予想外
次の東洋美術史の講義が始まるまで、休憩時間を合わせてあと…30分程度。教室移動するにはまだ早い時間帯と言えなくも、ない。けれど、使用していない教室は基本的に学生が自由に使っていいことになっているからドアは開いているはずで、授業開始前に移動しても何ら問題はない。ただ…隣の教室はおそらく授業中だろうから、騒がしい女子と一緒に教室に入るのは少し…躊躇われる。
「僕は…東洋美術史で卒論書きたいと思ってるから、出るよ、でもまだ移動するにはちょっと早いね。」
「もう卒論のこと考えてるの?!すごいねカナキュン!!あたし何も考えてない!」
「うちは日本美術史で書くつもりなんだ!日本も東洋だからさ、出とかないとまずそうって言うか!卒論のヒントあるかもしれないし!」
秋元さんは絵巻物が好きらしく、ペンケースやスマホケース、ノートには鳥獣戯画であったり源氏物語であったりがプリントされている。休み時間に筆の蘊蓄を聞いたことがあるけど、かなり知識豊富で聞きごたえが抜群だった。きっと彼女は絵巻物で卒論を書くつもりなんだろう、だとしたら東洋美術史の講義は受けておくべきだ。美術史上では東洋と日本は同じ系統であって…似通った部分も多い。
「あたしは東洋なんか興味ないけど…オール優目指してるから。この大学そんなに偏差値高くないし、それぐらいしか目指せるものなくない?なんか先輩に聞いたんだけどね、スイーツって出席率で成績付けるらしいの、出といたほうがいいよ。」
「え!!そーなの?めんどくさいけど出るかー。」
スイーツというのは、河合先生のことだ。ずんぐりむっくりした体型とすぐに甘いものの話に脱線しがちな授業内容がばっちりネーミングされた、美学学科の人なら誰もが知るあだ名だったりする。大学職員の間でも認識されているくらいだ。
「おばちゃーん!ちょっと手伝って―!」
どこかで聞いた声が僕の耳に聞こえてきた。どこか甘ったるい低めの声の持ち主は、今まさに噂されていた人物。甘いものの食べ過ぎで声まで甘くなったに違いないというのは、森川さんの説。…何やってんだろう、次授業あるのにケーキでも買いに来たのか?どれだけ甘いものが好きなんだ。
「マリちゃん!!あたしゃまだ40代なんだからおばちゃんっていうなって言ったでしょ!!!失礼すぎる!お姉さんと言いな!!」
「マリちゃんっていうな!まさみちって読むんだってば!!!スライド運ぶの手伝ってよ、ね!!売れ残りのケーキ買うからさあ!!おねーさーん!!」
なんだ、スライドの搬入の手伝い要請か。いつもあの大量のスライドをどうやって運び込んでいるのか不思議だったんだ、なるほどね、学食のおばちゃんを頼ってたのか。
河合先生の授業はいつもスライドを多用しており、一瞬たりとも目が離せない緊張感が漂っているものの、突如始まるスイーツ談議で信じられないほどの間伸び感が生まれるという実にバランスの悪い講義をすることで…些か学生たちからは敬遠されがちというか。東洋美術に興味がある人にとっては、かなり面白い内容になっているんだけどね。たまにレプリカを持ち込んで受講生に触らせて東洋美術史を身近に感じさせてくれるし、文様のデザインを描かせて冊子にまとめて配布してくれたり…わりと精力的に動くタイプの、フットワークの軽い教授だったりするんだよ、意外にも。
「ごめん、今日はフットサルのお弁当注文入ってるから無理だわ!諦めて地道に運んで!ケーキは買ってね!じゃ!!!」
「ああー、そんな、殺生なー!!!」
五メートルほど離れた場所で、おっさんが盛大に振られた。
「うけるwwwバスの中はてんでつまんなかったくせにー!」
「ホントホント!!!親睦旅行はひどい目に合ったよね!!」
「カナキュンには裏切られたよね!石橋なのに、名簿通りなら美学Aのはずなのに、美学Bのバスに乗るとかさ、バスでみんなを楽しませるとかさ!」
「カナキュン独り占めとか!!!美学B、めっちゃずるい!うちもあだ名付けてほしかったのに!」
「彼方くんが悪いわけじゃないけど、美学Aだった子たちは、結構不満あるよね、多分…。」
「はは、学生会で割り振られたから…なんか、ごめんね?」
親睦旅行から半年たつというのに、まだこんなにも恨みがましい目を向けられようとは。河合先生、もうちょっと頑張れなかったのかな…。あのおっさんがもっと頑張っていたらこんな不満は出なかったんじゃないのか。そんなことを思いつつ…少々下がった瞼でおっさんの背を見つめていると。
「あっ!!お前ら…君たち!美学じゃん!ねえ、ちょっと荷物運ぶの手伝ってくんない?」
クルリと振り返ったおっさんとばっちり目があってしまった。なんだあの目の輝きは。今お前らって言おうとしたのバレてるんだけど?!
