8.なあ、ゆずる
だだだだーっ、と物凄い音が響いてくる。
地震か? 火事か? と廊下を見やると、木村史宏がバーンと音を立ててドアを引き開け、教室に飛び込んできた。
「直久、大変だ!」
「んあ?」
「3組の樋口だ。今、九堂を連れて二階の空き教室に……」
「何だって!」
最後まで聞いていられない! 直久は教室を飛び出して、一目散に廊下を駆けた。
――中学の時は良かった。ゆずるはずっと男装をしていたから、急に女に戻ったからといって、すぐにゆずるを女として扱う男などいなかったからだ。
だが、高校に入学してからというもの……。
ああんな可愛いスカートひらひらさせて、髪もふわふわ猫毛だし、肌は白いし、目は大きいし。
どっからどう見ても女の子のゆずるを、中学時代の男装姿を知らない男子は、ほっとかないと言うか、ほっとけないのだ。
直久の味方は、中学生時代からの友人である木村と双子の弟くらいで、あとの男と言ったら、上級生から下級生まで、ゆずるを狙う不届き者ばかりである。
「直、どこに行くんだ?」
こんな時なのに、バッタリ廊下で出会ってしまう尊敬すべき先輩。直久は足にブレーキを掛けて止まった。
「もうすぐ部活の時間だろ?」
「キャプテンが遅れたら、示しが付かないんじゃないの?」
深沢高明の隣にいたのは、彼の幼馴染みの池部怜司だ。直久は焦れったそうに足踏みを開始する。
「今、それどころじゃないんですよー」
「なんだ、また、愛しのゆずる君を他の男に連れ攫われちゃったわけ? ――大変だね」
「ぜったい面白がってるでしょ、いけべー先輩!」
「面白いじゃん!」
「怜司……」
「そんなに不安なら、さっさと結婚しとけば?」
「言われなくとも18になったら、即行で籍を入れます!――っていうか、今でも一応、婚約しているんですけどっ」
「それ、もっと公表した方がいいよ。ちっともゆずる君に群れる男が減らないじゃん」
「しているんですけどね。かなり!何度もたくさん!」
直ちゃん、と呼ぶ声が聞こえて、直久は振り返る。
「どうした、数?」
「大変だよ、ゆずるが……3組の樋口くん……」
息を切らせている数久の説明は要領を得ない。直久は数久のことを高明たちに任せて、再び駆け出した。
木村から聞いた空き教室の前まで来ると、勢いよくそのドアを開いた。
「ゆずる!」
目に飛び込んできた光景に呆然とする。人が倒れている。
「直」
「ゆずる、無事か?」
「私は無事だけど、思わず、そいつの急所を蹴り飛ばしちゃった」
「……あ」
うつ伏せに倒れている少年が、たぶん、きっと、樋口という奴なのだろう。見覚えのない顔だ。
「よくやった、と言いたいところだけど、ずいぶん長いこと男やっていたとは思えないぞ、それ。急所はダメだろう……」
「……」
「――ま、いいっか」
ゆずるが無事なら、万事OKである。
部活に参加する気力をすっかり失い、直久は教室に部活鞄を放り捨てると、ゆずると共に帰路につくことにした。
校門を抜けた辺りで後ろから駆けてくる足音が聞こえ、振り返ると、数久だった。
「ねえ。ちょっと、うちに寄らない?」
「ん?」
「もうすぐ卵がかえるかもって」
「もう生まれるのか?」
「生まれるというか、孵化するかもって」
いったいいつの間にそういうことになったのか、雲居は一月前に3つの卵を産み落とした。
抱える程の大きさで、満月のようにまんまるの卵だ。どんな姿で卵から出てくるのか、かなり怖いが、興味はある。
――蛇にしか見えないような姿だったら、どうしよう。
だが、二年程前に見た少女の姿を思い出して、不安を振り払う。夢月は可愛らしい少女だった。早季と同じくらいに。
「姉さんも今日、家に帰ってくるってさ」
「何だよ、夫婦喧嘩か? 腹に子どもいるくせに?」
「だからだよ。妊婦は普通、臨月が近くなったら実家の方に戻ってくるものらしいよ。――ちなみに、喧嘩はしていないからね」
「貴樹さん、我慢しているよなぁ」
そうだね、という賛同は得られなかった。あれでいて、貴樹もなかなかの曲者だからだ。
久し振りに生まれ育った我が家に帰ってきた直久は、和室の縁側に置かれた巨大な卵にギョッとする。
聞いた話と、実際に見るとでは、大きな差があることを思い知る。実際に目にすると、大きな過ぎる卵は異様だった。
「あれ? 二つしかないじゃん」
