125話 恋人の時間
初めて吉乃に髪を撫でてもらった日、大変心地良かった事を覚えている。ただあの時はそれでも精神の高揚が勝っていてとても眠れる状態ではなかった。しかし今日、どうやら響樹は少し眠ってしまっていたようである。
確かに少し寝不足ではあったし、一日中気を張っていたとも思う。それでもほぼダイレクトな膝枕と幾度にもわたる口付けもあって、精神の高揚はあの時の比では無かったはずである。それなのにである。
まぶたを上げてから少しの時間を経て、目の前に翳されているのが吉乃の手のひらである事に気付く。恐らく響樹が眩しくないようにとの心遣いだろう。もう片方の手のひらも響樹の髪を撫で続けてはいるが、起こさないようにゆっくりと更に優しい手つきになっている。
本当に甘えさせてもらっているなと苦笑を漏らすと、「響樹君?」と静かな声が聞こえた。
「ああ、起きたよ。悪い」
「おはようございます」
「おはよう、吉乃さん」
ふふっと笑い、ゆっくりとどけられた手のひらの向こうから差す光は眩しいが、吉乃の笑顔は更にだ。微笑みには慈しむような優しさが込められているような気がした。
ずっと見ていたいと思ったし、手のひらから与えられる心地良さも頭の下に感じるやわらかさも大変に捨てがたいのだが、響樹は断腸の思いで体を起こす。
「どのくらい寝てた?」
「5分ほどですよ」
「重くなかったか?」
「少し重かったですけど、幸せな重みと言えばいいんでしょうか」
ふふっと笑う吉乃の腿に視線を落とすと、短いスカートの裾が少し皺になっていた。申し訳なさも覚えたのだが、あそこに自分の頭があったのかと顔が熱くなり、そのせいで更に申し訳なさが増す。
「悪かった」
「可愛かったのでむしろ私にとっては得でした」
軽く頭を下げると吉乃はくすりと笑うのだが、そんな彼女の向こう側にスマホが見えた。寝入ってしまう前まではあんな所に無かったと記憶している。
「写真撮ったのか」
「ええ。見ますか?」
吉乃の事だから恥を晒すようなものを写真に残したりはしないだろうが、それでも一応確認はしておきたい。自分の寝顔など見たくはないが、響樹は不承不承頷いた。
そうして見せてもらった写真は合計で十を超えた。響樹単体で写っている物がほとんどだが、いくつかは斜め上の角度から吉乃と一緒に写されており、その彼女がまた可愛らしい笑顔をしている。
(幸せそうな顔しやがって)
スマホのディスプレイに映る自分に対し心の中で悪態をつき、響樹はじとりと吉乃に視線を移した。
「今度吉乃さんが寝たら俺も撮るからな」
「では響樹君の前では寝ないようにしないといけませんね」
「一緒に寝た時に吉乃さんが先に寝るか俺が先に起きたらアウトだし、無理だろ」
吉乃が気を緩める事はそうそうなくても、いずれは響樹の前で寝顔を見せる事になるだろう。そう思っての軽口だったが、彼女の方から反応が返って来ない。
「一緒に、寝る……」
視線をやってみると、吉乃は響樹の言葉を繰り返すように呟いた。朱に染まった頬で、上目遣いの視線を送りながら。
その可愛らしい姿で自らが口にした言葉がどんな意図を含むかを理解し、しかも無意識下でしっかりとその意図を考慮に入れていた事まで気付き、響樹はより傷口を広げる。
「いや、やましい気持ち抜きだし、今日明日でどうこうって事じゃなくてだな。いつかそういう日が来ると言うか、来てほしいと言うか…………あー。飯にしよう」
「……はい」
誤魔化して話題を変えると、俯いたままの吉乃はこくりと頷いた。
◇
響樹が寝入ってしまったため奪った吉乃の時間の分という事で夕食の手伝いを申し出たのだが、彼女はやわらかく笑って首を振った。「父が持たせてくれました」と見せてくれたのは例の喫茶店の名前が入った白い袋と箱。サンドイッチのテイクアウトだそうだ。
「美味いな」
「ええ」
ダイニングテーブルで向かい合って口にするサンドイッチは、素材と調理の腕の良さを存分に感じさせる、店の中でわからなかったのが残念なほどの味だ。
