プロローグ
「マルタ、君との婚約を破棄する……」
「ど、どうしてっ」
「……ハッキリ言おう。太り過ぎなんだ。俺は豚と一緒になりたくない」
「酷い……なんでそんなこと言うの……」
「すまない……」
婚約破棄を言い渡した男の去り行く背中を見ながら、マルタは悲しみに打ちひしがれ、がくりと崩れ落ちた。
160cmという身長に不釣り合いな100kgの肉付き。それに伴う肥えた見た目を理由に婚約破棄され続け、今回が100回目となった。
自分は未来永劫結婚など出来ないのではないか――そう思えてならず、マルタは絶望を感じた。年齢ももう25であり、貴族の令嬢としては完全に行き遅れになりつつある。
「う、うぅ……」
悔しさのあまり、肉饅頭のような握り拳を何度も地面に叩きつける。
すると、ふいに誰かが肉饅頭な拳を受け止めた。
一体誰だろうかとマルタが顔を上げると、朗らかに笑う燕尾服を着た男がいた。マルタの執事のイルーツェクだ。
「イルーツェク……」
「お嬢さま、今回で100回目ですね」
「うっ」
「ある意味で快挙ですよ。恐らく歴史上でお嬢さまただ一人かと思います。どうされますか? 婚約破棄通算100回目記念パーティーでもなされますか?」
隙あらばいつもマルタをからかい小馬鹿にして来る。それがイルーツェクという執事だった。
マルタはハッキリ言ってイルーツェクが大嫌いであり、解任させようと思った事が何度もあった。しかし、仕事だけはきっちりこなす男ではあったので、父親である公爵が解任を嫌がった。結果、辞めさせることが出来なかった。
「ご所望であればすぐに準備を致しますが」
「や、やらないそんなパーティー」
マルタが首を横に振ると、イルーツェクは「はぁ」と溜め息をつく。ムカつく仕草だ。
「……明るくしなくてどうするのですか。ずっと落ち込んでいても何も変わりませんよ。だから、パーティーで気分を変えましょう」
「婚約破棄100回目記念パーティーなんて、わたしが笑いものになるだけよ。……わたしで遊ぼうとしているでしょ?」
「とんでもございません。……あ、そうでした。実はここに焼き菓子がございます。たっぷりとろーりと砂糖入り蜂蜜をかけてありますので、ぜひとも」
「え? ありがとう――って、またこんなもの食べさせようとして!」
マルタは貰った菓子を放り投げ――ようとして、作った料理人の気持ちを考えると捨てるのは忍びないので食べて――それから立ち上がり、どすどす歩いて屋敷まで帰ることにした。
「くくっ……」
イルーツェクはくすくす笑いながらついて来る。思い切り平手打ちをしてやりたい。しかし、従者に暴力を奮うのは淑女として相応しい行いではないので、マルタは我慢した。
「ったく……」
「まぁそう怒らないでください。私とお嬢さまの仲ではありませんか」
「執事と令嬢というだけの仲でしょ」
「……酷いですねその言い方は」
「酷いのはどっちよ」
どすどす歩きながら、マルタは、かつて自分がまだ痩せていた頃のことを思い出していた。
特別に美しかったり可愛かったわけではないし、公爵令嬢という肩書はあったけれど、そこまで周りからチヤホヤされていたわけでもない。でも、今ほど鬱屈した日々では無くて、平穏で普通な日常を送れていた。
一体いつからおかしくなったのだろうか? マルタは振り返る。キッカケは肥えたことだ。そして、肥え始めたのはイルーツェクが執事になってからであった。
そういえば、イルーツェクを迎え入れることになった原因はなんだったろうか。確か、10年前のある日の夜に公爵が切り出した提案が発端だった。
――お前に付けている執事のクラウスはもう老齢だ。ゆえに、そろそろ退任して貰い、新しい執事をつけたいのだが。
クラウスは穏やかで優しい人物で、そのうえ護衛としても申し分が無い経歴の持ち主でもあり、自分が産まれた時からずっと傍にいてくれた執事であったので、マルタは寂しく思った。
けれども、御年六十と歳を召しており、これ以上働いて貰うのも悪いというのも確かに感じていて。
(クラウスは今まで十二分に働いてくれたもの。あとは、どうか素敵な余生を過ごして貰いたい)
その思いから、マルタは公爵の提案を受け入れることにした。
