7.引き受けてやる
白。
霧の世界の中、直久は一人で佇んでいた。
ふと見やると、霧の中、薄く人影が見えて、何となく彼女だろうと思った。
はっきり見ることはできない。だけど、感じる。
――ああ、彼女だ。
朝霧は時々、直久の躰の中に潜り込んで、直久と心を共有する。
彼女を懐かしく思うこの心は、直久のものではなく、朝霧のものだった。
直久の中で朝霧が身動いだ。
駆けたい。駆けて、彼女を捕まえたい。そう、朝霧が望んでいる。
だが、直久はピクリとも足を動かそうとはしなかった。
霧の向こうは現世ではない。――だから、行くことはできないのだ。
白。
乳白色の世界で、彼女は静かに笑った。
そして、消えた。
▽▲
瞼を開くと、ゆずるの顔が目の前にあり、思わず赤面する。
どうやら、なかなか目覚めない直久を心配していたようだ。起き上がると、ホッとしたように息を吐き出した。
「直?」
「朝霧はどこだ?」
呼ぶとすぐに声が返ってきて、部屋の隅にふっと姿を現せた。
「ここだ」
「……夢を見ただろう?」
「見たのは、お前だ」
「夢の狭間で人と会った。あれは小夜だ。――違うか?」
「もう消えた」
やはり小夜だったのだろう。朝霧は紫色の髪を左右に揺らしながら、直久の側までやってくると、隣にすとんと腰を下ろした。
「――だけど、見つけた」
「うん」
「――いや、これから見つかる」
「そうだな」
直久はゆずるは見て、それから早季に目を向けた。
「早季。お前だったのか。お前が小夜の生まれ変わりだったんだ」
「え?」
「俺は朝霧と、早季の生まれ変わりを捜す約束をした。それがお前だったんだ!」
それが自分の娘だったなんて! ――すっげぇ、偶然。捜す手間が省けたような、だけど、まだ生まれてもいない娘のことだ。なんだか微妙な気持ちである。
直久の顔が顰められたのをみて、朝霧が嗤った。
「直、当然、娘は俺にくれるんだろうな?」
「なんでそういう話になるんだ?」
「俺の小夜への想いは知っているだろ? ――だから、捜す約束をしてくれた。違うか?」
「違わないけど」
「お前は当然、小夜の生まれ変わりと俺がくっつけばいいと思っていたはずだ。それが自分の娘だったと知って、意を変える気か?」
契約違反は喰い殺してやる、と朝霧が口をガバリと開けて、牙を光らせた。直久はますます顔を顰める。
「今、俺を喰い殺すと、早季は生まれなくなるぞ?」
「……」
「せいぜい早季が生まれるまで、俺のこと守り抜いてくれよ。その働きによっては、考えなくもないし」
「言ったな。しっかり聞いたからな」
「はいはい」
生まれてもいない娘の将来を軽く約束してしまった直久に、ゆずるは当然いい顔をしない。
早季の顔を見やり、それから直久の袖を引いた。直久も早季を見る。
「どうした?」
「知らなかった。私が小夜の生まれ変わりだったなんて。――だから、朝霧は私のこと……」
「早季?」
「私は九狼で初めて9匹の妖狼を式にした。それが私の誇りだった。朝霧が私の力を認めてくれたことが、すごく嬉しかった。だが、それは私が小夜の生まれ変わりだからだったのだな」
「早季ちゃん、それは……」
夢月が何かを言おうとして、早季に睨まれる。
「夢月は知っていたのか?」
「知らないよ。初耳!」
「夕樹は?」
それまで眠っていた者たちの躰を守っていた少年も、早季の問いに首を横に振る。
「……そうか」
俯いてしまった早季に、直久とゆずるは顔を見合わせる。
その思いを読み取ろうと試みてみたが、彼女の心は分厚い壁に阻まれているようで、ちらりとも分からなかった。朝霧が直久の肩を掴んだ。
「俺は二度と小夜を失いたくない。――分かるよな?」
早季にかけられた妖猫の呪いのことだと、すぐに分かった。
その呪いを引き受けられるのは、ゆずるだけだ。だけど、そんなことをすれば、今度はゆずるが命を落とすことになる。
ゆずる、と呼んで、直久は彼女に振り返った。
自分からゆずるにどうしろとは何も言えない。言いたい気持ちはあった。――だけど、言えない。
ゆずるの意に任せるしかなかった。
「早季、手を出せ」
「いやだ」
「出せ。――引き受けてやる」
「断る」
頭を左右に振ると、長い黒髪は大きく波を打って、光の欠片を散らす。
ゆずるの髪は茶色く柔らかだから、こうはならない。光は反射されるよりも、吸い込まれていくように見えるのだ。
早季の手を取ってゆずるはその身体を自分の方へと引き寄せた。
「時間はまだある。きっと呪いを解く方法を見つける」
「きっと見つからない」
「見つからなければ、24年後、私は妖猫に近付かなければいい。近付かなければ殺されることはない。――そして、もっと時間をかけて、呪いを解く方法を捜す」
「……」
早季の躰を力強く抱き締めて、ゆずるは口の中で一言二言何かを呟く。唄うように囁いて、早季の躰から呪いを自分の方へと移していく。
がくん、とゆずるの躰が傾いて、慌てて直久が支える。早季も顔を青ざめさせて、ゆずるの腕を掴んだ。
「おい、大丈夫か?」
「……大丈夫だ。――早季、気分は?」
「すっきりした感じ」
「だろうな。こんな禍々しいものを体内に入れておいて、よくもまあ、あれだけ自分の力をだせるもんだ」
「そんなに強い呪いなのか?」
「……大丈夫」
絶対ウソだということは、表情を見れば分かる。
そのうちに慣れると、ゆずるは言うが、果たしてどこまで慣れるものなのだろうか?
