24話 危険な夜道
「天羽君はどうして急に私を送って行きたい、なんて言い出したんですか?」
足取りの軽い吉乃がいたずらっぽい笑みを浮かべながら首を傾げる。
発言の内容、特に強調された部分に間違いはないのだが、それを口に出されてしまうと急に恥ずかしくなってくる。道が暗くて良かったと心底思った。
「まあ、知らない相手じゃないし、放っとくのも落ち着かないし」
「心配してくれた、という事ですか?」
「……そうとも言う、かもしれない」
「それ以外に何と言うんですか」
「何て言うんだろうな」
半ば呆れたようにくすりと笑う吉乃にぽつりと返す。本当に何と言えばいいのだろうと、考えがまとまらなかった。
「一応、女子だし。暗いし、何かあったら困るだろ」
「一応?」
「女子だし。暗いし、何かあったら困るだろ」
ニコリと笑った吉乃の表情には久しぶりの威圧感を覚えたが、響樹が訂正を口にしたところ笑みはそのままに圧は消え去った。
統計データを知っている訳ではないが、犯罪に関しては女性の方がターゲットになりやすいだろうと予想がつく。そういった類の犯罪に限らず、ひったくりや強盗などでも力の弱い相手の方が与しやすいのは確かなはずだ。
「私は一応女子ですけど、小学校の6年間合気道をやっていましたのでそれなりに護身はできますよ? 流石に短距離専門の方とまではいきませんけど足の速さにも自信がありますし」
吉乃はどこか自慢げに笑いながら鞄を持っていない右腕を持ち上げて力こぶを作るような仕草を見せるのだが、その腕はブレザーの厚みがあってなおどう見ても細い。
ついでに足にも視線を落としてみるがやはり驚くほどに細い。手足ともに少し力を入れて触れたら折れてしまうのではないかと、比喩抜きで思う。
「信じていませんね」
「いやだって、なあ。そんな細い腕で言われても説得力がない。あと近い」
頬を膨らませてずいっと顔を近付ける吉乃から一歩距離を取ると、彼女の方もハッとしたように目を丸くして一歩後ろへ下がった。
吉乃はこういった自身の容姿の良さに無自覚なところがあり、心臓に悪い。今もそうで、少しバツが悪いのか拗ねたように顔を逸らす様には心がざわつく物を覚えてしまう。夜道を一人で歩かせて大丈夫なものかと、余計な世話を焼きたい気持ちが湧くのも仕方のない事だ。
「天羽君が全く信じていないので証明してみせます」
「どうやって?」
バツの悪さを誤魔化すためか、口を尖らせていた吉乃が一瞬でニコリとした笑顔に変わる。
「私に掴みかかろうとしてください。撃退しますので」
「えー……」
触れたら折れてしまいそうだと思ったばかりだというのに、そうでなくとも異性に触れる、触れようとする時点でハードルがだいぶ高いというのに、楽しそうに笑う吉乃は「さあ」と響樹を促す。
響樹が「本気か?」という視線を送ってみても吉乃はわざとらしく首を傾げるばかり。その姿がまた可愛らしいのだが、それに反して容赦をしてくれる気は一切無いらしく、響樹は覚悟を決めるしかなかった。
「……じゃあ、いくぞ」
「はいどうぞ。でも変質者はそういった宣言はしてくれないと思いますよ?」
「俺は変質者じゃない」
吉乃は目を細めてくすりと笑い、口元を押さえる。この隙にとその細い手首に右手を伸ばしたのだが、彼女はスッと半身になって手のひらから外側へ逃れ、口元を押さえていたはずの手で響樹の手首を掴んだ。
「抵抗すると痛いですよ」
「できそうにないんだが」
大した力が加わっている訳でもないのに、掴んで反らされた手首を戻せない。
流れるように滑らかで鮮やかな動きに反応する間も無く極められ、その後は抵抗する気すら起きなかった。
「どうですか? わかってくれましたか?」
「ああ、よくわかった」
ニコリと笑った吉乃に応じると、彼女は満足げに頷いて響樹の手首を離した。
解放された右腕に痛みは全く残っていなかったが、流石に極められていた時は少しだけ痛かったので反射に近い形で手首をさすると、それを見た吉乃の顔が曇る。
「すみません。痛くしてしまいましたか?」
「いや、別に。痛くないから」
実際にもう痛くないし心配させたくない気持ちもあるが、これは意地だ。
響樹も高校生の男子。いくら武道の経験があるとは言え女子、それも華奢な吉乃に手首を極められて「痛かったです」などとは口が裂けても言えはしない。しかし――
「ちょっと見せてください」
響樹が手を引っ込めるよりも早く吉乃が両手を伸ばした。左手に持っていた通学鞄がアスファルトの上に落下し、少し鈍い音をさせる。
「おい、鞄」
上げた声を無視した吉乃は真剣な顔で響樹の手首に触れた。少しだけひんやりとした手のひらは、肉が付いていないように見えてやわらかで驚きを禁じ得ない。
そしてその驚きが落ち着くと、今度は脈拍が主張を始めた。この上なく整った容姿の少女が至近距離で自身に触れている事に加え、風向きのせいかほのかに漂う花のような香りが響樹の心拍を上げていく。
そんな響樹の変化には気付かないのだろう、吉乃は顔を近付けてみたり時折指に力を入れてみたりと響樹の反応を窺っていた。そして一通りが済んだのかホッとしたように息を吐く。
「ひとまず腫れは無いですし、筋を痛めたという事もなさそうです。すみませんでした」
「別に謝ってもらう必要が無い。つい触っただけだからな。全然痛くなかったし」
「ですが……」
沈痛な面持ちの吉乃は響樹の手首に優しく触れたままで、響樹は自身の手首を返して笑ってみせた。
「隙だらけだな。変質者に簡単に掴まれたらダメだろ」
「え」
響樹の顔と自分の右手を比べた吉乃がぱちくりとまばたきをするので、響樹は自身の右手に少しだけ力を入れた。ほんの少し、壊れ物に触れるようにゆっくりと。
自分のものよりも一回り小さな手のやわらかさがこれでもかと伝わってくる。
「いくら合気道やってたとしても、こうやって掴まれたら男の方が力あるんだし」
響樹とは逆に、吉乃の透き通るように白い手からは力が抜けていき、同じように肩と首の方も少しの脱力が見えて顔の角度が下がっていった。
「あの……ええと、そろそろ離していただけると……」
顔を伏せてしまった吉乃の言葉を待っていると、しばらくして消え入りそうなか細い声が発された。俯いたままの彼女からで、その表情は見えない。
響樹はそこでようやく自分が何をしているかに気付き慌てて手を離し、「悪い」とだけ呟くように声に出した。今の自分は夜道で女の子の手を掴みっぱなしの、問答無用の変質者である。
吉乃は俯いたままであるが、足を止めて向き合った二人の間に少しの間沈黙が流れ、そして吉乃の顔が上がる。
街灯の真下ではないが、白雪を思わせる肌をした普段の吉乃とは違う姿がわかる。視線は響樹から逸らしていたが瞳は僅かに潤んでいたように見えるし、薄めの唇はもにょもにょと少しだけ動いていた。
「まあ、あれだ。ともかく夜道は危険だし、一緒にいる時くらいはこうやって送らせてくれると、俺としても安心できる」
気まずさを誤魔化すように視線を外しながらそんな事を伝え、「行くか」と促せば、吉乃の頭が少しだけ上下に動くのが視界の隅に映った。




