30話 烏丸吉乃が語る烏丸吉乃
「悪かったな。片付け手伝わせて」
「いえ。こちらも助かりましたから」
片付けを済ませて再び図書室に戻り、響樹は苦笑の吉乃に頭を下げた。
因みにワイシャツも染みにならないように軽く洗ってあるせいで左腕がだいぶ冷たい。ジャージを昨日家に持ち帰っていたのが痛恨だった。
「ああもしつこいと大変だな」
肩を竦めながら彼女を労うと、吉乃はふっと小さく息を吐いてから口を開いた。
「どこがいいんでしょうね。私なんかの」
吐き捨てるような吉乃の声に響樹は一瞬言葉が出なかった。
吉乃の顔には自嘲とは少し違う、悲しみが浮かんでいたのだと思う。それが彼女の言葉が謙遜などではなく本心からの言葉である事を如実に示していた。
「そんな事ないだろ」
最初はそれを口にするのが精一杯で、そこからようやく頭を回し始める事ができた。
「いいところはたくさんあるだろ」
「ありがとうございます。たとえば容姿ですか?」
自嘲気味の吉乃に一瞬怯んだものの、響樹は「ああ」と頷いた。
「それに勉強だってぶっちぎりの一位だし、家事の能力も高い。運動だって結構できるんだろ?」
「そうですね。でも、家事に関しては天羽君しか知りませんし、勉強や運動は男性が女性を評価する時に重要視はされないのではありませんか? 特に勉強などはマイナス評価になる事もあると聞いた事がありますし」
「否めない部分もあるけど、全員が全員そうって訳じゃない」
少なくとも響樹は吉乃の高い能力は彼女の研鑽の証であると尊敬こそすれど、それをマイナス方向に思う事などない。
容姿に関してもけっして外見がいいだけとは思わない。誰もが見惚れる彼女の美貌の裏に、磨き保つための努力がある事は明らかだろう。
「ありがとうございます」
吉乃はそう言って少しだけ頭を下げた。戻って来た表情には穏やかな笑みが浮かんでいて、「すみませんでした」の言葉が続く。
「つまらない事を言って時間を無駄にしましたね。さあ、後半を始めましょうか」
「……ああ」
それ以上を避けるかのように話を切った吉乃に不承不承頷き、響樹もペンを手にした。
少し遅れて始まった後半、努力を怠らず高い能力を誇る吉乃がどうしてあんな事を言うのかが気になって仕方なく、彼女との勉強会で初めて集中できなかった。
加えて普段正面から聞こえるペンの走る音やページをめくる音が鈍く、いつもの心地良さを感じられなかった。恐らく吉乃の方も、集中力を乱していた。
◇
「……待ちましたか?」
「いや、今来たとこだ」
「それは良かったです」
穏やかな微笑みを浮かべた吉乃がいつも通りのやり取りを求める。校門を出たところで待つ響樹に対するいつものやり取り、それが逆に痛々しかった。
自分は平気だから普段通りでいたい、そんな弱々しいアピールに見えてしまったのが自分の思い違いであればいいと、短い時間で何度もそう思った。
「帰るか」
「……ええ」
俯きがちな顔をハッとしたように上げ、吉乃は穏やかな笑みでこくりと頷いた。
本来ならばここで帰りを促すのも吉乃の側から。さっそくもういつも通りではない。
烏丸吉乃は完全無欠な美少女である。響樹たちの学校では誰もがそう言う。
そんな吉乃が普段通りを取り繕う事さえできていない。
もちろん響樹は吉乃がただ単に完全無欠の美少女でない事を知っている。
意外と子どもっぽい面がある事を知っている。元々の能力が高い事は疑いようが無いが、現在の吉乃がたゆみの無い研鑽によって作り上げられた姿である事を知っている。たまに寂しそうな顔を見せる事を知っている。そして今、いやあれからずっと、そういう顔をしている事も知っている。
以前カラオケに出かけた帰り、吉乃との間に会話がなくなり気まずいと思った。しかし今、俯きがちな吉乃と歩く無言の帰り道は辛い。
吉乃が求めるいつも通り合わせるべきなのか、一歩踏み込むべきなのか。自分がどちらを求めているかはわかっているくせに、選べずにいる。
「天羽君」
「ん?」
「今日はすみませんでした」
「謝ってもらう理由が思い浮かばないな」
しっかりと頭を下げた吉乃の言葉に響樹は嘘で返した。吉乃は立ち止まり、少しだけ顔を綻ばせて「ありがとうございます」と小さな声を出し、真剣な表情を浮かべた。
