比叡山の夜明け
弁慶は真実に男であった。
比叡山延暦寺の甍の下にあって、この男ほど強靭な肉体と精神力をもった僧兵は未だかつていなかった。
この頃、比叡山延暦寺、すなわち山門派は、三井寺、すなわち寺門派との抗争に明け暮れていた。
この時、比叡山には天台の仏法はなかった。ただ領土と面子をかけたこの争いばかりが、若き僧兵たちの血潮を沸き立たせていた。
弁慶は、その内のひとりであった。
*
「弁慶、比叡山は死んだのか」
弁慶の仲間の僧兵がある朝、弁慶にそう尋ねた。
「何をぬかす」
「もう一度聞こう。比叡山は死んだのか」
「延暦寺は今、燃えたぎっている。いつの延暦寺よりも生き生きとしている」
「そうではない。弁慶。延暦寺には、もはや仏法はない。若者は寺門派との小競り合いに夢中だ」
「そのことか。それは時代の波だ。時代が仏法よりも争いを好んだのだ。時代は末法となって久しい。見よ。あの地平線を、あの山並みを、そして美しい琵琶湖を。あの先には何がある。猛き武者どもが我がもの顏でのし歩いておるわい」
僧兵は哀しげな顔をした。
「それよ。だからこそ仏法が必要なのだ」
弁慶は、じっと僧兵の顔を睨むと、ゆっくり口を開いた。
「そうではない。仏法は戦乱の世においては、何の意味も持たぬ。我ら僧兵は不動明王だ。悪を調伏するには不動の業火が必要なのだ。それは刀だ。弓だ。そして薙刀だ」
「おぬしはそう言うかもしれぬ。しかし、それは仏門ではない」
「これが仏門だ。力がなければ何事をも為すこともできぬのだ」
そう言って、弁慶は少し黙ると、仲間の僧兵をおいて、悠々と去っていった。
「これが末法なのか」
僧兵は、震えた声でぽつりと呟いた。
*
比叡山の朝は、静けさの中に、念仏が聞こえてくるのだった。
一体、人びとは何を願っているのか。
それは誰にも分からなかった。
ただ時代が変わろうとしていた。
何を信じて生きれば良いのか分からぬ、そんな静かな朝日の中に、この物語は始まる。