コーヒーもケーキもきっと美味しかったのだろうと思うともう一度行ってみたくなるのだが、流石に少し厳しいかなと感じてしまう。このテイクアウトも一体いくらなのだろうと、宗介に感謝しながらゆっくりと味わった。
「響樹君。量は足りますか? いつもの食事よりは少なめですけど」
「大丈夫。店でケーキ二つ食わせてもらったからな。それにこの後の分も残しとかないといけないし」
「そうでしたね」
くすりと笑った吉乃に「ああ」と頷くと、彼女は「でも」とおかしそうに笑いながら続けた。
「せっかくの機会でしたので、別の物も持たせてもらっても良かったかもしれませんね」
「これ以上は値段が怖くて食えなくなるって」
宗介への気安さを――恐らく敢えてだろう――言葉に出す吉乃に微笑ましいものを感じながらも苦笑を浮かべると、彼女は少しだけ口を尖らせた。僅かに眉尻も下げ、どこか拗ねた様子を窺わせる。
父親にこんな態度を取る事など今まで無かったのだろう。いつか、宗介の前でもこんなふうにある意味で甘えた姿を見せる日が来るのだろうと思うと、やはり微笑ましかった。
「いいんですよ。これから高い物をねだってやりましょう」
わざとらしくそんな事を言う吉乃に響樹がふっと笑いをこぼすと、彼女の方はもう少しだけ口を尖らせる。
「だって。父は響樹君にもだいぶご迷惑をお掛けしましたよね?」
「美味いもん食えたからいいって言ったろ?」
「今日の事だけではありませんよ」
「あー……聞いたのか」
宗介が話したのだろうと予測すると、吉乃はまっすぐに響樹を見つめながら小さく頷いた。
「悪いな。勝手な事して」
「響樹君に謝ってもらう理由がありませんよ。響樹君の気持ちと気遣いはとても嬉しいです。本当に。だからお礼を言わなければいけません」
座ったままで角度は浅いが、吉乃は綺麗に腰を折った。そして眉根を寄せて口を尖らせる。
「悪いのは父です」
実際に宗介の非は大きいと思う。ただやはり吉乃の父であるので、彼女の意見に頷いてしまうのは憚られる。
そんなふうに迷っている間も、吉乃は自己満足だの響樹の厚意を無碍にしただの私の気持ちを考えていないだのと、宗介の行為を断じていく。ただ、口調は珍しく少しだけ荒いものの、その声音には温かな響きがあったと思うのだ。
「本当にお父さんは――」
「良かったな。改めてだけど」
こんなふうに口に出せるようになって。吉乃はきっと、空白の時間と思いを一生懸命に埋めようとしている。そんな彼女が愛おしい。
「……はい」
ぷりぷりと可愛らしい怒りを見せる吉乃に笑いかけると、彼女は気まずそうに一度目を逸らし、気恥ずかしそうに戻した視線を響樹に合わせてから小さく頷いた。
「やり方は酷くズレていたと思いますけど、父なりに私に対して誠実であろうとしてくれた結果ですので、残念ながらその事だけは少し嬉しく思えてしまいました」
僅かに朱に染まったはにかみを見せたかと思えば、「本当に不本意ですけど」と吉乃はまた唇を尖らせる。
「もう。父の事はいいではありませんか。今日はバレンタインデー、恋人たちの日ですよ?」
「そうは言ってもな。吉乃さんの反応が可愛いし、見てると幸せになる」
「もうっ、本当に響樹君は……」
響樹の視線がどんなものか気付いたようで、吉乃が頬を膨らませる。言葉通り、やはりそんな姿も愛おしい。もう少し見ていたいと思えてしまうのだが――
「響樹君はバレンタインを重視していないと。私からのチョコレートが要らないんですね」
「いやいや。欲しいに決まってるだろ」
もちろんへそを曲げたのは演技だと承知しているが、それでもその言葉の破壊力は絶大である。響樹がどれだけ楽しみにしていた事か。
「それでは。ここからは恋人の時間という事で異存はありませんね?」
「無い!」
食事の前にもそうだったと思うのだが余計な事は口にせずに言い切ると、吉乃は満足げに笑い、「はい」としなを作るように可愛らしく首を傾げた。