「でも、謝らせてください」
「……わかった。一応受け取るだけ受け取っとく」
優しい笑みでの小さな「ありがとうございます」の後で、またも吉乃は表情を硬くし、意を決するように口を開いた。
「聞いてほしいお話と、お願いがあります」
「俺で良ければどっちも聞く」
「いいんですか? まだ何も言っていませんけど、安請け合いして?」
「ああ。ってか安請け合いじゃない。ちゃんと考えた」
「ありがとうございます。……やっぱり天羽君は優しいですね」
「別に、そんなんじゃない」
吉乃がふふっと笑い口元を押さえる。久しぶりに見たような気分にさせられるその笑みに心臓が跳ね、誤魔化すように「聞かせてくれ」と促した。
「お話をする前に、できたら少し前を歩いてもらっても構いませんか? ちょっと、顔を見られたくありませんので」
「……わかった」
眉尻を下げて笑う吉乃に頷き、本当はそうしたくなかったが響樹は歩を進めた。後ろの彼女と離れないようにいつもよりもずっとゆっくりと。
「話は私の事です、少し長くなるかもしれませんけど。それからお願いの方ですけど、今から話す事を聞いたら、来週からは今まで通りに接してもらえると嬉しいです。私もちゃんと、いつも通りに戻りますから」
「長くなっても全然構わない。全部聞かせてくれ。そのつもりでいるから」
後ろから聞こえる声と足音に安心しながら頷くと、「ありがとうございます」と穏やかな声が耳に届いた。
「私はそれなりに裕福な家庭で育ちました。両親は躾や教育に関しては厳しかったですけど、幸せだと思っていました」
彼女の育ちがいい事は何となく察していた。響樹は特に反応する事も無く、後ろからの足音がしっかり付いて来てくれている事に集中しながら次の言葉を待つ。
「以前天羽君にはお話しましたけど、習い事が多くても苦ではありませんでした。上手にできた時、新しい事を覚えた時、両親や先生が褒めてくれて、それが嬉しくて習い事はどれも好きでした。家でも一生懸命勉強をしたり運動をしたり家事を手伝ったり、その度にやはり両親が褒めてくれて、本当に幸せだったんです」
懐かしむような話し方、声は少し弾んでいたように思う。最後を過去形にするまでは。
「小学校四年生の時です、両親が離婚しました。今思い出してもそんなそぶりなんて全くなくて、突然の事でした。原因は身内の恥ですので伏せますけど、とにかく母が出て行きました。家柄では母方がだいぶ格上だったそうで、父は多額の慰謝料と仕事上の援助を盾に何も言わせてもらえなかったそうです」
少し自嘲気味な声で「下世話な親戚からの伝聞ですけどね」と付け加えた吉乃は言葉を続ける。
「母が出ていった事は悲しかったですけど、子どもながらにもう母が戻ってこない事はわかっていたんでしょうね。今まで以上に頑張って父に心配をかけないように、褒めてもらえるようにと思ったんです。でも、今度は父が家に帰って来なくなりました。成長して母の面影を増していく私を見たくなかったと、先ほどの親戚がまた教えてくれました」
「それは……」
どれだけ辛かっただろうか。響樹には多少だがそれがわかる。本来なら今、何でもない事のように語りたい話ではないはずだ。
「私、結構健気だったんですよ。父は何も言わずにでしたけど時々は帰って来ましたから、習い事でどんな事ができるようになった、褒められた。学校のテストで満点を取った、体育で一番になったって、手紙をたくさん残しておきました。返事が来たことは一度もありませんでしたけど。もしかしたら読んですらいなかったのかもしれませんね」
冗談めかしたような口調ではあるが、内心がそうであるはずが無く、響樹の拳に力が入る。
「そんな生活が2年続いて、私の小学校卒業が近くなった頃です。帰って来た父に会いに行きました。渋い顔をして『手短に済ませてくれ』と言われましたけどね。あの時の顔は忘れられません」
苦笑するような声。そんなもので済む記憶ではないだろうに。
「なので単刀直入に言いました。『中学からは一人暮らしをします』って。引き留めてくれると思っていたんですよ、流石に。それなのに、『わかった』だそうです。一言だけ。あからさまにホッとしていました」
