ヒーローの在り方
雨の音がうるさい。
地面を叩きつけるような激しい音が耳に付き、私は目を覚ました。
タクシーを待っている間、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
(今日は早く帰りたかったのに……)
こんな日に限ってタクシーは一台も停まっていない。いつもなら終電を逃したカモを乗せようと、この待合所には色とりどりの行灯が並んでいるというのに。
外は相変わらず雨が激しく降り続いていた。
時刻は既に深夜零時を回り、周囲に人の姿はなかった。
私は都内の出版社で編集長をしている。
報道関連の編集部に勤務しているため、帰宅する時間が深夜を回るのはよくある事だった。
私にも家族は居る。八年前に結婚し長男を妊娠、産休を取って出産した。
息子と毎日を共に過ごし、専業主婦も悪くないと一時は退職も考えたが、
「熱意が覚めていないのなら、辞めるべきではない」と、夫の強い後押しもあり現場に復帰した。
その後は夫が専業主夫となり家事育児の一切を請け負ってくれた為、私は仕事に専念することが出来た。
子供の頃からの夢であった編集という仕事、更に編集長という役職に就けた事で経済的にも安定し、私は今の仕事と家族がいることに生き甲斐を感じていた。
反面、家族で過ごす時間はすっかり減り、息子と夫には申し訳ない気持ちも大きかった。
特に今日は、その気持ちが一層強かった。
というのも、今日は息子のアキラが六歳の誕生日を迎える日だった。
定時には何としても帰ろうと朝からやっきになっていたのに、昼になり速報が入った。
それは、勤務地から程近い場所で起きた「立て籠り爆破事件」。
報道部としては、この事件を記事にしない訳はなく、更に編集長という責任ある立場の私が一目散に帰る訳にもいかなかった。
事件が終結した時には既に午後十時を過ぎ、帰宅する時間は結局いつもと同じになってしまった。
雨の勢いは収まるどころか、先程よりも強くなった気がする。
視界は一層悪くなり一メートル先も見えないほどだ。
しかし、遠くに僅かな青いランプが見えた気がした。雨で霞んではっきりとは見えないが、徐々に近づくランプは間違いなくタクシーの行灯だった。
あのタクシーを逃がしてなるものかと、私は急いで立ち上がり大きく腕を振って乗客がいることを必死にアピールした。
大きな水しぶきを上げこちらへ向かってくる車。その姿に私は、ほら、やっぱりタクシーじゃない。と得意気になり、同時に安堵した。
停留所に停まったタクシーに私は乗り込もうとする。が、なにか違和感を覚えた。
普通、タクシー会社というのは客商売なので、商売道具であるタクシーの車体は傷一つなく、キレイに磨かれているのが常だ。
しかし、このタクシーは車体のあちこちに傷やへこみがあった。
更に、乗り込んだ私の手に何やらざらついた物が触れた。よく見れば、それは砂埃だろうか。
(シートに砂?大丈夫かしら、このタクシー)
異様とも思える状況に不安で警戒心を抱くも、一刻も早く家に帰りたいと思う気持ちが勝り、私は少々躊躇いながらも仕方がないと納得した。
「寄町の三丁目マンションまでお願いします」
「はい、かしこまりました」
振り向いた顔に私は少し警戒心が緩んだ。
手入れが行き届いているとはお世辞にも言えないタクシーなので、どんな横暴な運転手かと思ったが、運転席の男性は大層人が良さそうな笑顔をしていた。
目尻や口元には深いシワが刻まれている。六十間近だろうその運転手は、被っていた帽子を取り、挨拶もそこそこに車を発進させた。
降り続ける雨は車の窓ガラスやボンネットを激しく叩きつけ、バシバシと低い音が車内に響き渡る。
冷々とした空気。雨のせいだろうか、九月半ばとは思えないほど車内は冷えて肌寒く、まるで車体そのものが冷気を発しているようにさえ感じられた。
「ひどい雨ですねぇ」
突然、運転手が呟いた。
独り言にも聞こえるが、車内には私一人しかいない。無視をするのも気まずいので、
「えぇ、予報では雨が降るなんて言ってなかったのに。朝には止んでくれるといいけど……」
と、私は当たり障りのない返答をした。
「こんな時間までお仕事ですか?」
気を良くしたのか、運転手は会話を続ける。
正直、疲れ果てた私には会話をする気力はなく、放っておいてほしかった。が、やはり無視をするのは気まずい……。
「はい、ちょっと予想外の事が起きて遅くなってしまったんです」