「えー、無理ー!」
「きゅーけーちゅーでーす!」
大崎さんと川村さんはごってごてにデコられたスマホを手に取り、おっさんの方を見ようともしない。ほかの三人はケーキにフォークを刺して…もぐもぐと忙しそうにしている。
「イケメンは手伝いたいよね、手伝わせてあげよう、手伝うよね、手伝って!」
…なんでこのおっさんはこう、いちいち恩着せがましい物言いをするんだ。素直に頼めばいいのに。・・・まあいいや、ちょうどここから抜け出したかったし。
「…研究室でいいですか?」
「おう!!先行って用意しとくわ!」
河合先生は鼻歌を歌いながら手をひらひらさせて…学食から出て行ってしまった。丸っこい体からは想像もつかないくらい身軽だな。
「ごめん、じゃあ僕はちょっと河合先生の手伝いに行ってくるよ。」
「も~、カナキュン真面目過ぎる!ほっとけばいいのにー!」
「きもっ!!何あのセンセー!マジむかつく!!モノ運ぶのも仕事のうちじゃん!」
「へらへらしちゃって…地味にテストも難しいのだすしウザいよね、あの人。」
「うち食べ終わったから一緒に行くよー!」
「あたしも行こうかな。」
一人で行こうと思ってたけど…秋元さんと桜井さんも一緒に来るらしい。断ることは…できないな、仕方ない、一緒に行くか。
「じゃあうちら先に東洋の教室行って一番後ろの席取っとくね~!」
「カナキュン、また一緒にお茶しよーね!あ、いいよ、ゴミあたし捨てとくし!」
大崎さんが僕のコーヒーのカップを自分のトレイの上に置いて、テーブルの上のごみをひとまとめにしている。こういう細かい気遣いが、おばあちゃん子の大崎さんには備わっているんだ。
「ねえねえ、三限のさあ、ドイツ語の訳、誰かやってきた?見せてもらっていい?」
「あ、じゃあノート置いてくよ、今のうちに写しといたら?」
「あーん、うちもうちも!!ごめん、カナキュン、やっぱうち運ぶのやめとく!」
桜井さんがドイツ語のノートをカバンの中から出して…秋元さんと笠寺さんに渡している。桜井さんと、二人で…僕は今から、荷物運びをするのか。少し気が重いな、うん…。
「じゃ、行こっか、彼方くんはスイーツのいるとこ知ってるんだよね?」
「四階の奥の方の小さい研究室なんだ。…僕はいつも階段で行くけど、エレベーター使うかい。」
「絶対使う!」
僕と桜井さんは、学食を出てすぐのエレベーターホールに向かって歩き出した。
何気に、桜井さんと二人きりになるのは初めてだ。いつも大崎さんや川村さんがいるのが当然で…あまり一対一で対峙したことがない。
いつも大騒ぎをするメンバーの中で、どこか一歩引いた位置から顔を出すようなイメージ。笠寺さんも同じようなイメージだけど、桜井さんはなんていうか、少しだけ、批判的な発言をする印象が強い。笠寺さんはわりと…誰かの言葉に同調する形で話を広げることが多いのに対して、桜井さんは誰かの言葉に反論する形で話を広げることが多い。
僕は平和主義で、いつも仲裁に入るような性格をしていたからか、意見を否定するタイプの人が少々…苦手だと、薄々自覚、している。自覚、して、しまったというか…。
「…ねえ、彼方くん、あたしね、学生会入ろうと思ってるんだ。」
エレベーターの前で、桜井さんと並んで立った時、ぽそりと声が、聞こえた。
