3.狙いは、ゆずるさんだったんだ
「ゆずるーっ!」
玄関に入ってすぐ数久の悲鳴が聞こえた。ゆずるの部屋からだ。靴を脱ぎ捨てて廊下に上がると、全力で駆けた。
嫌な予感がする。――いや、違う。予感ではなく、家の中の空気が淀んでいるせいだ。
泥水のように濁った空気は、どろりと粘るように躰にまとわりついてくる。
躰が重い。これは妖気だ。
窓ガラスに映り込んだ空はどこまでも青く冷たく澄んでいるというのに、直久の躰にまとわりついたそれは生温く淀んでいる。
ガクンと夕樹の躰が沈んだ。苦しそうに膝を着いている。廊下の先を見やると、両手を着いてしゃがみ込んでいる夢月の姿があった。
――早季はどうしたのだろう?
直久は更に廊下を見渡したが、早季の膝を着いた姿は見つけられなかった。
「くそっ。うぜぇ!」
カッと気を放つと、直久の回りだけ空気が澄んだ。すぐ脇で夕樹が息を吐いた。
「さすがですね」
「大丈夫か」
腕を掴んで立たせてやる。
夕樹を連れて夢月の元に駆け寄る。直久が夢月にまとわりついた妖気を払うと、夢月はスッキリした顔で立ち上がり、廊下の先を見据えた。
「早季ちゃんが……」
「早季ならこのくらいの妖気、大丈夫だ」
心配なのは、と夕樹は続けた。聞くまでもなかった。直久は二人を引き連れてゆずるの部屋へと駆け込んだ。
「ゆずる!」
襖を勢いよく開くと、まず、畳の上に真っ青な顔をして倒れている数久の姿が見えた。その側に早季。
早季も青い顔をしていたが、夕樹の言うように気を失うほどではないようだ。直久が側に腰を下ろすと、二人の顔色はスッと良くなっていった。
「ゆずる?」
夢月の手を借りて数久は上体を起こしたが、ゆずるは仰向きに躰を寝かしたままピクリとも動かない。
土色の顔を見下ろして、直久はその頬にそっと触れた。ひんやりとした。驚いて、思わず触れた手をもう一方の手で覆った。
「おい、ゆずる!」
躰を揺さぶってみたが、やはり反応がない。まるで死んでしまったかのように、こんこんと眠っている。
「パノンの狙いは、ゆずるさんだったんだ」
「でも、なんでゆずるさんを?」
「早季を倒せないと思ったからだろう。ゆずるさんを消せば、この先、早季が生まれることはない」
「なるほど」
深々と頷いた夢月を早季が睨んだ。
「のんびり納得している場合ではない。すぐ夢の中に入るぞ。――夢月は私と。夕樹は私たちの躰を頼む」
「分かった」
「待て。俺も行く」
時空を越えてきたという三人が勝手に話を進めていることに慌てて、直久は大声を上げた。
「ゆずるのことは俺が守るって決めてんだよ。お前たちを信じていないわけじゃないけど、やっぱりどこの誰だか知らないお前たちだけにゆずるを任せられない」
「……」
元々、口数の少ないタイプなのだろうか。早季は無言で直久の顔を見つめている。
早季が何も言わないので、夢月も夕樹も口を開けず、じっとしている。
直久は早季から目を逸らし、数久に振り返った。
「数、太一とババアが心配だ。様子を見に行ってくれ」
悪魔の気配は、日本妖怪たちにとって強すぎる刺激になる。例えば、一昔前の日本のド田舎に、突然、金髪碧眼の外国人がやって来たようなもの。
何事かと妖怪たちは悪魔の気配を追って集まり、妖怪たちが集まればそれだけ妖気が籠もる。
妖気が濃くなれば、次は霊たちが騒ぎ出す。特に目的もなく彷徨っている霊たちが。
浮遊霊が集まれば、その負の力を追って悪霊たちも集まってくる。
妖怪と霊が混在した空間を想像してみて欲しい。――実に、嫌なものがある。
悪霊は肉体を欲して、九堂家の者に襲いかかってくるだろうし、妖怪も何をしでかしてくれるか分からない。
数久が頷き、腰を上げかけたのを見て、直久はその腕を掴んだ。手のひらに力を集中させる。
「護符だ」
「ありがとう」
朝霧を式神にしてから、直久は数久よりも強い力を得ている。以前は逆の立場で、数久に護符を貰い、身を守って貰っていたが、今なら直久が弟を守れる。
「太一とババアをここに連れてきてやってくれ。ここには俺が張った結界がある。――それから、鈴加を呼んで、すでに集まってきてしまった悪霊たちを除霊しておいてくれ」
「うん。分かった」
「気を付けろよ」
「直ちゃんも」
直久が数久の腕から手を放すと、すぐに数久は立ち上り、直久から数歩離れた。と思ったら、ふと振り返って夢月に視線を向ける。
「……ムッちゃんも気を付けてね」
「え」
「ケガしたら、夢の中でも痛いよ?」
「あー。気付いた?」
「一目でね」
微笑んで立ち去った数久に夢月は頭を掻く。
「さすが数久さんだ。あの様子だと、夢月の母親が誰かっていうのもバレてそうだな」
「あなどれん」
すでに姿のない数久を目で追うように、しみじみとして言った夢月に夕樹も頷く。
そんな二人を放っておき、早季はゆずるの額に手を触れた。
「夕樹、ここを頼んだよ」
「ああ」
「夢月、行くよ」
それから、と直久を見やる。差し出された手を、直久は深々と頷き、握った。
直久のもう一方の手を夢月が握る。とたん、すとんと闇が落っこちてきて、直久は自分の躰が傾いていくのを感じた。