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弁慶  作者: Kan
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清水寺の炎上

 比叡山と激しい抗争を繰り広げていたのは、決して三井寺、すなわち寺門に止まらなかった。

 奈良の興福寺もまた、比叡山の宿敵なのであった。

 そして、あのような大惨事を招くことになるとは、この時、誰も想像できなかった。

 そのきっかけとなったのは、永万元年、二条上皇が崩御したことである。

 この二条上皇の葬送の際にある事件が起きた。

 葬送の際には、上皇の陵墓に、有力な寺が順番に額をかけるというのが習わしであった。

 そして、まずはじめに聖武天皇の御願寺である東大寺が、額をかけた。

 これは誰として異論を持つ者はいなかった。

 しかし、問題はその次である。

 次は、淡海公の御願寺ということで、興福寺が額をかける番であった。

 それなのに、延暦寺の衆徒どもは挑発的にも、延暦寺の額を先にかけたのである。

「あっ……」

 奈良の衆徒たちは思わず声をあげた。

 そればかりではない。この厳粛な儀式の、その雰囲気が打ち破られて、これまでに経験したことのない緊張感が一帯をほとばしった。

「山門の奴らめ……。これは遺憾だ。しかし、どうすれば良いのだ……」

 この事態に、怒りを震えながらも、どうすれば良いのかわからず、奈良の衆徒はどよめいていた。

「こうすればよい」

 その声と共に、奈良の衆徒の中から、恐るべき僧兵として知られている観音坊(かんのんぼう)勢至坊(せいしぼう)が躍り出た。

 そのふたりの姿に、延暦寺の衆徒に一気に緊張が走った。

 観音坊は、黒糸威の腹巻をして、白柄の長刀を握っていた。

 そして勢至坊は、萌黄威の腹巻に、黒い漆塗りの大太刀を握っていた。

「こうすればよいのよ」

 観音坊は、その延暦寺の額に近づくと、その長刀を一振り、一陣の風の下に切り落としてしまった。

 その凄まじさに、比叡山の衆徒は震え上がった。

 二人は、延暦寺の額をばらばらに叩き割ると、延暦寺の衆徒をじろりと一睨み、そして憎しみのこもった低い笑い声を上げながら、奈良の衆徒の下へと戻って行った。

 興福寺にもあのような鬼がいたのか、比叡山の衆徒たちは恐怖に顔を引きつらせた。


           *


 しかし、このようなことで黙っている比叡山の僧兵ではなかった。

「この屈辱、晴らさずにいられるものか」

「なに、今に目にものを見せてくれよう」

 この騒動の直後、比叡山の僧兵どもは、興福寺に復讐を果たすべく、興福寺の末寺である清水寺に攻め入ることとした。

 果たして、七月の二十九日。京の都に向かって、比叡山の僧兵は雪崩を打って、攻めかかって行った。

 まさに時刻は正午。

 晴天の下に、比叡山の僧兵どもは、西坂本に駆けつけた検非違使の者どもを、いとも容易く蹴散らすと、かえってその勢いを増し、唸りを上げて、清水寺に押し入った。

 清水寺の僧侶は、瞬く間に激しい混乱に陥り、逃げ出すものが後を絶たなかった。

「逃げるな。逃げずにわしにかかって来ぬか」

 弁慶は、清水寺の伽藍に踊り込むと、鬼のような声でそう怒鳴りながら、その大薙刀を名一杯振り回して、幾人もの僧侶を切り捨てた。

 この時、清水寺には、弁慶に対抗できるような僧兵は、一人としていなかった。

 比叡山の僧兵によって、清水寺には、瞬く間に火がかけられた。

 こうして清水寺の伽藍はひとつ残らず、その血塗られた炎の燃えたぎる中に消えていったのである。

 この炎こそ、弁慶の言う不動明王の業火なのだろうか。

 そして、火災の難を免れるはずの観音の利益は、どこへ消えてしまったのか。

 その紅の炎の中にも、末法が頭をもたげてきていたのである。

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