そして、後任として連れて来られたのがイルーツェクであり、この時からマルタの激太り街道のレールが敷かれたのであった。
『どうぞお召し上がりください』
執事となったイルーツェクは、そう言って、ことあるごとにマルタにお菓子を差し出して来た。
当初はお菓子を出されてもと困惑はしたものであった。
しかし、イルーツェクが『早く仲良くなりたくて』と言い出すものだから、どうしても断り辛く、ついつい食べてしまった。
まだこの時はイルーツェクの嫌味な性格を知らなかったから。
そして、食べているうちにお菓子が大好きになって、胃袋も大きくなって、それ以外の食事も旺盛に取るようになり……諸々に気づいた頃にはもう手遅れであった。
「お嬢さま、お待ちください」
「待たないわ」
「婚約破棄100回で落ち込む気持ちはお察しします。ですが安心してください。……誰も貰い手がいなくなったお嬢さまは私が貰いますよ」
――また馬鹿にしてからかって来た。マルタはそう思って「ふごっ」と鼻を鳴らして無視する。ただ、数秒の間をおいて違和を感じた。
違和の正体はイルーツェクだ。いつもであれば、マルタがこういったツンとした反応をすると、先ほどのようにくすくす笑ってくるのに、今回は笑わなかったのである。
なぜか悲しげな顔をしている。そして――イルーツェクは懐から何かを取りだした。見ればそれは短剣である。
「……イ、イルーツェク?」
一体何事かとマルタはぎょっとして後ずさった。すると、イルーツェクは表情を一転させ、突如として怒りに満ちた表情を作った。
「どうして、私の愛が分からないのですか?」
「な、なにを言っているの?」
「お嬢さまと執事の間柄ではまず一緒にはなれません。ですが、婚約が幾度となく破棄になれば、旦那さまもお嬢さまの相手は近くにいる私しかいないと、きっとそうお思いになる。太らせることでお嬢さまは婚約相手を失い、そして私にもチャンスが訪れる。……これは一石二鳥の案だった」
じり、じり、とイルーツェクが近づいて来る。
「なのにお嬢さまはいつも私を見て下さらない。執事と令嬢――それ以上でも以下でもないという態度をお崩しになられない。それを鑑みてか旦那さまも一向に私に白羽の矢を立てません」
イルーツェクが語った言葉は、全て真実であるという力強さを持っていた。ウソ偽りのない言葉であると本能的に感じた。
「……私のものにならないなら、せめて、殺して永遠に誰のものにもならないように」
イルーツェクの握った短剣が、マルタの心臓を貫く。鈍い感触と走る激痛に、マルタは大量の血を口から吐き出した。そして、倒れる寸前にイルーツェクの顔を見た。恐ろしい悪魔のようであった。
(なによこれ……。どうしてこんなことに……? わけの分からない執事の恋慕で人生めちゃくちゃにされて……挙句殺されるって……わたしの人生って一体……。嫌よ。こんなの嫌よ。叶うことならば、こんな事態になる前に、そうイルーツェクと出会う前から人生をやり直したい……)
マルタは一粒の涙を流しながら、そして、意識を失った。
☆
「――お前に付けている執事のクラウスはもう老齢だ。ゆえに、そろそろ退任して貰い、新しい執事をつけたいのだが」
マルタが意識を取り戻すと、目の前に公爵がいた。屋敷の中だった。
「お父さま……?」
「どうした? 今の儂の話をきちんと聞いていたか?」
「えっと……」
「クラウスを退任させ、新しい執事をお前につけたいという話だ」
マルタの隣には、既に辞めていたハズのクラウスの姿があった。戸惑いつつ、マルタはいま一度公爵を見る。すると、今よりも幾らか若く、まるで十年前の時のような見た目であることに気づいた。
(どういうこと……?)
マルタは怪訝に思いながら、きょろきょろと周囲を見回した。そして、壁に掛けられている鏡を見てハッとした。そこに映っていたのは、紛うことなき十年前の自分であったのだ。
良く分からないけれど、どうやら、マルタは逆行して過去に戻って来たらしい。それも、イルーツェクを雇うかどうかの転機の場面にだ。
マルタはしばし言葉を失った。しかし、理由や理屈はどうあれ戻れたのであればこれはチャンスだと思い、すぐさまに決意を新たにした。
――ここからなら、人生をやり直せるかもしれない。まだイルーツェクを雇う前であるここからなら。
 




