約五センチに込めたもの
エピローグの直後からです
最初にキスをした時には互いの頬にあった手。気が付けば響樹のものは吉乃の細い腰に、吉乃のものは響樹の首へと回されていた。
普段より少し長い一度目の後で顔を離すと、整った真っ赤な顔の上にある大きな瞳は潤みを帯びていて、ほんの少し眉尻を下げてはにかみながら吐息を漏らす吉乃に堪らず唇を寄せたのが二度目。彼女は驚いたのか小さな声を漏らしたのだが、それがまた響樹の興奮を煽った。
そして短い二回目を終えた後、僅かに頬を膨らませた吉乃がそのまま響樹の唇を奪ったのが現在の三度目。互いの手の位置に気付いたのもたった今だ。
啄むように吉乃の唇に触れては離し、それを繰り返しながらせっかく自覚したのだからと吉乃の腰を抱き寄せると、彼女の体重が少しだけ響樹に預けられる。それがまた心地良く、しばらくは堪能の上で唇を重ね続けた。
「……響樹君」
名残惜しい気持ちを抑えつつ顔を離すと、まだ顔しか見えないほどの近さにいる吉乃が弛んだ赤い頬を引き締めながら響樹へとわざとらしい不満げな視線を向けた。
「久しぶりだったし、つい」
響樹と吉乃は今まで何度もキスをしてきたが、会えば必ずする訳ではない。行為自体には多少の慣れも出て来たが、恋人である吉乃の気持ちや雰囲気も大事にしたいと思うのだ。
そういった考えもあって試験前の1週間と、互いの友人との試験お疲れ様会などもあった試験後の今週、タイミングの悪さなどもあって2週間近くキスはご無沙汰だった。熱も入るというものである。
「つい、ではありません。もうっ」
膨らませていた頬をふっと緩めたかと思うと、妖しい笑みを浮かべた吉乃がそのまま響樹の頬に口付けを落とし、腕の間からするりと抜け出ていく。
追うように伸ばした響樹の手にそっと指を絡め、吉乃は「続きはまたの機会に」と首を傾げながらくすりと笑った。朱に染まった顔に可愛らしい笑みを浮かべて。
キスをしていた時には響樹に唇を啄まれるままだった吉乃だが、最後には主導権を奪い返していった。
吉乃のやわらかな唇が触れていった頬が特別熱いような気がして指でなぞると、目の前の彼女がふふっと笑う。
(流石だな)
まだまだ敵わないなと苦笑を漏らすと、吉乃は満足げにニコリと笑った。
いまだ熱の残る吉乃の端正な顔に浮かんだ綺麗な笑みを見せられ、響樹は「ちょっと待っててくれ」と立ち上がり、机の抽斗から取り出した物を持って戻り、彼女へと差し出した。
「この部屋の合鍵。受け取ってくれ」
本当は試験で勝ってこれを受け取ってほしいと望みを伝えるつもりだったので恰好がつかないのだが、それでも吉乃の笑みの前ではそんなプライドは溶けてしまった。
彼女がこれを喜んでくれる事はわかっているのだし、何よりも響樹が一刻も早く渡したかったのだから。
「……いいんですか?」
差し出された持ち手部分をじっと見つめた後、吉乃はおずおずと響樹へと視線を移す。
「吉乃さんは俺の何だ?」
「……彼女です」
「はい正解」
ハッとした後で少し気まずそうに笑う吉乃に鍵を突き出すと、彼女は頬を綻ばせながら両手で丁寧にそれを受け取り、手のひらに包み込んで胸元に抱いた。
渡された鍵に愛おしい物でも見るかのような視線を落とした後、吉乃は響樹に向けて頭を下げ、濡羽色の綺麗な髪をさらりと揺らす。
「ありがとうございます、響樹君」
優しく目を細め、自然と上がる口の端が吉乃の喜びを如実に示してくれており、目が離せない。
小指程度の大きさの金属片が持つ意味を、吉乃がどれだけ喜んでいるのかを教えてくれているようで、急に気恥ずかしさを覚えてしまう。
「大切にします」
「まあ、大切にしてくれないと困るんだけどな」
「もう。そういう意味でない事はわかっているでしょう?」
響樹の照れ隠しにすら、吉乃は優しい微笑みで返す。
実際に吉乃が響樹の不在時に合鍵を使って部屋に上がる機会はそう無いだろうと思っている。基本的には一緒に行動しているし、そうでなければ互いに一人暮らしの部屋があるのだから。
だからこれは響樹の意思表示だ。いつでも来てほしい、いつでも一緒にいたいと、言葉で伝えていたものをもう一度、合鍵という物に信頼とともに込めて明確に示した。
「ああ、わかってるよ」
吉乃が込められた意味を読み取ってくれた事も、それを受けて喜んでくれている事も、しっかりとわかっている。
吉乃は嬉しそうな表情のまま、取り出した白いキーホルダーに早速取り付けて揺らす。元々付けられていた彼女の部屋の鍵と響樹の部屋のものが触れ合い、カチャリと小さな金属音を鳴らした。
「響樹君」
「ん?」
「早速使ってもいいでしょうか?」
新しいおもちゃを買ってもらった子どもというのはこんな表情をするものだろうかと、そんな事を思った。口にすれば怒られるだろうから言わないが、輝かせた目を玄関の方に向けた吉乃が大人びた外見に反して少し幼く見える。
「ああ、いいよ」
「ありがとうございます」
玄関まで連れ立って歩き、吉乃は外で響樹は内と別れて内側から鍵を締めると、数秒後にチャイムが鳴らされた。
響樹が何もせずに待っていると、鍵穴付近からカチャリと音が鳴り、ドアのレバーハンドルが角度を変える。
吉乃が喜んでいるから付き合っただけの行いだったはずが、開錠の音もゆっくりと回されるレバーも、一つ一つが響樹の心拍を上げた。ドアの向こうで可愛らしく笑う彼女に早く会いたいと、心が頭を急かす。
「こんにちは、響樹君」
「ああ。こんにちは、吉乃さん」
僅かに弛んだ朱色の頬にはやはり、可愛らしいはにかみが浮かんでいた。




