなる日まで、お仕え致しましょう」
――やった! と、マルタは思わず向日葵のような笑顔になり、それを見た公爵とクラウスが「やれやれ」と肩を竦めた。
☆
イルーツェクを雇わない方向に動き数日が経ってから、マルタはクラウスから剣を習うことにした。刺された時の記憶が、どうにも脳裏に浮かんで消えなかったからだ。
あの時のような事態が今後に起きないとも限らない。その不安から、自分の身くらいは自分で守れるようになりたいと思ったのだ。
剣を習うにあたって、特別に講師や師は呼ばない。老齢なれど、かつて”剣聖”とも謳われた経歴を持つのがクラウスであり、それ以上の人物など見当もつかなかったからだ。
ただ、そろそろ、公爵が1人目の婚約者を探し出して来る頃でもあった。本来であれば、剣の練習よりも花嫁修業をするべき時期ではある。
マルタもそれは分かっている。しかし、刺された時の記憶が忘れられないので……。
「えいっ! えいっ!」
「体幹がブレております。剣は腕の力だけで奮うのではありません。全身を使うのです。足と手の指先が体を通じて繋がっている意識を持たなければなりません」
「ぬぬ……」
「さて、そろそろ今日は終わりにします。少し休まれてからお屋敷に戻りましょう」
懐中時計で時間を確認したクラウスが休憩を告げた。
動いて体が火照ったこともあり、マルタは服をぺぺいと脱いでシュミーズ姿になると、ごろーんと芝生の上に寝転がった。
「はしたないですよ、お嬢さま……」
「暑いのだもの……」
「体を動かせば暑く感じるものです。……仕方ありません」
クラウスはどこからか布を取り出すと、マルタに羽織らせる。通気性が良い布らしく、羽織ったからといって暑く感じるようなことは無かった。
「ありがとう……」
「いえいえ」
青空を眺めていると、ふいに、マルタはなんだか少し不安になった。基礎基本から剣を習い始め既に一カ月が経つと言うのに、一向に上達している実感が湧かなかったからだ。
「わたしは強くなっているのかしら」
「上達はしているかと思います」
「本当に? ちっともそんな気がしないのだけど」
「そうすぐに実感など湧きようもありません。数え切れないほどの積み重ねと経験を経て、そうして振り返った時に、初めて『少しは強くなった気がする』と、そう思えるのです」
「なるほどね……」
「いずれそう思える時が来ましょう。それも、そう遠くないうちに。……お嬢さまは軽やかに動かれますので、素質はおありです。跳ねやかな動きをされておりますゆえ。そうですね……さながら、長い間重りを積んで鍛錬した者のような感じと言いますか」
重り、という言葉に心当たりがあったのでマルタは額に汗を浮かべた。
痩せている今の体重が45kg程度で、逆行前の体重が100kgほど。つまり、マルタは実に55kgの重りを背負って生活していたに等しいのだ。
100kgに到達したのが16歳の頃であったので、その期間は実に9年にも及ぶ。
ただ、さすがにその真実は伝えられないので、マルタは「あはは……」と渇いた笑みを浮かべた。
日が落ち始め、徐々に空は蜜柑色に染まっていった。ふいに少し強めの風が吹いた。通る風が肌から熱を奪い、マルタは身震いをする。布一枚では厳しくなってきたので、脱いだ服を再び着る。
早くお屋敷に戻って暖かい晩餐を頂こう――そう思った時であった。マルタが立ち上がった所で、クラウスの表情が剣呑となった。
「クラウス……?」
「お嬢さま」
「ど、どうしたの……?」
「お屋敷が燃えております」
マルタは改めて屋敷を見た。夕焼け色が世界を照らしているせいで、非常に分かり辛かったものの、目を凝らすと火の粉が上がっているのが見えた。
「お、お父さま――」
公爵は今日は屋敷の中で政務を行っている。つまり中にいるのだ。マルタの心中に不安が一気に湧き上がる。
「――なりません」
マルタは一目散に駆けだそうとする。けれども、クラウスに肩を掴まれた。
「でも、お父さまがっ……」
