14話 彼女の私服と負けず嫌い
吉乃とカラオケの約束をした日曜、響樹が少し早めの昼食とその片付けまでを済ませたのは12時30分頃であった。そこから支度を済ませて家を出たのは13時少し過ぎ。
集合場所であり目的地であるカラオケ店までの距離は地図上では高校までよりも少し遠く、単純な所要時間で言えば恐らく15分程度ではないかと思っている。それでも初めて行く場所だったので念のため、そして一応異性との待ち合わせで相手を待たせるのはどうかと思ったので早めの出発とした。
しかし、響樹がカラオケ店に辿り着くと既に吉乃がいた。
やはり今日も濡羽色の美しい髪は健在で、一瞬吹いた風になびいてサラサラと流れる様に見惚れそうになる。吉乃はそんな自分の髪をそっと抑え、その拍子で響樹に気付いたようだった。
「こんにちは、天羽君」
「ああ。悪い、待ったか?」
集合時間には30分ほど早くはあるが、結局待たせてしまった事に変わりはない。そう思って尋ねてみると、吉乃は少しいたずらっぽい笑みを浮かべ「今来たところですよ?」と首を傾げてみせた。
これが自然と出てきたものなら、デートの待ち合わせの定番――実際には知らないが――のセリフと可愛さでやられていたかもしれないが、わざとらしく笑う吉乃のおかげで変な思い上がりはしないで済みそうである。
「そうか」
だからそれだけ返したのだが、吉乃はご不満だったようで僅かに口を尖らせていた。
「因みにそれを言われた方はどう返すのが正解なんだ?」
「そう言えば確かに、『今来たところ』の後はどんな会話が続くんでしょうね?」
今度は自然な様子できょとんと首を傾げた後に、吉乃は眉尻を下げた。
「で、実際待たせたか?」
「いえ、本当につい2、3分前ですよ」
「なら良かった」
「待ち合わせ時間よりも前なんですから、天羽君が気にする事はないのでは?」
「まあそりゃそうなんだけどな」
それでも何となく申し訳ない気持ちになってしまうのもある部分では性のようなものなのだろうか。吉乃だって逆の立場なら気にしたのではないかと思うのだが、それは言っても詮の無い事なのでそれ以上は口を噤んだ。
そんな響樹を見る吉乃は少しだけ目を細めて僅かに頬を弛めていた。なんだか動物や子どもに向けられるような、微笑ましいものを見るような視線だなと感じて少しバツが悪く、ついふいっと視線を逸らしてしまう。
「もう入りますか? せっかくなので」
「まあ、そうだな」
そう言われて吉乃に視線を戻し、服装について言及すべきかどうかという疑問が湧いた。
初めて見る私服姿は割と全身が黒づくめ。黒のハイネックニットに同じく黒のマキシ丈のフレアスカート、腰位置が高い事を教えてくれるワイドベルトとショートブーツはワインレッドで同じ色。
少し非日常な感を覚える恰好ではあるが、抜群のスタイルと顔の良さを誇る吉乃が着ているとこの上なく似合う。特に上半身は体のラインがわかりやすいが、華奢な肩と細い腰がよく映える。それでいて女性らしい丸みもわかるのだから反則的だと言えた。
見慣れた制服姿では可愛らしさと美しさが半々くらいかと思うのだが、今日の吉乃は美しさの方に傾いていて、それを伝えるべきか、もしそうするならどんな言葉を選ぶべきか、そんな思考が頭を巡る。
「どうかしましたか?」
「いや……」
不躾な視線を送ってしまった自覚はあったが、吉乃からは咎めるような雰囲気は感じられず、少し不思議そうに首を傾げていた。
そうかと思えば一瞬目を見開いた吉乃の口角が上がる。一度戻した首の角度が今度は計算されたような傾きを描き、その表情にはいたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「初めて見る私の私服に見惚れましたか?」
「……ああ。よく似合ってるし、綺麗だと思う」
