被害者続出
3時間目のドイツ語Aの授業は、連結式の机ではなく、高校で使うような個人机が並ぶ教室で行われている。出席番号順に座席が指定されており、欠席者はひと目でわかるようになっている。僕は石橋だから、出席番号が前の方。前から2番目の席に、座っている。
…いつも、由香が好んで座る、窓際に…着席する。窓が開いていて、心地よい風が時折流れているけれど…僕には、揺れるような、ふわふわとした髪は、持ち合わせていない。揺れる髪を持つ由香は、第二外国語でフランス語を選択しているから、この教室には、…いない。今頃、布施さんと森川さんと一緒に別の教室で…授業の準備をしている、はずだ。
「あ!!カナキュン!ねえねえ、結局どうなったの?!」
「桜井帰っちゃってさあ、詳しい事わかんないってゆっか!」
「…帰った?」
席に座った僕を、大崎さんと川村さんが、囲む。大崎さんは右斜め前の席で、川村さんは右斜め後ろの席。いつも騒がしい二人だけど、ドイツ語Aの授業はずいぶん前の方の席になってしまったので…いつも非常におとなしく聴講している。…もういっその事、全部の授業で席を指定してもらった方が、僕的にはありがたいんだけども。
「なんか急に用事ができたって言ってさあ!学食テラスに乗り込んできて、ノート奪われて!」
「あたしまだ写しきってなかったのに!!!」
桜井さんのノートを写していたのは、笠寺さんと秋元さんだけじゃなかったらしい。
「僕のでよかったら見るかい。」
「いいの?!ありがとカナキュン!!!」
「あ、あたしも!!」
大崎さんも川村さんもすぐ近くの席だからね、写し終わったらすぐに回してくれるだろうし。大崎さんが僕のノートを写し始め、それをのぞきこみながら立ったまま写す、川村さん。ちょっとおかしな訳があるかもしれないけど、まあ、参考程度には、なるはず。…僕はあまり語学方面に明るくないというか、得意じゃないというか、苦手というか…。単語調べだけはしっかりやってあるから、それだけ写しておけば、多分いきなり先生に指されても…対処はできると思われる。
「…カナキュンは大丈夫だったの?なんか桜井、怖い顔しててさあ、大変だったよ!!」
「ね!!!めっちゃ怖かったー!」
僕の前の席の秋元さんが振り返る。心配そうな表情だけど、わずかに怒りの感情のようなものが…浮かんで、いる。
隣の席の笠寺さんは、いつも通り、普通の笑顔?ちょっとワクワクしているような、空気が漂っているような、気がしないでもない。
「…怒ってた?ちょっとね、桜井さんが、暴走しちゃって…もめたんだよ。」
「…怒ってるというか、思い詰めてる感じ?なんかぶつぶつ言ってて、怖かった。」
「何があったのって聞いてるのに、全然うちらの話聞いてくれなくて、ねえ?」
結城先生の力技で止まったと思ってた暴走だけど、どうやら完全には止まっていなかったらしい。
「学生会メンバーの話を一切聞かなくて本当に困ってしまって…強引に、もう一人の顧問の先生が止めたんだ。すぐに学生会室から退出するよう言われて、おとなしく出ていったんだけど…。」
「全然大人しくなかった!」
「かばんとかバンバン音立てて…投げてたよ?私ペンケース拾ってあげたもん。でも、お礼も言わないで奪ってって!!!」
モノに当たって、怒りをまき散らしていたのかな?…普段の控えめな桜井さんのイメージとはかけ離れているけど、僕は今日…本性を知ってしまったから、その嵐のような場面を、思い浮かべることが、出来て、しまう。
「…なんかね、書かなきゃいけないものがあるから、授業に出れなくなったって言ってた。でも優が取れなくなると困るから、先生に懇願しに行くって言って、ノート奪ってったの。」
「ものすごい手のひら返しで、うちら驚いちゃって!だっていつもあんなにノート写しなよって言って差し出してる人だよ?」
桜井さんはとてもマメで、予習や宿題を欠かさずやってきていて、それを日常的に惜しげもなくいろんな人に差し出している。いつも仲良くしている人はもちろん、ほとんど話をしたことの無い学生にまで、自分のノートを貸し出しては感謝をされている。とりわけ、語学系の授業の前は、桜井さんのノートは大人気なんだ。普通に自分で予習をしてきている人でさえ、授業前に答え合わせをするためノートを見ておきたいと願うほどに、桜井さんの和訳はいつも完璧だった。
「…余裕がなくなって、いっぱいいっぱいになってしまったんだと、思う。」
「でもさ、気遣いって必要だっと思わない?ノート見て、ノートの文字を人差し指でなぞってるはっちの手を払い落として持ってったんだよ?!うちあんなの許せない!」
あのぷくぷくとした大崎さんの手を、何のためらいもなく払いのけたのか。暴走しているとはいえ、いただけないな。乱暴は、よくない。いつも落ち着いているけど、余裕がなくなると爆発?パワーをまき散らすタイプの様だ。
「…明日になったら、きっと落ち着いてるだろうから、そしたら、わけを聞いてみようか。きっと桜井さんにも、言い分が
「桜井の肩、持つの?!」
!!!!!!!!!!!!!!!!
