12話 信用の示し方
「海、帰りに飯でもどうだ?」
先週は中々機会が無かったが、成績の上がった響樹としては礼を言っておきたかった。
海と響樹の帰り道は別方向であるし、加えて海はそこから二駅分の電車通学が待っている。休日に会うとなると定期券のある海に足を運ばせる事になってしまうので、響樹としてはできるだけ平日にという思いがある。
「あー、悪い。ちょっと先約がある、また別の日でいいか?」
「俺は基本いつでも空いてるけど、花村さんか?」
いつもより少しだけ歯切れの悪い海に対し、何となくで昼休みにあった女子の名前を出してみると、「ああ」と苦笑が返ってきた。
「優月がカラオケ行こうってさ、午後イチにメッセージで誘ってきた。学校にいる時に誘うの珍しいんだよな」
「そうか、じゃあまた今度な。喉潰すなよ」
「それは優月の加減次第だな」
どことなく嬉しそうな顔をする海に察するものはあったが、自身に縁遠い話であったし響樹は特に言及しなかった。
◇
女同士はどうなのか響樹にはわからないが、男同士は割とその場のノリで食事に出かけたり遊びに出かけたりというのが多いと思っている。響樹も海もその典型で、事前に約束をする事は少ないし、実際に今日の誘いもそう言えばと思い立っての事だった。
(よくよく考えると断られてよかったのか?)
吉乃に献立表を貰ってからそれを参考に響樹も献立を作ってみていた。いや、可能な限り真似たと言って差し支えない。
海にフラれて家に帰ってからそうやって作った献立表を開き、今日が買い物の日である事を思い出した響樹は、今まで通りその日のノリで友人と出かける事になった場合にどうしようかという問題に答えを出せないでいた。
(烏丸さんの献立表みたいにアドリブで料理変えたりとかは難しいしなあ)
かと言って海と食事に出かければその分の食材は余る。減るのであれば品目や量を少なくする事で対応できるが、余るとなるとどうしたものだろうか。あまり健啖な方ではない響樹としてはそれが悩ましい。
結局、スーパーに辿り着いても考えはまとまらなかった。
「難しい顔をしていますね」
「ああ。……って」
「こんばんは、天羽君」
「……こんばんは」
メモを見ながら買い物をしつつ先ほどからの問題に頭を悩ませていた響樹の横に、いつの間にかニコリと笑った吉乃が立っていた。今日もやはり制服姿だ。
「ええと……」
響樹は貰った献立表をできる限り参考にしたのだが、買い物リストなどについても同様。吉乃の買い物が週二回の月木だったので響樹も何も考えずに同じく月木に設定した。つまり吉乃が三年前からスケジュールを変えていなければ当然被る。
それに気付いたのはたった今なのだが、思い返してみれば過去二回の遭遇はどちらも木曜日だった。
「一応弁解しとくと、後をつけた訳じゃない」
「天羽君の方が先にいましたからそれはわかりますけど」
「いや、貰った献立表を参考に買い物の日も決めたから。なんか合わせたみたいになって、その、悪い」
怪訝そうに眉根を寄せた吉乃は、その後の響樹の説明に「ああ」と納得の表情を見せ、くすりと笑った。
「天羽君がそういう事をする人でないのはわかっていますし、渡したノートを参考にしてくれたのは嬉しいですよ」
ほんの少しだけ首を傾け、優しい微笑みを浮かべた吉乃がそう続けた。
「意外に信用があるんだな」
「そうでなければこちらから話しかけたりはしませんよ」
照れくささを誤魔化して軽口を叩いた響樹に少し呆れたように笑った吉乃は、「さあ行きましょう」と先を促した。
前回と違い今回は買い物を一緒にする理由はない。吉乃だって響樹に構うのは時間的なロスになるはずで、だからきっと「意外に信用がある」事の彼女なりの示し方なのだろうと受け取った。それが嬉しかった。
そんな風に並んで買い物を再開したものの、特別な会話はなかった。今日は何を作る、明日は何を作る、そんな事をお互いに話したのみ。
そして会話が途切れたタイミングで、「そう言えば」と吉乃が思い出したように口を開いた。
「先ほどは何を悩んでいたんですか?」
「ん、ああ。献立作ったはいいけど、外食の予定が急に入った時にはどうしようかなって」
「献立の調整……は確かに一人暮らしを始めたばかりの天羽君にはまだ難しいでしょうね」
「そうなんだよ。余る食材によってはできるかもしれないけど、必ずってのは無理そうだ。食べる量もあんま変えたくないし」
少し眉尻を下げて笑いながら頷いた吉乃は、「そうですね」と少し思案する様子を見せた。
「天羽君はお弁当を作っていますか?」
「たまにな。流用も考えたんだけど、時間的に作れる日ばっかじゃないからひとまず保留した。悪いな」