「……今のお嬢さまが向かわれたところで、何が出来ましょうか。ご安心ください。代わりにこの私めが確認して参りますので」
クラウスの真剣な表情と語気に、マルタは冷静さを取り戻した。
確かにクラウスの言う通りで、今の自分が行った所で何か出来ることは無く、むしろ悪戯に迷惑をかけるだけである。
落ち着いたことでマルタはそれを理解し、だから、唇を噛み締めて「お願い」とクラウスに伝えた。
「お嬢さまはひとまず街に向かわれて下さい。私も屋敷を確認した後にすぐに追いかけます」
マルタはゆっくりと頷いた。
☆
公爵家は街から少し離れた場所にあり、そこから街へ向かうのならば二十分は掛かった。しかし、それはあくまで歩いた場合。走ったマルタは五分程で辿り着くことが出来た。
空を仰ぐと夕焼けは消えていた。世界を彩っているのは星の輝く夜空。
マルタはひとまず、クラウスが来るまで時間を潰すことにした。夜になったことですっかりと人通りが減った街中をうろついた。
どんどん夜が更けて行き、気づけば二時間ほどが経過。少なかった人通りが完全に無くなり、その頃に変な連中から声をかけられた。
「お嬢ちゃんとっても可愛いねぇ……」
「こんな夜中に一人で出歩くなんて悪い子だ」
「身なりが良いな。貴族の娘だな……?」
良く見なくてもならず者と分かる男性四人組である。彼らは舌なめずりをしながらマルタに迫って来た。
「ち、近寄らないで! 近づいたらこの剣でやっつけるわよ!」
マルタは木剣を構えて威嚇した。先ほどまで剣の練習をしていたから、木剣を持っていたのだ。
(これで引き下がってくれれば良いのだけれど……)
そうは思ったものの、男たちは『女の細腕で何が出来る』と言わんばかりに、威嚇に怯みもせずに襲い掛かって来た。
☆
「はぁはぁ……あなたで最後ね」
マルタは呼吸を荒げながら、最後に残った一人に切っ先を向けた。クラウスの教え方が良かったのか、それとも元より才能があったのか、ともあれマルタは三人を既に沈めていた。
「意外と強いな……くそっ……!」
残った一人は背を見せると逃走した。マルタは逃すまいと追いかけて――次の瞬間、後ろから誰かに羽交い絞めにされた。そして、それと同時に逃走を始めていた男が振り返った。ニヤついていた。
「駄目なお嬢さまだ。周りはしっかり見ないといけないぜ?」
男にはまだ仲間がいたようだ。マルタはその仲間に羽交い絞めにされたのであった。
「離して! 離してよ!」
マルタはじたばたと暴れる。しかし、まだ剣の練習を始めて一カ月のマルタには、男の腕力に勝つほどの力はついていなかった。振り解けない。
「離すわけないだろ。さ、今からお楽しみの時間だ」
言って、男は懐からナイフを取り出した。それが本物の刃物であると分かった瞬間、マルタは硬直してしまった。イルーツェクに刺された時の記憶がフラッシュバックしたのだ。
「あっ、あっ……」
「急に大人しくなったな。諦めたか? へへっ」
マルタはガチガチと歯音を立てる。
そして、男のナイフがマルタの服を割いた――
――次の瞬間。
「「ぐえっ」」
男たちが一斉に吹き飛び、ふわり、と絹の一枚布がマルタの体を包み込んだ。
「申し訳ございません。お屋敷で少々想定外のことが起きてしまい、遅れてしまいました」
マルタの瞳に一人の青年が映る。燕尾服を着ていたその青年は、美麗であった。氷の彫像を思わせるような、透き通った雰囲気の美青年だ。
「お嬢さま、少し驚かれるかも知れませんが、クラウスです。どうやら若返ってしまいまして……」
執事のクラウスであると青年に告げられ、マルタの目が点になった。突然の展開に頭の理解が追い付かなくなったのだ。
――若返った? 一体どういうことなの? お屋敷はどうなっていたの? お父様は? というか、若い頃のクラウスがこんな美青年だったなんて……。
マルタの混乱は極まった。そして、それに加えてならず者たちから救われて緊張が解けた反動が合わさって、きゅーバタンと倒れて意識を失った。