頼れる先生
≪ロココ主義、新古典主義、ロマン主義、写実主義…そして、印象派。光を求めて貪欲に手を伸ばした画家たちの作品を見て何か気付いた事はありますか?今からプリントを配るので、感じたことをまとめて来週までに提出してください。来週からはポスト印象派についてお話をします。少し時間が余ったので、ほんの少し代表的なものをスライドでお見せしますね。先日県庁横にある県美術館でね、ゴーギャン展が……≫
金曜一限目、大学構内で一番大きな教室…美学第一ホールで行われているのは、西洋美術史の授業だ。
ここはディスカッションルームより少し広く、学生の着席するところが階段状になっていて、大きなスクリーンで映画を見たりすることもできる。去年映像学の集中講義の時、この教室で…思いのほか大きな画面で白黒映画を見ることができて、森川さんがいたく感激してたんだよね。
美学学科一の最新の設備を誇るこのホールは、実に最大収容人数150人、講義の際はマイクの使用が必須となっている。声量と体力に自信のある比較美術史の多田先生だったらマイクなしで頑張れるかもしれないけど、ごく一般的な人では、とてもこの広い場所で声を隅々まで届ける事は難しいと思われる。今も西洋美術史の担当教授、近藤先生が少々かすれた声で熱弁をふるって下さっている。近藤先生は熱意がありすぎるので、毎回授業後半には声が枯れてきてしまうという。
美学学科のゼミで一番人気を誇る近藤先生の授業は、実に多彩なスライドの多用と丁寧な解説、そして奥の深い考察…、やや情熱の籠りすぎた美へのこだわりと自身の主張をパワフルに披露する所にちょっとくせがあるけれど、大変に学生達の間で好評なんだ。時折熱が入りすぎて時間オーバーすることがあるものの、学生たちの言葉に耳を傾け、どんな意見もとりあえず理解しようと対話を重ねる姿には、多くの学生達から尊敬のまなざしが向けられている。
授業後のみならず、空き時間や移動の時にもよく質問を受けていて、隙があれば学生となんだかんだ芸術について話し込むほどに、近藤先生は研究分野に心血を注いでいる。ゼミの教室を訪れる学生は多く、人望はかなり厚い。お年を召した先生方が目立つ中の脂の乗り切った40代という事もあり、美学学科全体をぐいぐい引っ張っていく教授の代表者と言える。
発言にブレがないし、基本ポジティブで前向きな姿勢を貫いているから、どこぞの適当助教授とは違って頼りがいが有りすぎる人物なんだ。
西洋美術史の授業は、短大の方から教養分野として選択受講する人もボチボチいたりするくらい人気の講義だったりする。近藤先生は地味に地元テレビのコメンテーターを勤めていたりするので、ややミーハーな学生が集まりがちではあるけれど…。
今この西洋美術史の授業を受けている生徒の数はおよそ145人、受講者数の多さはおそらく学内においてトップスリーに入ると思われる。羽矢先生の心理学の講義もずいぶん人気だと聞いたことがあるけど、良い勝負なのかもしれない。
……とはいえ、不真面目な生徒にとっては、提出物の多さや常にノートを取らなければいけない煩わしさが勝るようで、敬遠するような人も少なからず、いたりするんだけどね。
僕は正直な話、西洋美術史については…有名どころを知っているくらいで、あまり知識に自信がなかったりする。美術館に行って、綺麗な絵だなあとか、素敵な表情だなあとか…そういう感想は出てくるものの、作品の時代背景や生まれた理由、表現技法の繊細な推移、作者の生き様なんかについてはほとんど興味がないというか、説明書きを見ても身についていかないんだ。敬遠するほどではないけれど、大喜びで近づいていくような積極性は…ない。
近藤先生の巧みな話術と洗練されたスライド多用の授業には非常に魅力を感じるけど、正直ノートを取るのに精一杯で、より深く芸術を研究しようという気力がわいてこないというか…。こういうのが、向き不向き、好き嫌いっていうものなんだろう、おそらく。
「カナキュン、やばい…ロマン主義と写実主義の見分けが…つかない!!わかる?」
講義の終わりを告げるチャイムの音を聞いた瞬間、配布されたプリントを見ながら焦っているのは笠寺さんだ。芸術作品を鑑賞するよりもデザインをするような分野に興味があるから、絵画鑑賞は苦手だと常日頃から言っているんだよね。その気持ち、わりとよくわかる気がする。
僕で力になれる部分があるならと、プリントに目を通してみる…、なんだ、スライドに出てきていない作品タイトルが…、ちょっと待って、初見の作者も随分あるぞ、これはとても人様にアドバイスできるようなレベルではない!