「いえ。それでは、最初から献立に日持ちの良い物や冷凍可能な料理を含めておくのはどうでしょう?」
「作るだけ作って買い物で調整って事か」
「ええ。献立の調整よりも次回の買い物で調整の方が楽でしょう?」
確かにその通りで、残った食材で調整をかけるよりはできそうだった。
「なるほど、助かる。ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
やわらかく微笑んだ吉乃に対してまた借りが増えたと内心で苦笑し、響樹はまた吉乃と歩き出す。
せめて家の方向が同じなら荷物持ちでもして借りの利息分程度は役に立っておきたいところだった。生憎店を出た瞬間に反対なのだが。
「でも、その辺りを気にするという事は直近で外出の予定があるんですか?」
「あるかもな。今日海を、前に図書室で一緒にいた奴な。島原海って言うんだけど、そいつを誘って断られてさ。家に帰ってからそう言えばって思い至った」
「図書室の……」
あの時の自身の勘違いを思い出したのか、吉乃の頬がほんのりと色付いた。元々の色が白過ぎるので、当人にとっては不本意だろうが響樹にもわかってしまう。
そんな響樹の視線に気付いたのか、吉乃はハッとしたように一瞬口を開き、何も言わずにぷいっと顔を背けた。拗ねた子どものようで、容姿とのギャップもあって可愛らしい。
「まあとにかく、その海とまたどっか行くかもしれないから考えときたかったんだよ」
「……次は断られないといいですね」
「まあ大丈夫だろ。今日はカラオケの先約が入ってただけだし」
吉乃が叩く照れ隠しの軽口にはいつものキレがない。だから響樹も笑って返すと、彼女の端正な顔がゆっくりと戻って来た。
「カラオケ……」
初めて見る表情だった。知らない言葉でも聞かされたかのように、不思議だと言わんばかりでありながら、それでも興味を持っている。僅かに小首を傾げながら、吉乃はもう一度「カラオケ」と小さく口にした。
「知らないのか?」
「……流石に知っていますよ。……知識としては」
まさかと思って尋ねてみれば、頬の紅潮が引ききっていない吉乃が少しムッとした様子で応じ、だいぶ小さな声で気まずそうに言葉を付け足した。つまり行った事はないと、そういう訳だ。
「あー。行くか? カラオケ」
「え?」
「俺もしばらく行ってないし」
行きたくないのであればあんなに興味津々といった顔はしないだろう。そう思ったら誘っていた。借りを返すチャンスだと思ったのも確かだが、こんな表情の吉乃を無視してしまうのは心が痛みそうで嫌だ。
問題は響樹と行きたいかどうかなのだが――
「行ってみたい……と、思っていると思います」
最初は迂遠な言い回しだと感じた。行きたい気持ちを見透かされて、意地を張ってそんな言い方になったのかと、そう思った。
しかしそれが違う事にはすぐに気付いた。吉乃はまた迷子のような顔をしている。何に対して、どんな事を見失っているのか、それは響樹にはわからない。だがそれでも、目の前の吉乃を放っておきたくないという自身の感情はわかる。
「わかった。じゃあ行こう」
「……いいんですか?」
「ああ。ってか言ったろ? 俺もしばらく行ってなかったから、よければ付き合ってくれ」
珍しく、いや、おずおずとした様子の吉乃を初めて見た。庇護欲をそそられる可愛らしい姿ではあるが、かすかに胸に痛みを覚えるような、そんな相反した感情を抱く。見たいのはきっと、こういう表情ではない。
「ええと――」
「なんか、そういうしおらしい顔似合わないな」
口に出してからもうちょっとマシな言い方はないのかと自分ですら思った。
似合わないなどとはけっして思わない。僅かに青みを帯びて艶めくまっすぐな黒髪、それに反して透き通るように白い肌。その上に並んだ形の良いパーツがこれでもかと品の良い印象を与える。
そんな淑やかな美少女にしおらしい顔が似合わないはずなどないのに、それでも響樹の口からはその言葉が出た。
恐る恐る吉乃の反応を窺ってみると、目を丸くした彼女がぱちくりと一度まばたきをして、ふっと笑んだ。
一瞬の苦笑、そしてもう少し長いやわらかな笑み。最後にいたずらっぽい笑顔へと変わり、形の良い唇に隙間が生れる。
「天羽君がどうしてもと言うのであれば一緒に行きます」
「じゃあ、どうしても」
「その『じゃあ』が気になりますけど、ご一緒してあげます。……連れて行ってください」
じとりとした視線を送って来た吉乃に「ああ」とだけ応じて、響樹は背を向けた。
「晩飯の支度遅くなるし、さっさと買い物済ませよう」
「そうですね」
そしてその少し後に聞こえた「ありがとうございます」の小さな小さな声は、聞こえなかったフリをした。