会話を切り上げようと、それ以上の事は言わなかった。
すると、運転手もその空気を悟ったのか、
「そうですか……大変でしたねぇ」
と、無難な返答をし、それ以上の話はしてこなかった。
沈黙になると一層雨の音が際立ち、時間が長く感じられた。自宅までは十分と掛からない距離だが、重苦しい空気に包まれているとそれが何十分、何時間にも感じられる。
人間とは自分勝手な生き物だ。会話はしたくないが、沈黙も気まずい。
私は何かラジオでも掛けてくれないかと内心思っていた。
そんな心境を悟ったのかどうか分からないが、運転手は突然ラジオのスイッチを入れた。
これで少しは気を紛らわせるかもしれないと、内心ホッとした。
『------○×町で女性の遺体が発見されました。犯人は近くに住む六十代の男性で……』
ラジオからは事件を伝えるニュースが流れている。
『続きまして、今日正午頃、△○町で起こった立て籠り爆破事件の続報です』
あ、この事件。私が帰るタイミングを失った事件だ。
『------この爆破による犠牲者は二十名にも上ると見られ、警察では犠牲者の身元確認を急ぐと共に、未だ瓦礫の下敷きとなっている救助者の救助に尽力しています。……続いてのニュースです……』
そう、犯人は立て籠った末、隠し持っていた爆薬に火を着けると、多くの人質を道連れに自害した。人質となっていた十数名はもちろん、事件を間近で見ようと見物していた野次馬や多くの報道関係者が巻き添えを被り、更にはビルのすぐ前の道路を走行していた車も飛散した建物の瓦礫被害を受けた。
私達クルー一同が誰一人として怪我をしなかったのは、正に不幸中の幸いだろう。
「ひどい事件……」
思わず口をついて出た。
「---そういえば」
私の独り言に反応した運転手が話し始める。しまったと内心思ったが、もう遅い。
「お客さん、こんな話を知っていますか?
死者の魂っていうのはね、死んだ場所に留まると言いますが、実はそうじゃない。人は死ぬと、思い入れのある場所や強い未練を残した場所に戻るそうです。そしてその場所をさ迷い続ける。未練や恨みを晴らすまでね……」
運転手は相変わらず笑顔を浮かべているが、口調はどこか冷たく、張り付いた笑顔に私は背中に冷たいものが流れるのを感じた。ぞっとして僅かに鳥肌が立つも、私は冷気のせいだと言い聞かせた。
「そうなんですか。なら、あの事件の犠牲者達は今もどこかをさ迷っているのかも知れませんね」
犠牲者の中には、私と同じ報道記者もいた。家族を持つ者も大勢居ただろう……。犠牲者達の無念を思うと、心は重りがのし掛かったように重く、ズキッと痛みを感じた。
ほどなくしてタクシーは自宅マンションの入り口で停車し、私は運賃を支払って運転手に礼を言った。
時刻は深夜一時になろうとしている。さすがに夫と息子は既に寝ているだろう。エレベーターを降りた私は玄関の鍵をそっと回し、家族を起こさないよう静かにドアを開けると、忍び足でリビングへ向かった。
すると、リビング入口の扉は半開きになっており、そこから明かりが漏れている。
まさか息子が起きていて、私の帰りを待っているのか?いや、そんなはずはない。きっと夫が起きているのだろう。
私はそっとリビングの扉を押し開き中へ入る。起きていたのはやはり夫だった。
「……遅くなってごめんなさい」
開口一番、謝罪した私に夫は何も言わず、深刻な表情で俯きソファに腰掛けている。その表情はどこか悲しそうにも見えた。
ダイニングテーブルに目をやると、そこにはバースデーケーキと豪華な食事が用意されていた。しかし、どれも丁寧にラップが掛けられ、全く手が着けられていなかった。
私の心は途端に罪悪感で一杯になり、家族揃って今日という日を祝えなかったことを深く反省した。
ケーキに書かれた『アキラ6さい、おめでとう』の文字を見つめ押し黙っていた私に、夫は静かに言った。
「……なんで帰ってきてくれなかったんだ。アキラ、ずっと待ってたんだぞ。母さんと一緒に食べるからって大好きなケーキも我慢して……」
その口調はとても静かで、どこか悲しげで、心なしか声が震えている。私は責められても仕方がなかった。
「ごめんなさい……どうしても帰れなくて……」
言い訳だ。そんな事は自分で分かっていたし、まだ幼いアキラには大人の事情など関係なかった。
「俺、今日のことアキラに何て説明したらいいんだ……」
夫はそう言って顔を両手で覆い隠し、そのまま黙ってしまった。
