26話 良家のご息女と明日の予定
「やっぱり最初に食ったあの青いリボンのクッキーが一番美味かった」
本音を言えば甲乙つけ難かったのだが、いずれまた作ってもらえるかもしれない事を考えるとやはりこうなる。
放課後の図書室、いつものように静かに集中力を発揮していた吉乃の前に座り感想を告げた。
メッセージで伝えようかとも考えたが、会う手段があるのだから直接にしておこうと思い直し、現在こうしている。
「天羽君も男の人なので、やはり甘みの強い物よりもそうでない物の方がお好きなんですね」
「いや、甘いのも結構好きだぞ。あのピンクのリボンのチョコが入ってたやつも美味かった。と言うか全部美味い中での一番だ。もう一枚も残ってない」
「乾燥剤を入れる必要がありませんでしたね」
「ああ。美味かった、ありがとう」
一瞬だけ目を丸くした吉乃がくすりと口元を押さえ、響樹はそんな彼女に頭を下げた。
「でしたら次に作る時には天羽君の分はあれと同じ物にしておきます」
「実はちょっと期待してる。……いや、悪い。ねだってる訳じゃないから自分のペースを崩さないでくれ」
「ええ、お褒めの言葉としてだけ受け取っておきます」
やわらかく微笑んでほんの少し髪を揺らした吉乃の表情と自身の発言に少しバツが悪くなり、響樹は小さく咳払いをして鞄から勉強道具を取り出した。
「今日も送ってくださるという事ですか?」
「まあ、借りの利子分くらいのつもりだよ。そうしないと膨れ上がって返せなくなる」
少なくとも吉乃が嫌がるそぶりを見せない以上は、こうやって一緒にいる日は送らせてもらうつもりでいる。
「気にしないでください、と言っても天羽君には無駄でしょうね」
「まあ無駄だな。烏丸さんにだけは言われたくないけど」
「そうでしょうか?」
「そうだよ」
少し諦めたように笑う吉乃にいつものように返せば、彼女は首を傾げた後で「仕方ありませんね」と頬を弛めた。
「さて、邪魔して悪かったな」
「感想をくださいとお願いしたのは私ですから」
「そうか」
「そうです」
ニコリと笑った吉乃に響樹が頷き、そこからは無言の時間が続いた。
◇
「待ちましたか?」
「……今来たとこだよ」
「それなら良かったです」
校門を出たところで待っていた響樹がわざとらしくついたため息を無視し、上機嫌な吉乃が歩き出す。
日の入り直後なのでまだそれなりに明るい周囲ではあるが、吉乃の家に辿り着く頃には彼女を一人で歩かせたくないくらいにはなるだろう。
「帰りましょうか」
「ああ」
並んで歩き出して少しして、吉乃が「そう言えば」と口を開いた。
「天羽君は文系なんですか? 社会科目ばかり勉強していますけど」
「文理選択はまだ決めてないけど、多分理系にするんじゃないか。社会ばっか勉強してるのは逆だ、苦手なんだよ」
「ああ、そういう事だったんですね」
響樹たちの高校では二年進級時に文理でクラスが分かれる。もっとも最終希望が取られるのは三学期、一月頃だと聞いているので選択の猶予期間はもう少し短い。
理系科目が得意な響樹としてはそのまま理系にしようかと思っているが、完全には決めきれずにいる。なので理系に進んだ場合には受験で使わない科目でも今の段階では捨てる訳にいかない、もちろんプライドの問題もあるが。
「烏丸さんはどっちにするんだ?」
「そうですね。私も決めきれてはいませんけど、恐らく文系にすると思います」
話の流れで聞き返してみれば、吉乃は少し困ったような表情を浮かべてそう言った。
「まあ、ここの選択デカいからなあ」
「そうですね。慎重に考えようと思います」
文理選択はもちろん後から、クラス分けが終わった後どころか三年生になっても変更が可能だ。ただしその頃には国公立志望と私立志望と、更にクラスが細分化されているため変更は可能であっても容易ではない。