「僕もイマイチ…あとで由香に聞きに行こうかな。たぶん詳しく解説してくれると思うし。」
近藤先生の所に行って聞こうものなら、がっちり捕まって色んな話をされてしまうのは目に見えている。こういう時、西洋美術史に明るい人物がいると本当に助かるんだよね。まあ、由香は西洋に限らず、日本美術史にもかなり詳しいんだけど。
「あー、そっか、ユカユカ西洋ゼミ希望って言ってたもんね!お昼に聞いてみよ!!」
「うちも聞きに行っていい?なんかちょっと…カタカナ作者、難しくて!」
由香はもうすっかり笠寺さん、秋元さん、大崎さん、川村さんと仲良くなり、頼られる存在になっていたりする。少し前にみんなでスポコンドリームに行って以来、由香の交友関係が広がったんだよね。初めは少しぎこちなかったけど、今ではたまにお昼を一緒にしたりしているみたいなんだ。
僕や森川さんは学生会に行ってしまうし、布施さんは部室でミーティングついでにご飯を食べることが多いので、いつも由香は一人で昼食をとることが多かった。でも最近賑やかにご飯を食べることが増えて…楽しくなったと、聞いていたりする。少し人見知りの傾向がある由香を、フレンドリーな大崎さんや川村さん、笠寺さんが積極的に巻き込んでくれているみたいなんだ。秋元さんは普段ほんわかしてるけどその実かなり研究熱心なタイプだから、由香と相性がいいらしく、たまにお昼そっちのけで白熱した討論をしていたりするのだそう。
もうないとは思うけど、桜井さんの一件もあったので、あまり一人でご飯を食べて欲しくないなあと思わないでもなかったから、今の状況は僕的にも喜ばしい事だったり。
「あたしは…どうしよう、写させてもらえないかな…西洋って難しくない?!ヤバイよね、こんなんで学芸員の資格取れるのかなあ、心配になってくる!!」
「苦手な分野って誰にでもあるよ。得意な事でカバーしたら良いんじゃない?僕もちょっと西洋は難しいから不安だけど、一緒に頑張って行こうよ。」
美学学科は、特定の科目を履修することで学芸員の資格が取得できるようになっている。博物館や美術館への就職に有利だったりするので、基本、ほとんどの学生が資格取得を目指しているんだけど…毎年何人かは脱落者が出ているみたいなんだよね。博物館実習があるので、西洋美術の知識があった方が助かる、多ければ多いほど楽になると楠先輩から聞いているんだけど…。
「ムズいもんね、あー、私資格取るのやめよっかな…。なんか急に授業きつくなった気がする、ついていけないって言うか!ヤバイ、留年したらどうしよう!」
「今のところ、美学学科で留年した先輩はいないみたいだから、川村さんが留年したら第一号って事になるね。…僕はみんなで一緒に卒業式を迎えたいと思ってるんだけどな?」
「だよねー!卒業式のマント、みんなでお揃いで着てさ、絶対写真撮りたい!ガンバ!!!」
「卒業かあ…あと三年、今いる美学の学生、100人くらいだよね?どれくらい一緒に卒業できるんだろ…。中には留学とかする人もいるんでしょ?退学とかさ!」
「ええ?!美学で留学?!英米だけでしょ!退学ってそんなのよほどの事だよ?!ないない!」
そういえば英米は年間2,3人が留学に行っていると聞いたことがある。確か姉妹校がカリフォルニアにあるとか……。三上先輩も行きたかったんだけど、家庭の都合でどうしても無理で、泣く泣く諦めたと聞いた。
爆食のおっさんやティアと流暢に英語で会話をしているのを間近で見ていると、留学の必要なんてなさそうなんだけどね……。