いずれ死に至る呪い。そして、24年後に現れる妖猫に結びつく呪い。
「刀守り。迷い土」
二匹の妖狼の名前を呼んで、一息付くと、ゆずるはずいぶんとラクになったようだ。
二匹の力が呪いを抑え込んでいるのだろう。ゆずるは、不安げな顔をしている早季に向かって淡く微笑んだ。
「もとの時代に帰るんだろ? ――見送るよ」
「うん」
▽▲
どうやら、家の中に入り込んでしまった低級霊などは鈴加たちが祓っておいてくれたらしい。
直久たちがゆずるの部屋から居間の方へとやってくると、両手を広げて突進してきた。
「きゃぁー。見てよ! この子が私の未来の息子なの!」
「鈴加、その子、驚いているから」
放してやれ、と貴樹。鈴加に抱き締められているのは、夕樹だ。
早季や夢月の従兄で、彼女たちの父親の姉の息子ということは、つまり、鈴加の息子ということになる。
そのことを直久は現状を見て、ようやく知った。
「顔は……貴樹似かしら? 性格は……貴樹似っぽくない? ――私似なら、もっと、若い母親を見て、きゃあきゃあ騒ぐはずだもの!」
「それは良かった。鈴加似の息子なんて、考えただけでも頭が痛いからな」
「どういう意味よっ」
「鈴加は一人で十分だっていう意味だよ」
「だから、どういう意味よ!」
夕樹を挟んで痴話喧嘩を始めた二人を横目に、直久は部屋の中を見渡す。
また、ずいぶんと鈴加は派手に暴れてくれたらしい。家具はメチャクチャだし、畳はボロボロだ。
しかし、文句を一言でも言えば、私に頼んだあんたが悪い、と言い換えされることだろう。
トコトコと軽い足音が響いてきて、ひょっこりと小さな男の子が姿を現す。
「太一」
ゆずるがわずかに顔を緩ませて、少年を手招いた。その後ろから数久もやってくる。
「ゆずる姉様」
「無事だったか」
「でも、お祖母様が……」
言葉を詰まらせた太一に代わり、数久が深刻そうな顔で口を開く。
「どこにも姿が見当たらないんだ。気配もない。たぶん……」
「……そうか」
妖怪に連れ攫われたか。喰われたか。霊に躰を乗っ取られた可能性も考えられたが、いや、それなら姿が消えることはない。霊ではない。たぶん妖怪の仕業だ。
妖怪を父に持ち、その血を濃く継いでいた祖母だった。
数久がふと目線を移動させ、夢月を見つける。にこっ、と微笑んだ。
「ケガはない?」
「ないよ。父さんは?」
「んー。ない……と思う」
「あるんだね。治してあげようか? って、そういうのは私より夕樹の専門なんだけどさ」
「大丈夫だよ。あとで雲居にやってもらうよ」
「そっか!」
夢月は嬉しそうに歯を見せて笑った。雲居とは数久の式神で、白蛇の妖怪だ。
「母さんによろしく。――ああ、そうだ! 父さんさ、私のこと女の子だと思っているかもしれないけど、違うから。あとさ!」
夢月は手を打って、さらりと何かを言ってから、さらに手を打って大声を上げる。
ぶっとんだ話展開をする兄で慣らされている数久もさすがに困惑し、さらに何事かと眉を寄せると、夢月は言いにくそうに僅かに声を潜めて言った。
「あのさ、私たち、卵で生まれたから」
「え?」
「卵で生まれてくるけど、びっくりしないでよ」
「ええっ」
聞こえてしまった直久も思わず口をあんぐりさせる。
――普通、それは驚くだろ!
さすがの数久も驚いて言葉がないらしく、無言で夢月を見つめている。
「父さん、お母さんが卵を産んだ時、しばらくショックで口が利けなくなったらしいから先に話しておくね。あんまりびっくりしたら卵を産んだお母さんもショックだから」
「……そ、そうだね。今から覚悟しておくよ」
「お願いねー」
長年の憂いが晴れたという顔で夢月はニッコリ笑い、数久に爆弾を一つ投げ渡した。
何というか、さすが数久の娘というか、笑いながらスゴイことを言い出すところが数久とそっくりだ。
早季が夢月と夕樹の名を呼んで、それぞれに手を差し出した。いよいよ帰るのだ。
すうっと空気が変わる。色というか、体感温度というか、雰囲気が変わったのだ。
三人の頭上に歪みができる。
歪み。――凹凸レンズがそこにあるかのように、見える景色にズレが生じるのだ。
これが時空の穴。実際に目に見えるようなものではない。例えば、壁にあいた穴のようにハッキリとしたものではないのだ。
――否、似たようなものなのかもしれない。
『時空』を『壁』に例えるのならば、それは確かに『壁にあいた穴』なのだ。
不意に早季が振り返って、ゆずるを呼んだ。何かと聞き返すと、早季は微笑み、目だけで穴の底を指す。
覗き込んで、ゆずるはハッとする。直久も穴を覗き込んだ。
穴の底。ずっと奥底。未来の自分が、今の自分と同じように驚いてこちらを見上げていた。
懐かしそうに微笑んで、彼はこちらに向かって両手を差し出す。
ダンッ。
早季たちは床を強く蹴り、穴の中へと飛び込んだ。早季を受け止める未来の自分。再び見上げて、やはり懐かしげに微笑んだ。