お言葉に甘えて
長い間続けていた練習を終えて唇を離して目を開けると、当然ながら吉乃のこの上なく整った顔がすぐそこにある。吐息を少し荒くした彼女の顔はだいぶ緩んでいて、手のひらで頬に触れてみると少し熱いような気がした。
最初はくすぐったそうに少し肩を震わせた吉乃だったが、すぐに心地良さそうに目を細め、触れた響樹の右手に預けるように僅かに顔を動かす。
「響樹君」
「なんだか久しぶりにちゃんと聞いた気がする」
初めての実戦からその後の練習が終わるまで、響樹も吉乃も互いの名を何度も呼び合った。ただ、していた事が事だけに発声はおぼつかなかった。
もちろん、僅かにくぐもった声で呼ばれる自分の名前も、それが途中で途切れる事も響樹の心拍をこれでもかと上昇させたのだが。
「響樹君が離してくれないからですよ」
「悪い」
わざとらしくむくれた吉乃に素直に謝罪を告げると、彼女はふふっと笑う。
「私の名前も呼んでくれたら許してあげます」
「ああ。吉乃さん」
「はい」
優しい微笑みを浮かべた吉乃はそのまま響樹にしなだれかかり、胸の辺りに頭を預けた。響樹はそんな彼女の肩越しに頭に手を伸ばし、そっと撫でる。
一歩先へと踏み出したつもりでいるが、そんな状況でも吉乃の髪の美しさや手触りの良さはまるで変らず、少し心が落ち着く。しかしそんな響樹とは対照的に吉乃は少し難しい顔をしていた。
「吉乃さん?」
「ちょっと失礼します」
そう言って立ち上がり、どうしたのかと思っている響樹の前を横切り、吉乃は先程までと響樹を挟んで反対側に腰を下ろす。
普段右側にいる吉乃が左側に来るのは中々に新鮮だなと思いはしたが、彼女の事だから気まぐれでこんな事をした訳ではあるまいと次の動作を待っていると、吉乃は先程と同じように響樹にしなだれかかり、胸元に頭を預けた。
「吉乃さん?」
「やっぱりこちらだと、響樹君の心臓の音が聞こえます」
髪に触れつつ尋ねてみると、吉乃は満足げな笑みを浮かべつつ響樹を見上げた。耳を左胸に当てたまま。
「まだ少し早いですね」
「聞かなくても分かるだろ……」
「ええ、顔も普段よりずっと赤いですし。でも、こうして速くなった響樹君の鼓動を聞くの、好きです」
「……なら良かったよ」
気恥ずかしさを堪えた響樹の発言を受けてくすりと笑った吉乃がまぶたを下ろし、響樹はそんな彼女の髪を撫でた。
「落ち着いてしまいましたね」
「そりゃあな。こうやって吉乃さんの髪撫でてると凄く落ち着くし」
しばらくそうしていれば当然心拍は落ち着く訳だが、ぱちりと目を開いた吉乃は残念そうに眉尻を下げて笑った。
「もう一度練習、しますか? ……あ、少し速くなりました」
「……おい」
からかいと分かっていても完全な平静は保てない。先程の行いは身が蕩けるくらいの心地良さを響樹に与えてくれていたし、腕の中の吉乃の体温、触れ合わせた唇から漏れる息遣いなども、思い出すだけでこの有り様だ。
「可愛いですね」
「吉乃さんには負けるけどな」
精一杯の軽口も、ふふっと笑った吉乃の「ありがとうございます」で流されてしまう。
吉乃はそのまま響樹の心音に集中したいのか少し顔を伏せた。自身の鼓動が少しずつ落ち着くのを自覚しながら彼女の髪を撫で続け、しばらく静かな時間が流れた。
「響樹君……このまま、横になりませんか?」
また少し心拍が速くなった自覚がある。ただ、吉乃が上げた顔は朱に染まっており、きっと響樹よりも鼓動を速くしているだろう。
優しく髪を撫で「ああ」と頷くと、吉乃は顔を綻ばせた。
「倒すぞ?」
「はい、お願いします」
髪に触れていた手を背中に回して尋ねると、胸元の吉乃が優しく笑う。
そうしてゆっくりと体を倒して、ベッドの縁から膝だけを折った状態で二人でベッドの上に寝転んだ。確かなスプリングの反発がしっかりと体を支えてくれて大変快適である。そしてそれ以上に――
「重くありませんか?」
「全然」
腕や胸にかかる吉乃の重みが心地良い。全く重くないという訳ではないが、むしろそれが彼女をより響樹に密着させ、やわらかな吉乃そのものを感じさせてくれる。
「良かったです」
ホッとしたように笑う吉乃が再び響樹の胸に耳を当て、速くなったままの鼓動に少し頬を緩めた。
ベッドに寝そべり、愛しい吉乃の腰を抱き、やわらかな感触と甘い香りに包まれ、自分自身幸せを堪能しながらも同じく幸福に身を委ねるような恋人の顔を眺める。先程までの一歩進んだキスを交わしていた時とは別種の幸福だ。
そんな多幸感故か半ば無意識に長い息を吐くと、吉乃がくすりと笑った。
「……ベッドの寝心地いいな」
「それでしたら何よりです。だって」
誤魔化した響樹にもう一度くすりと笑った吉乃はそこで一旦言葉を切り、響樹の胸元から頭を離し、そのまま互いに向き合う体勢で見つめ合う。大きな瞳が僅かに潤みを帯び、部屋の光を反射して綺麗だ。
響樹がそんな吉乃の髪をそっと撫でると、彼女はくすぐったそうに目を細め、そして口を開いた。
「だって、いずれは響樹君にも使ってもらう物ですから」
優しく微笑みながらそう言い切り、整った顔に熱を集めた吉乃はそのまま響樹の胸に顔を埋めた。先程までと違い正面から。心臓の音を聞く為ではないだろう。
(まあ耳当てなくても音聞こえてるだろうな)
反応が遅れた響樹だったが、そんな吉乃をそっと抱きしめて髪と背中を撫でた。
「春休み中、お言葉に甘えて一度泊りに来てもいいか? こうやって吉乃さんを抱きしめたまま、一緒に寝たい」
その先にも進みたい。それが嘘偽りの無い響樹の本心である。しかしきっと、吉乃と抱きしめ合ったまま過ごす夜は、それだけでも十分な幸せを与えてくれる。だからまずは一歩ずつ、ゆっくりと進む関係の中にも幸せを見出したいと思うし、必ず見つけられる。
「はい。楽しみにしています」
響樹の腕の中、視線だけをこちらに向けた吉乃が小さく頷き、静かな声の後はまた、恥ずかしいのか顔を伏せた。
「響樹君の心臓、凄い事になっていますね」
そう言ってくすりと笑った吉乃を、響樹は少し強めに抱きしめた。
「苦しくないか?」
「幸せです」
「なら良かったよ」