吉乃の声に震えが混じり、たまらず足を止めて振り返ろうとしたところ、彼女の小さな手がそっと響樹の肩を押し戻した。「振り返らないでください」と言った声からは既に震えが消えていた。
「諦めて一人暮らしを始めて1年、父は様子を見に来るどころか一度だって連絡をくれませんでした。生活費は現金とプリペイドカードで十分に与えられていましたので文句を言えた義理は無かったのかもしれませんけど、寂しかったですね。だからちょっと大きな買い物をしたんです。大卒初任給くらいでしょうか? 中学生がする買い物としては異常な額ですよね。父はどうしたと思いますか?」
「……叱られたんじゃないのか?」
どこか楽しげな吉乃の声にそう答えてみれば、彼女は「普通はそう思いますよね」と笑った。
「何も言われませんでした。翌月の生活費を減らされる事も無く、カードは満額チャージされました。それが私にとっての分岐点だったんでしょうね、もう期待する事はやめました。養われている身で大層な言い方だと思いますけど、そうとしか言えないんです」
「陳腐な言い方になるけど、大変だったんだな」
何か言わなければと思って出した言葉は本当に陳腐なもので、悔しかった。
「お気遣いありがとうございます。でも長々話しましたけど、私にとってはここからなんですよ。両親に対して諦めて、本当に一人ぼっちになってしまってから、それでは好きなように暮らそうと思ったんです。でも、できませんでした」
吉乃の声から硬さが消えない。
「気付いてしまったんです、私には何も無いんだって。それまで私が色々頑張ってこられたのは、両親と習い事や学校の先生が褒めてくれたからだったんです。だからもう、何をするにも『これをしたら誰が褒めてくれるか』という事ばかりが頭に浮かぶようになりました。自分の好きな事したい事、その一切が私にはわからなくなりました。いえ、元々無かったんだと思います」
身を切るような痛みを帯びた声、自分の言葉で自分を傷つけるような行為を、今すぐ振り返って止めたかった。それなのに情けない事に言葉が出ない。
吉乃が過ごしてきた日々の中で解決できなかった事に、響樹などが軽々しく口を出していいのかと、余計な考えが思いを鈍らせる。
「両親からの愛情を失って、自分自身もわからなくなって、だからいっその事本当に全部投げ出してしまおうかと思ったんです。でも、それさえもできませんでした。中学に入ってから得た評価や同級生や先生からかけられる褒め言葉、それを失う事が怖かったんです。それを無くしてしまったら、私には本当に何もなくなってしまうから。からっぽな私にある唯一の拠り所だったんです」
今までの吉乃の態度が色々と腑に落ちた。褒められる事に執着したり、何かを見失うような表情を見せたり、その理由がやっとわかった。
「私はからっぽなんです。自分のしたい事なんて無くて、ただ誰かから褒めてもらいたくて、嫌われるのが怖くて、そんな事のためにしか頑張れない、からっぽでつまらない人間なんです」
「そんな事はない」
震える声にそれだけは伝えたくて、響樹は約束を破った。吉乃が止める間も無いように振り返ると、彼女の瞳には涙が浮かんでいた。
「見ないでください」と囁くように言った吉乃は後ろを向いてしまったが、響樹は言葉を続ける。
「君はからっぽでもないし、つまらなくもない。俺は、一緒にいて楽しいと思ってる。だから――」
「ありがとうございます。やっぱり、天羽君は優しいですね」
僅かに震える肩越しに聞こえた声はやはり震えていた。
「言っとくけどお世辞とかじゃなくて本心だからな。俺は君といる時間を楽しいと思ってる」
「……はい。ありがとうございます。嬉しいです」
優しい声だった。
それなのに、吉乃は響樹の方を振り返る事はしなかった。家まで送る間一度も響樹に顔を見せず、一言も発さず、響樹に言葉を発する事もさせず、最後には「また来週からいつも通りでいてくれますか?」と弱々しい声で尋ねた。
響樹は吉乃の助けになれなかった。困っているなら頼ってほしいなどと思っておきながら。
それが悔しくてたまらず、響樹は本日二度目の八つ当たりで帰り道の電柱を蹴飛ばした。