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次の一歩

 恐る恐るではあったが吉乃のベッドに腰を下ろす。スプリングが利いていて想像していたよりも感触は硬いが、座り心地は中々に良い。恐らく質の高いマットレスである事はわかるが、評価が中々で留まってしまうのは響樹の緊張故だろうか。普段であれば体の横につく手は膝の上。まるで面接にでも臨むかのようだと自分で思う。

 吉乃はどんな反応をしているだろうと視線を上げると、目を細めて優しい微笑みを浮かべる彼女がいた。ただ、頬の染まり具合は今までよりも色濃く、吉乃はそんな頬に軽く手で触れていた。


「照れるなよ。こっちまで余計に恥ずかしくなる」

「響樹君が照れているから伝染したんです」


 愛らしい姿だと思ったし、触れたいとも思った。しかし互いの平静を保つ為に軽口を叩くと、吉乃もそれに乗ってくれたのか口を尖らせ響樹の隣に腰を下ろす。普段ソファーでする時と同じ、部屋着の長いスカートを抑えながらゆっくりと。

 見慣れているはずなのに、そんな女性らしい仕草が取り戻しかけた響樹の平静をまた乱す。そして次にやって来るのは少し沈んだスプリングの感触、ふわりと香るほのかに甘い花の匂い。そして触れ合った肩がより一層響樹の精神を昂らせる。


「こんなに緊張した響樹君は初めてですね」

「彼女の部屋の、ベッドの上だぞ?」


 言葉の通り初めて見せるであろう響樹の姿に、吉乃はどこか嬉しそうな笑みを、その朱が差した顔の上に浮かべていた。


「そ、その言い方はどうかと思います」

「……自分で言ってから思ったよ」


 優しく細められていた目は普段より見開かれ、その整った顔がより一層赤に染まる。恐らく響樹の方も。


「もう。響樹君は……」

「悪い」


 少し眉尻を下げ、吉乃は小さなため息をつき、そして口元を押さえてくすりと笑った。


「続き、してくれないんですか?」


 膝の上で握っていた手に吉乃の手が重ねられ、「どうぞ」と彼女の髪まで導かれる。


「……ああ。するよ」

「はい、お願いします」


 白い肌は未だ姿を隠したままではあるが、優しい微笑みが浮かぶ。

 艶やかな髪に触れ、まるで抵抗を感じないままに指を通して梳き、頭に触れて撫でると、彼女の優しい微笑みは少し綻び少しくすぐったそうに心地良さげな笑顔に変わる。


「こうしていると普段通りなはずなんですけどね」

「まあ、そうなんだけどなあ」


 ふふっと笑った吉乃が少しずつ体を倒し、響樹の右肩に頭を預けるのに合わせて、響樹も彼女の肩越しに、肩を抱くようにして髪と頭を撫でていく。

 そんないつもと同じふれ合いなのに、場所が場所だけに全くいつも通りとはいかない。響樹の心拍はいつもよりもだいぶ速いままで保たれている。だがそれでも――


(次の一歩は俺から)


 恋人と言えど、プライベート空間である寝室に響樹を招き入れる事に吉乃が緊張を覚えているのは伝わってきた。だがそれでもこうしていられるのは、彼女が響樹との距離を更に縮めようとしてくれた証明だと思う。

 ベッドに腰掛けてからもそうだ。緊張の響樹に対し次を促してくれたのも吉乃。余計な事を意識させたばかりだというのに、彼女は頑張ってくれたのだ。


「吉乃さん」


 さらさらの髪を撫でる手は止めず、顔だけを向ける。ただ名前を呼んだだけでない事はわかったのだろう、吉乃は「なんでしょう?」と響樹の肩から顔を起こし、優しい微笑みを向けてくれた。

 次に腰を捻って体を向けると、察してくれた吉乃は朱に染まった頬をほんの少し緩め、響樹と同じように体を少し捻り、そっとまぶたを下ろした。


「響樹君」


 ほんの一瞬でも吉乃のやわらかな唇の感触が自身のそれに残る。

 そのほんの一瞬の後、ぱちりと目を開いた吉乃が響樹の名を呼ぶ。普段よりも少しだけ甘える色が含まれていて、そして彼女はもう一度目を閉じる。


「今度は……ちょっと違う感じでキスしてもいいか?」


 思わず引き寄せられそうになるのを必死で自制し、響樹は言葉を捻り出す。

 もっとスマートに出来たら格好良かったと思うのだが、驚かせるよりはマシだと自分に言い聞かせる。


「違う感じ? ……あ」


 再び目を開けた吉乃は響樹の言葉を反芻して首を傾げたが、すぐに意味を理解したらしい。

 綺麗な指先でそっと自分の唇に触れ、顔は今日一番の色付きを見せ、丸くなった瞳は潤みを帯びながら、それでもずっと響樹に向けられている。


 可愛らしい動揺はいつまででも見ていられると思ったが、そう長くは続かなかった。

 こくりと小さく頷いた吉乃は響樹の左胸に手を当て、顔を綻ばせてもう少し大きく頷き、そして可愛らしいはにかみを見せ、またゆっくりと瞳を閉じてほんの少し顔を上向かせた。