誤魔化すのも癪で、それなら逆に堂々と言ってやろうと口を開くと、吉乃は「え」と発した後に固まった。
「ええ、と」
ぱちくりとまばたきを一回、そしてもう一度。口角と眉尻は下がっており、吉乃の驚きが伝わってきて響樹としては満足だった。しかし念のためもう一度――
「良く似合ってるし綺麗だと思う」
「わ、わかりましたからっ。もういいです!」
言うが早いか吉乃はくるりと反転して響樹に背を向けてしまった。だが、その前に見えた顔は存分なまでに朱に染まっていた。美しさの方に傾いた天秤には較正が必要かもしれない。
してやったりと思う反面、響樹は別の感情も覚える。これは羞恥だ。言った言葉に嘘はないが、いつもの響樹ならいくら負けるのが嫌でも口にしなかったのではないかと思う。きっとそれだけ本心から強く思ったのだろうと、そう考えると顔に熱が集まるのを感じた。
「ありがとうございます。……天羽君も。今日の恰好、似合っていますよ」
「そうか」
「ええ」
背を向けたままではあるが、意趣返しの類ではなく吉乃が本当にそう思って言ってくれた事はわかる。猫被り時はどうか知らないが、彼女が響樹の前で嘘をついた事は無いし、こういう時にお世辞で誤魔化す人間でない事もわかる。
薄手のアウターにニットとスキニー、そしてスニーカーと響樹の恰好は普通であるが、似合っていると言ってくれるのなら素直に受け取っておくだけだ。
「制服を着ている時よりも目つきの鋭さが緩和されていますから」
「そういう事かよ」
振り返った吉乃はふふっと笑う。ヒールの分だけいつもより近い顔にはまだ少し熱が残っていた。
◇
「このタブレットで曲を選ぶんですね」
「多分」
吉乃にとって初めてのカラオケなのである程度は自分が教えるべきだと思っていた響樹だが、何も教える事がなかった。
フロントでの部屋選びも、学割用に学生証を提示する事も、ワンドリンク制の注文に関しても、流石と言うべきか吉乃の予習はバッチリだった。
「最初のドリンクが来てから曲を入れましょう。歌っている時に店員さんが来ると気まずいらしいです」
「了解」
目を輝かせる吉乃に内心の苦笑を表に出さないように応じた響樹だったが、彼女がここまで楽しみにしてくれているとは思っておらず、この先に少しの不安があった。
「それでは天羽君、お先にどうぞ」
「え、いや。そっちから先に入れてくれ」
「私は付き添いですから」
向かいの席に座った吉乃は楽しそうに笑いながら響樹にタブレットを押し付けた。最後の意地なのか、建前を崩すつもりがなさそうなのが彼女らしい。
「了解。だけど俺あんま歌上手くないからな」
「そうなんですね」
「……なんでちょっと嬉しそうなんだ?」
「気のせいですよ?」
ふふっと笑う吉乃にそうは思えないんだけどなと内心で独り言ち、タブレットを受け取った響樹はタッチペンで選曲を始めた。レパートリーが多くないのでそれほど悩む必要もないのだが、ついつい履歴ページなども見てしまう。
「決めた。後で入れるから見ててくれ」
「はい」
片手で渡した響樹に対し、吉乃は両手で丁寧にタブレットを受け取った。育ちの良さなのだろうかと考えたところで、部屋のドアがノックされた。
「ご注文のお飲み物をお持ちしました。柚子蜜ドリンクとコーラでよろしかったでしょうか?」
入ってきたのは響樹たちが受付をした時のフロントにはいなかった女性店員。白のワイシャツに黒のパンツスタイルはこのチェーンの制服なのだが、その上にある顔は活発そうな可愛らしいもので、髪色は明るめで長さはショート。
丸いトレイに乗せたドリンクに注意を払っているのか、まだ室内のこちらに気付く気配はない。
「花村さん?」
「……烏丸さん?」
少し驚いたような声を上げた吉乃とそれよりももう少し驚いた声を上げた優月を尻目に、そう言えば二人とも二組だったなと、響樹はなんとなく現実逃避的な思考を開始した。