穏やかに秋元さんの怒りを収めようとした僕の言葉が、遮られた。…不信感のにじむ、秋元さんの、顔が。真っ直ぐ、こちらを向いて。鋭い視線が、僕に、突き刺さって、いる。
…僕が、桜井さんの、肩を…持つ?
…さっき、結城先生にも…言われた。
―――ええー、そうなの!!あの子の肩を持ってたように聞こえたけど!
僕は!!!
決して!!!
肩を持つつもりで言っているわけじゃ…ない!!!
―――なんかさあ、イケメンちょーめんどくさい!!言いたいことぐらいはっきり言えなくてどーすんの!気遣い間違えすぎ!!
―――…僕は、傷つけたくないと思って、言葉を選んでいるだけで、別に…。
―――け!!そういうのがタラしてるっつーんだよ!!
―――石橋君はこういうタラシ方するのwwwマジ無自覚、テラヤバスwww
僕は、むしろ!!!
桜井さんとは、もう、これ以上…!!!
関わり合いたく…ない!!!
「違うよ!」
思いのほか、大きな声を、出してしまったらしい。
斜め前の席で、川村さんが目を丸くしてこちらを、見ている。大崎さんも、手を止めて、こちらを凝視、している。目の前の秋元さんは、もともと丸い目を一回り大きくして僕を見つめて、いる。
「僕は…桜井さんが、悪いと、・・・おも、う。」
「あ、アッキー、落ち着いて!!カナキュンのいつもの優しさだよ!!カナキュンが人の事悪く言えないの、知ってるでしょ!!」
僕の隣に座っている笠寺さんが、手をパタパタさせながら僕を擁護、している。
「ご、ごめん、うちもちょっと興奮し過ぎた…。」
キ―――ンコ―ン…
ああ、三時間目の始業のチャイムが、鳴った。…少しだけ、悪くなった空気が仕切り直されたような、安堵感。
授業が始まってしまえば、突然和訳を当てられる恐怖感の方が増して…今の緊張感を忘れられる、はず。ドイツ語の司馬先生は大変厳しい先生で、一言の私語で怒涛の説教が始まってしまうため、皆この授業中だけは一言もしゃべらずに90分間耐え凌ぐのだ。いつもならば、地獄の90分間に感じられるのだけど…今日は少しだけありがたく感じてしまう。気持ちの切り替えには、この90分間が…役に立つ、はず。僕は、気を引き締めて、背筋を伸ばし…教科書を、開いて準備を。
・・・?
いつもならば、始業のチャイムの音と一緒に入室してくるはずの司馬先生が、遅いな。…こんなこと、初めてだ。
「カナキュン、これありがと!」
「ああ、写せた?」
「うん、ばっちり!」
川村さんからノートを受け取る。大崎さんがいい顔をして手をひらひらさせている。…ムム、なんか書いてあるぞ。
「なんか訳間違ってたから書き足しといたよ!」
「はは、ア、ありがとう…。」
人の間違いを正せるくらい知識があるなら、なんで自分で予習をやってこないんだ…。地味に大崎さんは頭が良いんだよね…。
「Ich bin spät dran!!!はい、皆さんごきげんよう!!」
なんだ?やけに忙しない感じで登壇した…司馬先生の口調が、いつもよりもこう、勢いがなくて疲労感?おかしな空気を、纏っているような。
「Hör bitte zu…、授業の前に、皆さんに言っておくべきことがあるのです!」
教室内が、少しざわつく。…いや、誰一人として声は出していないが、なんというか、空気が、騒めいた?それくらい、異常事態というか…。
「私の授業の成績の付け方は、イチに出席率、ニにテストの点数、サンに勤勉な授業態度、いいですか?用事があって欠席する場合は欠席届を出してください!四月に言いましたね?」
学生たちが、声も出さずに、頷いている。…もちろん、僕も。一回目の授業で細かく説明されたから、しっかりその辺は理解している、つもりだ。
「欠席届を出せば、欠席は受け付けるのです。ただそれだけです。欠席届を出して、完璧に予習したノートを出しても、欠席は欠席、それは変わりません!」
……これは、もしや。
「生徒から申し出がありました、『ノートを出しても欠席が取り消されることはないと明言していない』と!その日に学ぶべきことをすべて予習して提出すれば、出席したと同じではないかと!学生の努力を何一つ評価しないのはおかしいと!!可能性のあることをすべて予測できなかった私に非があるとの事です!」
……桜井さんは、この鬼の司馬先生にすら、ケンカを売って…勝利を得たという事?!
「いいですか!その生徒には説明しましたが、成績は、四月に説明したように出席とテストの点数で加点し、授業態度で減点します!得点の多い者から順に、優、良、可の成績を付ける!予習では一切加点しません!欠席は出席分が加点されなくなるだけです!欠席したら減点されるわけではありません!なにか、質問のある方はいますか!!今、聞いてください、今後はこのような問答は受け付けません!」
……相当やり合ったのかな、もう二度と同じ轍を踏むまいとめちゃくちゃ…神経質になってるみたいだ。
「質問はないですか!では、今後は一切の成績の決定についての懇願は受け付けませんので、ご理解願います!では!Beginne zu lernen!!!」
始業時にずいぶんヒートアップした先生ではあったけど、授業中は割と平静さをとりもどし。
・・・僕は地味に、大崎さんのナイスフォローの恩恵に与り。
授業が終わる頃には、ずいぶん…冷静な自分に、戻ることが、出来た。
…戻れていると、思い、たい…。
 