私は返す言葉が見つからない。
やがて夫は無言で立ち上がると、そのまま部屋を出て行ってしまった。
しんっと静まり返るリビング。手が付けられていない料理の数々。息子の名前が書かれたバースデーケーキに、無言で部屋を出ていく夫。
本来ならあったはずの笑顔がそこにはなく、あるのは行き場を失った家族の偶像だけだった。
夫はきっと料理をしながら、家族三人で過ごす笑顔の絶えない時間を想像しただろう。
息子はきっと、ローソクの火を吹き消すことや、私とケーキを食べる場面を想像しただろう。
私は胸がぎゅぅっと締め付けられ、無性に涙が溢れた。
私は泣いた。声を殺して泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けた。
止めどなくこぼれ落ちる涙と一緒に、私の罪悪感も流れてしまえばいいのに。だけど、そんな事は許されないし、誕生日を台無しにされた息子の悲しみはもっと純粋で深いはずだ。
「……ごめんね、一緒にケーキ食べれなくて……」
涙が止まった頃には、既に空が白み始めていた。
『おはようございます!○月×日、今日は昨晩の雨も止み、気持ちの良いお天気です』
テレビの中の女子アナが元気に挨拶をする。時刻は午前五時丁度。
白み始めた空には朝陽が昇り、陰鬱としていた部屋に光が差し込む。
今日も仕事なのに、会社へ行かなければいけないのに、泣き腫らした目には鈍痛を感じ、体は重くて立ち上がる気力さえ沸いてこない。
ほどなくして夫が起きてきた。
「……おはよう」
私は小さく挨拶をしたが、夫は無言でキッチンに立つと深くため息をつくだけで、挨拶が帰ってくることはなかった。
私は自分が今ここにいることが急に心苦しくなった。挨拶をしてしまった事でさえお門違いに思えた。
夫も昨晩は眠れなかったようだ。目の下に深く刻まれた隈がそれを物語っていた。
しばらくすると寝ぼけ眼で息子が起きてきた。
会いたかった息子の顔を見た途端、嬉しくなって思わず笑みがこぼれたが、自分のしてしまった罪にはっとした。
息子は驚いた様子でポカンと口を開け、私を無言で見つめている。
(何て謝ればいいのかしら‥‥何て言えばいいのかしら……)
思考を巡らせ、掛ける言葉を私は模索していた。
普段、息子には悪いことをしたらごめんなさいと謝らなければいけないと教育している。
にも拘わらず、親がしなくては示しがつかない。
私はまず、昨日の事を謝ることにした。
「昨日は……」
言葉を発した直後、息子は無言で私を指差すと信じられないことを口にした。
「お父さん!お母さんだよ、お母さんがテレビに映ってる!」
テレビ?何を言っているの?私がテレビに?芸能人じゃあるまいし、そんなハズない。寝惚けているのだろうか。
疑いながらも息子が指差す先に興味を引かれ、振り向いた私は驚愕した。
テレビには間違いなく私が映っていた。それも会社で撮影した個人ID用の写真だ。
もっと驚いたのは、名前の上に「死亡」と書かれていたことだ。
(死亡?、私が……?)
息子には私の姿が見えていないようで、指差していたのは私ではなく後ろのテレビ画面だった。
テレビからは昨日の「立て籠り爆破事件」を伝えるニュースが流れ、私は死亡者として報道されていた。
「ねぇお父さん、お母さんは?」
息子のその言葉に夫の表情は悲しげに歪むと、きゅっと結ばれた唇は震え、涙を堪えている様子だった。
夫はしゃがんで息子をそっと抱き締めたかと思うと腕の力を強め、ぎゅっと抱き締めた。
「お父さん痛いよ。ねぇ、お母さんは?」
「ごめんな……ごめんな……」
そう言った夫の目はぎゅっと閉じられていたが、溜まった涙が溢れ落ち、すっと頬を伝った。
夫の様子に何かを感じ取ったであろう息子の声も震え始めていた。
「ねぇ、お母さんはどこ行ったの?ねぇお父さん!おとうさん……!ねぇってばぁ……‼」
「ごめんな、母さん、もう帰ってこないんだ。母さん、天国に行っちゃったんだ」
夫のその言葉に私の記憶はフラッシュバックする。
事件の起きた現場が職場から近いこともあり、私達クルーは警察や他の報道マンよりもいち早く現場に駆け付けていた。止せばいいのに、私は制止するクルーを振りきり、単独で建物の中に入って行ったのだ。
報道マンとしての強い好奇心、真実を伝えたいという正義感が私をそうさせた。
そういえば、いつだったか息子が私にこんな事を言ったことがある。