「・・・え?」
昨日、大崎さんと川村さんは見かけたけど、桜井さんは、見かけなかった、はず。
「本当はね、昨日はっちたちと行こうかなって思ったんだけど、大勢の中に埋もれたら、あたしの本気が目立たなくなるかもって考えて、直接彼方くんにいう事にしたの。」
「え…なに、桜井さん、学生会興味あったの?そんな話聞いたことないよ、今初めて知った。」
ずいぶん学生会の不手際について辛辣な意見を言っていたから…正直意外過ぎて言葉が出てこない。親睦旅行しかり、写真販売しかり、かなりのご意見をいただいたんだ、学生会に対して。あまりにもふがいない学生会を、内部から変えようとしているって事だろうか?
「私だったら、三浦…さんみたいに、中途半端に彼方くんの手伝いするだけじゃなくって、ずーっと一緒にいてあげることができるよ!ね、だから推薦してもらえないかな?彼方くん現役メンバーでしょう、一言言ってもらえたら、学生会メンバーに入れそうだし…ダメ?」
エレベーターが到着した。エレベーターに乗り込むと、僕の横に並ぶ桜井さんの姿が鏡に映っているのが、見えた。…僕の顔を見上げている。僕が目を合わせるのを、待っているようだ。僕は、目を合わすことなく、四階のボタンを押して、指先を見ながら…返事を、返す。
「僕一人では決められないよ、ただでさえ応募が殺到していて…ごめんね、はっきり返事はできないかな。」
「そっか…残念。あ!でもスイーツだったらイケるかも?先生だもんね?ちょっと聞いてみよ!!」
河合先生の研究室に向かう間、桜井さんはずっと学生会の問題点について口にしていた。メイクショーの演出がぬるい、衣装選びがヘタ、おまけの入れ方がなってない、モデルはきちんと選出するべき、海鮮バーベキューなんて煙たくて髪ににおいがつくのを嫌がる若者の気持ちがわかってない、焼く位置が低すぎてほこりが入って不衛生、ラブラブショーの進行が素人くさい、ラブレター型の目録がダサい、舞台上に上げるつもりならドレスアップしないとダメ、由香がわざとらしい、由香がみっともない、私なら、私なら、私なら、私なら…。
一刻も早くこの会話を終わらせたいと願って、僕は歩く足を速めた。
「失礼します。」
僕が河合先生の研究室のドアを勢い良く開けると、スライドをテーブルの上に山盛りにしていたおっさんの姿が見えた。
「どれ持って行くのかわかんないじゃないですか!」
「全部だよ!!あとこの四神鏡も持ってって!!でかいけど軽いから!」
桜井さんは足元に落ちていた段ボールに、スライドをざぶざぶと入れている。順番とかいいのかな、貴重なスライドなんじゃないの…。
「全部持って行きますねー、あの、先生、ちょっといいです?」
「おお?なに?」
よくわからない紙束をがっさがっさとまとめながら、おっさんが返事をする。顔は紙束しか見ていない、適当すぎるおっさんはいつもこんな感じだ。
「あたし学生会入りたいんです、先生推薦してくれません?」
「おー!入れ入れ!!言っとくわ!!」
「ちょ…!!先生!!何言ってんですか、そんな適当に!!!」
「やった!じゃあ今日から入りますね!!」
大喜びしている桜井さんを見て、僕は…胃のあたりが、ズーンと、重くなった…。