「まあ、文系で社会どうしようって考えると理系に逃げたくなるんだけどな」
幸い、と言っては失礼だが、吉乃の方も本格的に進路を決めていないようだったので、響樹はこの話はお終いだとばかりにおどけてみせた。
「特に倫理がな、よくわからん」
「天羽君は倫理的な事が苦手なんですね」
「意味が違って聞こえるだろ」
じろりと視線を向けてみれば、吉乃は「ごめんなさい」と口元を押さえてくすりと笑った。
「でも、逆に理系科目はだいぶ得意なんですね」
「ああ。あとは英語も得意だな。子どもの頃英会話教室通わされてた事もあったし」
「私も英会話教室に通っていましたよ。残念ながら天羽君にお会いした記憶はありませんけど」
「そりゃ会ってる方が珍しいだろ。ってか習い事多いな」
音楽教室、合気道、英会話教室と多くの習い事。
裕福な家庭育ちだろうとは思っていたが、なるほど良家のご息女だという噂に信憑性が出てくる。
「他には日本舞踊も習っていましたよ」
「凄いな、大変じゃなかったか?」
響樹の驚きに対し、吉乃はニコリと微笑んで首を横に振った。
「それが当たり前だと思っていましたから、苦ではありませんでしたね」
「そうか、子どもの頃から努力家だったんだな」
時期がどれだけ被っていたかは知らないが、吉乃が習い事をすぐにやめてしまうとは考えにくい。きっと週のほとんどで習い事に通っていたであろう事は想像に難くない。
響樹は英会話教室が嫌いではなくむしろ好きではあったが、だからと言っていつでも楽しく通っていた訳ではない。友達と遊びたい日もあったし、気分の乗らない日もあった。だから吉乃の発言が立派な事だと思い、素直に賞賛の言葉が口から出る。
「ありがとうございます」
それを受け取った吉乃はやわらかな笑みを浮かべて小さな会釈を見せた。
しかし次の瞬間には顔には穏やかな笑みが貼りついていて、その真意が読めない。
「でも、きっとそういう訳では無かったんですよ」
「どういう事だ?」
響樹が尋ねても、吉乃はその心の内を語らない。一瞬ハッとしたような表情をみせたものの、すぐにニコリと笑って首を横に振り、「なんでもありません」と言葉を濁した。
「ところで天羽君、明日はどうしますか?」
「どうするって、明日も送らせてくれるならそうするけど。ってその意味で良かったか?」
「ええ。それではまた図書室でお待ちしています」
「今更だけど、本当に邪魔にはなってないよな? 一人の方が集中できたりしないか?」
「邪魔ならこんな事は聞きません。逆に天羽君はお一人の方が集中できますか?」
「いや、むしろ励みになる」
少し不安げな様子を覗かせた吉乃にきっぱりと答えると、彼女は顔を綻ばせた。
実際に海と勉強するよりも吉乃との方がどういう心理か集中力は増す気がする。海には悪いのだが、きっと緊張感などの違いではないだろうか。
「私の方もそうですね。気が抜けなくなりますので、いい効果が出ていますよ」
「それなら良かったよ」
吉乃の方も似たような事を言うので、響樹は少し安心して表情を崩した。
「では、私はいつもあそこにいますので、天羽君の気が向いた時に来てください。送っていただく事を抜きでも――」
「それは抜きにしない」
「わかりました、ありがとうございます。でも、くれぐれもご自分の都合を優先してくださいね。無理に送っていただかなくてもいいですから」
「了解。無理はしない程度にしとく」
未だに吉乃は響樹に対して一歩引いている。踏み込ませたくないであろうライン、それがどこにあるかはわからないが存在は明確に感じていた。
だからもう少し、もっと吉乃の事を知りたいと思う。いつかあの表情の理由を知りたい、可能であればさせずに済む方法を知りたい。
それを思えば無理な事など無いのだが、応じると吉乃は少し苦笑を浮かべた。