『大人になったらお母さんみたいな正義のヒーローになる』
正義のヒーロー。そう言われれば聞こえは良いが、実際の記者というのはそれ程キレイなものでもなかった。必ずしも真実を暴くことが正義とは限らない。真実を暴くことで不幸になる人もいるのだから。
しかし、私はそんな息子の気持ちを踏みにじりたくなかったし、息子の憧れる正義のヒーローを貫き通したかったのだ。
建物に入った私は非常階段を使ってビルを昇り、非常口からこっそりと中の様子を伺った。
中では人質十六名が部屋の隅に一ヶ所に集められ、興奮した犯人は窓から観衆に向かって、意味不明の言葉を叫んでいる。
精神に異常をきたしていることは、誰の目から見ても明らかだった。
絶好の場所を陣取った私は犯人の声を録音し、一部始終を伝えようとハンディカムで撮影し続けた。
どのくらいの時間が過ぎたのだろう。恐怖と緊張で凍りついていた人質達の顔には疲労の色が伺える。
犯人は部屋の中をあちこち歩き回ったり、同じ場所を行ったり来たりと落ち着きがなく、ぶつぶつと何やら呪文の様な言葉を唱えている。
ビルの外には、テレビ局のものだろうか。ヘリが騒がしく飛び回り、駆け付けた警官達が拡声器を使って犯人の説得に当たっていた。しかし、そんな説得など無意味だ。犯人を間近で見ている私にはそれがはっきりと分かった。
それまでウロウロ、ぶつぶつしていた犯人が急に思い立ったように服を脱ぎ始めると、腹部に巻かれたダイナマイトが姿を現した。
部屋の中が悲鳴で一杯になった直後、犯人は躊躇することなくダイナマイトに火を付けた。
私の意識はそこで途切れる。
この時、あの場所にいた私は爆発に巻き込まれ死んだのだ。犯人、多くの人質と共に。
死んだハズの私がなぜこの場所に居るのか。タクシー運転手の言葉を思い出すと、その理由は明白だった。
この日、私はなんとしても帰りたかった。帰って息子の誕生日を祝いたかった。息子におめでとうを言ってプレゼントを渡し、家族でケーキを食べたかった。
家族の元へ還る。それが死者となった私に残されていた未練であり、家族は私の思い入れが最も強い場所だった。
渡すハズだったプレゼントはどこかで失くしてしまった。
もう一緒にケーキを食べることは出来ない。
だけど最期に一目、息子と夫に会えたことで私は救われた。
息子はこんな母親でも、帰ってくるのを待っていてくれた。夫には随分と苦労を掛けてしまったが、家族を大切に思い、いつでも私を迎えてくれた。
家族の思いを知った私は、心に巣食っていた罪悪感がすっと無くなり、私が死んだ今も還る場所は確かにここにあったと思うと、私の目からは再び大粒の涙が溢れ落ち、いつでも待っていてくれた家族に深く感謝した。
「ただいま、遅くなってごめんね」
『おはようございます!○月×日、今日も気持ちの良い朝ですね!』
いつもの女子アナの元気に挨拶する声がテレビから聞こえた。
『まず、最初のニュースです。先月、都内で発生した立て籠り爆破事件に関する新たな情報です------』
テレビからは事件の続報を伝えるニュースが流れ、同時にある映像が再生された。
その映像には事件で人質となった人々が恐怖に怯える姿や、立て籠る犯人の様子が鮮明に録画されていた。
犯人の間近で撮影されたと思われるその映像は、視聴者に大きな衝撃を与えると共に、犠牲者の身元確認や捜索に大いに尽力した。
また、家族の最期を看取る事が出来て良かったと、撮影した記者に涙ながらに感謝を伝える遺族も大勢おり、記者の勇気ある行動と職務を全うした責任感を多くの人々が称賛した。
後に判明したことだが、この時犯人は麻薬を接種しており、異常とも思える言動は禁断症状によるものだった。
犯人の様子は国境を越えて世界中に配信され、改めて麻薬の恐ろしさも痛感させた。
------桜芽吹く季節。
参道にはたくさんの桜が立ち並び、気候も暖かく、柔らかな風が全身を撫でる。
新たなスタートを切るにはうってつけの日だろう。
僕は今日、念願だったとある出版社の入社式に出席していた。
あの事件から長い月日を経て、僕は多くの事を学んだ。幾らか歳を重ねて、必ずしも真実が正義でないことも知った。
だけど、信念を曲げるつもりはない。いつか立派な記者になって、真実を世界に配信し続ける。そして、結婚して僕にも子供が出来たとき、その子に恥じないような正義のヒーローになってみせる。
信念と正義を貫いた母のように……。