「うん。一つは閉まってあるんだ。――直ちゃんたちの娘が生まれた時に孵化させようと思って」
「腐らないか、それ……」
二つの卵の側に膝を折り、数久を見上げるようにして、ゆずるは呆れ声を出す。数久は小首を傾げた。
「雲居は大丈夫だって言ってたよ?」
「閉まって? どこに閉まってあるんだ?」
「えーっと、冷蔵庫」
「冷蔵庫!?」
間違っても、ニワトリの卵と勘違いして料理に使うことはないサイズの卵だが、いくら何でも冷蔵庫は……。
二度とこの家の冷蔵庫は開けたくないと思いながら、台所の方向をチラリと見やる。
そこに鈴加がやって来た。
「あら、珍しい顔を見たわ」
「お邪魔しています」
「ゆっくりしていってね、ゆずる君」
大きい腹を邪魔そうにしながら、歩み寄ってくると、卵を見下ろして、その側に座り込んだ。
「今夜にも孵化しそう?」
「そう、雲居は言っているけど……」
「全身、緑色の肌をしていたりして」
「姉さん」
「ウソよ、嘘。じょーだん」
「正直に言うと、僕も不安なんですから、これ以上不安にさせるようなことを言わないでよ」
「あら、そうだったの? ごめんね。――私も不安だったから」
鈴加にしては気弱なこと言う。直久は怪訝な顔で姉を見やった。気付いて、鈴加は気まずそうに微笑んだ。
「ほら、うちの一族って、死産率高いじゃない? 生まれても、人の世では生きられない場合もあるでしょ?」
ゆずるの異父妹である優香の双子の兄のことを言っているのだ。
彼は異形な姿で生まれてしまったため、本家の裏山に捨てられたのだ。そして、今は優香の式神として彼女の側にいる。
「とりあえず、ちゃんと生きて生まれてきて欲しい。そして、とりあえず、人として生きられるように生まれてきて欲しいわけ」
「うん」
分かるよ、と数久。
その時。コツン、と軽い音が響いた。ハッとして卵を振り返る。
「今、音」
「うん!」
殻の内側から聞こえた音。もう一度。
「どうしよう、直ちゃん」
「どうしようって、割れやすいようにヒビとか入れた方がいいんじゃねぇ?」
「逆よ!下手に弄らない方が良いって。確か、鳥の本で読んだことあるわよ」
「鳥と一緒にすんなよ」
慌てる姉弟を余所に、一人冷静にゆずるは卵に手をかざした。
「出てきたいのか?」
コツン、と返事。
「そうか。――なら、出ておいで」
パシン、と殻が割れる。――そして、もう一つも。
▽▲
見上げると、暗幕に小さな無数の穴があいているかのような夜空。月はない。隣にはゆずるがいて、何となく手を繋いで家へと歩いている。
不意に、直久が言葉を零す。
「また、振ってこないかなぁ」
「何が?」
「早季ちゃん」
「……はぁ?」
「俺も子ども欲しくなった」
「数に影響された?」
「鈴加も直に生むしなぁ。――名前、良樹っていうんだって」
「鈴加さんの子ども?」
「そう。夕樹じゃなくて、『よしき』だってさ」
怪訝そうな顔をしている直久に、ゆずるは、ああ、と納得して言った。
「夕樹は早季と同い年なんだろう? まだ生まれてくる時期じゃない。良樹は夕樹の兄だ」
「そっか」
じゃあ、夕樹が生まれたら、早季が生まれるのだろうか。
――でも、 その前に、18歳になったら籍を入れて、高校を卒業してからだな。
神社を継ぐには、その上の学校に通って資格を取らないとならないから、当分は学生の身だけど、早く早く、早季に会いたい。
「――けどさ、サルみたいだったな」
「笑うなよ、直」
「だって、しわしわ! 皮あまってたし!」
思い出して笑うと、つられたようにゆずるも笑い出した。
だけど、サルのような赤ん坊の姿を思い出して笑っているのではない。数久の心配事が杞憂で終わったからだ。卵から出てきたのは、ごく普通の人間の赤ん坊だった。
例えその子たちが将来蛇の姿に変身するとしても、とりあえず、生まれ出てきた姿は人間の姿をしていたのだ。
「笑ったら腹へったなぁ」
「きっと今頃、久美子さんが用意してくれているだろ」
家政婦の名前だ。
「なあ、ゆずる」
「ん?」
「ちょっとはお前が料理してくれたりしないの?」
「しない。できない。試してみる気もない」
「……あ、そうですか」
いかにもゆずるらしくて、むしろ笑みが浮かんでしまう。
必死で耐えたが、躰の震えが手を伝わってしまったらしい。ゆずるがムッとしたように直久を見る。
宥めるように握る手の力を強めた。
【完】