38話 いつも通りの言葉、いつもと違う朝
「待ちましたか?」
「今来たとこだ」
「良かったです」
朝、普段より10分少し早く家を出て外で待っていると、すぐに吉乃がやって来ていつものやり取りを交わした。
陽光を浴びて艶めく濡羽色の髪を僅かに揺らして首を傾げた吉乃の顔には嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「なんだか、この会話も久しぶりですね」
「そうだな」
数週間ぶりのこのやり取り。吉乃が何故か気に入って始めた事ではあるのだが、今朝は響樹も本当に楽しみにしていた。
「改めましておはようございます、天羽君」
「ああ。おはよう、烏丸さん」
「行きましょうか」
「ああ」
ふふっと笑う吉乃に促されて足を進めるのも、学校への行きと帰りの違いこそあるが今まで通り。
隣を歩く吉乃に視線をやれば、灰色の学校指定コートの下から伸びる足には黒いタイツ。十二月になったら寒さ対策をすると言っていた事を思い出す。
そして首元には白いマフラーが巻かれているのだが、昨日の事があってか髪は全て外に流していて少し頬が弛んだ。
そんな風に吉乃を眺めていると、気遣わしげな視線の吉乃と目が合う。
「天羽君は久々の学校ですけど、大丈夫ですか?」
「俺は子どもか」
不本意な顔を作ってみせた響樹の横でくすりと笑った吉乃は自分の鞄から包みを取り出して、「約束のお弁当です」と響樹に差し出す。
「ありがとう。……子どもだな」
「しばらくお世話をしないといけませんね」
吉乃はそう言って、響樹を覗き込むようにして楽しそうな笑みを見せた。
何が楽しいのかと思うのだが、その笑顔が眩しいのだから悪い気など一切無い。
それから他愛の無い会話とともに歩き続け、そろそろ二人が別れる場所が近付いてくる。そしてその前に、響樹にはどうしても聞いておかなければならない事があった。
「ところで、言いづらい事かもしれないけど、大丈夫か? 今日は――」
「大丈夫ですよ」
優しい笑みを浮かべて立ち止まった吉乃が、「心配してくれてありがとうございます」と綺麗な会釈を見せた後で、少し口を尖らせた。
「でも、天羽君がそれを聞きますか?」
「……悪い」
今日は期末試験の順位表が貼り出される。吉乃の定位置は響樹が奪った。
「違います。私は大丈夫です、天羽君のおかげで。そういう意味で言いました。天羽君には信じてほしいです」
まっすぐに響樹を見つめる真剣な瞳に思わず「悪い」とまた言葉が漏れる。吉乃はそんな響樹に「また謝りました」と頬を膨らませた。
「わる……いや、信じてる」
「ええ」
くすりと笑った吉乃は足取り軽く響樹を置き去りにし、追いかける響樹の前でくるりと振り返り、笑ってみせた。綺麗な長髪を翻しながら。
「さあ、行きましょう」
◇
吉乃と別れて教室に辿り着くと、響樹はちょっとした珍獣のような扱いを受けた。
最初に目が合った女子は響樹を認識した瞬間に小さな悲鳴のような声を上げて後ずさった。クラスの中では比較的おとなしめな女子であったので、目付きで怖がらせたのかと思ったがそうではなかった。
彼女の反応を皮切りに、まだ全員が揃っていた訳ではないが教室中の視線が響樹に向いたように感じたのだが、誰も話しかけてはこない。
「まあしょうがないな。期末の時のお前は派手過ぎた。寝不足で顔色が土みたいだったし、目付きは普段の五倍くらいヤバかったし、挙句左手から血を流してるしで」
「そう言われると返す言葉が無いな」
「だろ?」
響樹から5分ほど遅れて登校してきた海に約束通り謝罪の言葉を伝えた後で現状を話せば、海は愉快そうに笑いながら「諦めろ」と響樹を諭した。
「で、勝ったんだよな?」
「ああ」
「ならいい」
海がそう言ってふっと笑い拳を突き出す。
「お前これ結構恥ずかしくないか?」
「青春ぽくていいだろうが」
「俺のキャラじゃない」
「……お前、自分がだいぶ青春野郎だって自覚しろよ」
何故だか海は呆れたようにため息をつく。最近はこの友人に呆れられてばかりだなと、響樹は自身の行いを反省しつつ海の拳に自分の拳を合わせた。
その後の朝のHRでは担任教師が預かってくれていた響樹の回答用紙を受け取ったのだが、噂通り全てに赤黒い染みがある。