 きっと受け入れてくれるだろうという自信はあった。だがそれでも、吉乃の意思表示は無上の喜びを与えてくれる。


「それじゃあ……」


 温かな頬に触れると、少しくすぐったかったのか吉乃がかすかに吐息を漏らし、濡羽色の艶やかな髪が僅かに揺れる。


(別にまだ普段通りなんだけどな)


 初めて見る姿ではないし、唇を重ねるまでは――多分――変わらないはずなのに、逸った気持ちに身を任せてしまいそうになる。そんな自分を必死で抑えて顔をゆっくり近付けて、ようやく吉乃の唇に触れた。

 最初は触れるだけ、唇同士の逢瀬はまた僅かの間。それでも今回は間を開けずにもう一度、今までもした事のある啄むようなキスを落とす。触れた吉乃の唇からかすかな音が漏れ、響樹の胸元に置かれたままの指に少しだけ力が入ったのが分かった。


 しばらくそれを繰り返していると、強張っていた吉乃の指先から徐々に力が抜けていき、頃合いだろうと響樹は動作を変えた。自身の唇で彼女の薄めの唇を食みながら、少しずつ動かしていく。今まで何度も触れてきて吉乃の唇のやわらかさは知っているつもりだったが、まだまだだったのだと思い知らされた。

 そんな響樹の感動半分の驚きとは少し内容は違うのだろうが、吉乃が驚いたように小さな声を上げた。しかし塞がれた唇から発される音は少しくぐもったように聞こえ、再び指先に籠った弱々しい力と合わさって艶めかしさをこれでもかと感じる。


 これ以上は自分の方がまずい事になりそうだと顔を離すと、はあ、と息を吐いた吉乃がゆっくりとまぶたを上げた。まどろみから覚めたばかりのような彼女の瞳が焦点を結ぶまでには、少しだけ時間がかかったように思う。

 珍しくふにゃっとした吉乃だったが、当人もそれを自覚したのだろう、すぐに頬を引き締めて眉根を寄せた。それが照れ隠しである事はもちろん一目瞭然である。


「響樹君」

「なんでしょうか?」

「してやったり、と言いたげな顔をしています」

「いっぱいいっぱいって顔だよ」


 嘘偽りの無い言葉ではあるのだが、少し蕩けた吉乃を見て頬が弛んでいたのも恐らく間違いないだろう。

 吉乃は響樹へと胡乱な視線を送っていたが、少しして真っ赤なままの顔に小悪魔の笑みを浮かべた。


「いっぱいいっぱいなんですね」

「ああ」


 頷くのが早いか、いつの間にか響樹の首に腕を回した吉乃の顔が近付き、「目、閉じてください」と囁くような声に素直に従ってしまう。甘い香りが鼻腔をくすぐったのには、少し遅れて気付いた。



 最初はそれまでとは逆に吉乃に唇を食まれていいようにされていた響樹が反撃に出ると、彼女の吐息に驚きの声とは別の甘い音色が混じった。

 そして次は吉乃の反撃に響樹が呼吸を荒くする番。


 そんな風に互いに反撃を繰り返し、気付けば20分程が経過していた。

 まだまだ色んなキスのし方はあるのだろうが、響樹の知識にあるものは全て吐き出している。もちろん実戦で。


「疲れるんですね、意外に」

「まあ、長い事してたからなあ……」


 僅かに肩を上下させる吉乃が響樹に苦笑を向ける。響樹も似たような状態であるが、単純な疲労というよりは興奮状態が長く続いた事と、互いに不慣れなため酸素が少し不足しているのではないかと思う。


「中々難しいな」

「ええ。まだまだ練習が必要ですね」


 恥じらいをその頬に色濃く残しながらもニコリと笑った吉乃に視線と意識が吸い寄せられる。


「していいのか? 練習」

「そう言いましたけど?」


 目を細めて首を傾げた可愛らしい姿からそんな事を言われてしまえば、すぐに練習を開始せざるを得なかった。

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