教師は「回答が読めるレベルで良かったな」と苦笑していたが、そうやって笑いにしてくれたおかげか向けられる視線がだいぶマシになった。誰も話しかけてこないのは変わらないが。
授業間の休み時間などは他のクラスからも見物客が来た。彼らが訪れたのは、定期試験で流血して倒れた――という噂の――天羽を一目見たかったというシンプルな理由らしい。
「天羽ってどいつ?」と響樹にすら聞いてきた者までいたので、その彼には海を指差しておいた。
「それで、結局どうだったの?」
そんな他クラスの中に紛れて訪ねてきた高気圧少女は、その群れの中から一人響樹と海の前に飛び出してきた。
海にしたように優月にも心配をかけた事の謝罪と試験における力添えに感謝を告げると、彼女らしくなく声を小さくして少し心配するような調子で質問が投げかけられる。
「目的は達成した」
「天羽君すご――」
「優月、声落とせ」
「わかった!」
一瞬でハイテンションモードに戻りかけた優月を制したのは海で、彼女はビシッと敬礼のポーズをとって言葉を止めた。声は落とさなかったが。
「でもなんで?」
「ここで言っても面白くないだろ? 貼り出された順位表で驚かす方が面白い」
「そうか?」
「そうでしょ。うん。そっちの方が面白い」
当事者である響樹の意見を無視し、海と優月は「楽しみだろ?」「だね」と笑みを向け合っている。
「手伝った甲斐があったよな」
「ねー。でも罰ゲームもしてほしかったけど」
「せっかくだから罰ゲームしてもらえばいいんじゃね? 心配かけられたし」
「それだ」
そのやり取りは本当に気心の知れた仲といった空気感で、黙っていたら罰ゲームをさせられそうなのに割って入る気になれなかった。一応恩義もあるので、致命的になる少し前までは海にも楽しんでもらおうかと、そう思う。
だと言うのに彼らの方は響樹を巻き込む気満々らしい。
「そう言えばさ。先週の土曜にうちのクラスで休んだ人がいて、今までそんな事なかったからみんな心配してたんだけど」
「へー。それは心配だな」
「ねー。特に金曜日の帰りはちょっと様子おかしいような気もしたから心配だったんだー」
急に感情のこもらない声で話し始めた二人の顔はいつの間にか向かい合った状態から同じ方を向いていて、その先にいる響樹に心底愉快そうなよく似た笑みを見せつけてくる。
「今日は普通に登校して来たんだけどね、男子がここぞとばかりに『大丈夫?』って声かけてて大変そうだった」
どう考えても優月が話しているのは吉乃の事。彼女が土曜に休んだ原因は響樹にあるし、そのせいで男子に囲まれたのなら申し訳ない。
そして、以前吉乃が自販機の所でしつこく話しかけられていた事を思い出し、右手に力が入った。
「へー、大変だな」
「ねー」
何故か二人の視線がいまだに響樹に向いている。
「だから落ち着いた後で話しかけに行ったんだけど、『大丈夫です、ありがとうございます』って」
「ほうほう」
「それでね、なんか雰囲気ちょっと違ったから『いい事あった?』って聞いたんだけど、『ええ』って、ちょっと恥ずかしそうな感じでめっちゃ可愛かった」
「へえ。ちょっと見てみたいな、なあ響樹?」
「……別に。ってか誰の事だよ」
ニヤニヤと笑う二人はある程度の事情を察している節があるが、響樹はせめてもの抵抗を見せた。
ただ、その表情は見たかったと思う。
「じゃあその辺は放課後に話してあげるね」
「え?」
「期末のお疲れ様会も兼ねてだな。無理にとは言わないけど、どうだ?」
「どう?」
海には今日から登校する事を伝えてあったので、恐らく二人で打ち合わせていたのだろう。
二人には散々世話になった挙句に心配をかけたのだ。本当は吉乃と放課後の勉強会にも復帰したかったのだが、その吉乃と過ごす時間を得られるのはこの二人のおかげ。
断ってしまうのは流石に不義理だと思えたし、何だかんだと詮索はされるだろうが海や優月と過ごす時間も楽しいだろう。
「……そうだな。付き合わせてもらうよ」
ニヤケ面から普通の笑みに戻った海と優月にそう応じれば、二人は何故かハイタッチを交わした。
海がやたら嬉しそうだったのは優月との接触のおかげだろうと、響樹は二人を見ながらぼんやりと思った。