2 宋異人さんの屋敷
「これはこれは夏樹様。お久しぶりでございます」
「こちらこそご無沙汰しちゃって」
厳つい笑顔で俺たちに挨拶をしてくれるのは、屋敷の主の宋異人さんだ。元は中央アジアのクチャの出身で、小柄な30才くらいの男性だ。
さっそく中へと案内されると、使用人たちが左手で右の拳を包み頭を下げて出迎えてくれた。抱挙礼ともいわれる「拝」という挨拶だ。
「奥様もお元気そうで何よりです」
「宋異人さんのご家族もお元気ですか」
「あはは。相変わらずですよ。今日明日は所用で留守にしておりまして、きっと後でお2人が見えたことを知ったら残念がったに違いありません」
こうして丁寧に扱ってくれるのには理由がある。
宋異人さんはとあるシルクロード貿易商の東側窓口になっている。その貿易商の初代会長はフィリラウスさんといい、俺と春香は彼と貿易路の開拓に協力をしたのだ。
もちろん、開拓したのは500年以上昔のことだから、俺たちを貿易路を開拓した一族の末裔、代々の顧客の一族だと思っていることだろう。
「そういえば、この前の助言のように、今は豊邑にも拠点を出す準備をしています。決まりましたらご連絡しますよ」
「ああ! 絶対にその方がいいですよ。あそこは西方貿易路の2つのルートを押さえることができる。そのまま東にある商への貿易中継点として絶好の位置にありますよ」
前に来たときに、豊邑にも商会の拠点を作った方がいいと言ったのだ。
その理由は、豊邑が後の長安だという歴史的なものだけではない。
地理的に見てもシルクロード北方ルート、草原ルートが合流するターミナルでもあり、ここのような山地ではなく平野部、黄河流域であることも含めて中国全域へのアクセスの視点からも、極めて重要な場所といえるからだ。
今は崇侯虎という人が治める土地だが、のちに周が都とする場所だ。
「この場所も先代からの思い入れのある土地ですので、この屋敷も維持しておこうと考えています。……ほら、前にも仰っていたでしょう?」
「リスクの分散ですね。こちらの打てる手段を複数にしておくのは確かに重要ですが、コストとの天秤はどうです?」
思い入れも大事だが、要はコストの問題だ。あとは商品力と顧客の……。
そんなことを考えていると急に袖をくいっと引っ張られた。我に返って振り向くと、春香がむすっとして見ていた。
「ちょっと……」
しまった。どうやらビジネスの話に熱中しだしたのがお気に召さなかったらしい。
「ああ、わるい。宋異人さん、先に注文をよろしいですか」
宋異人さんも苦笑しながら、
「いえいえ。奥様。申しわけありません。ついつい、商売人の性が出てしまいまして……。今回はどのような品をご所望ですか?」
こういう事業の話に熱中しそうになるのは、男の悪い癖かもしれない。今日は買い物に来ただけだったはずだしね。
「まあ、いいわ。ええっと……」
春香が必要な品を告げるのを、宋異人さんはメモもとらずに聞き、たまに控えている使用人から何かを指示していた。
俺たちが買い付けに来たのは、山中では手に入らないような食料品だ。
もっともこれも神力を使えばどうにでもなるんだが、社会との繋がりを断ってしまうのは修行にならないし、様々な情報を得ることも目的となっているってわけだ。
「そうですな。甜菜とチーズは少し在庫を確認させますが、あとはすぐにご用意できます。それと、お酒ですが、じつは新しいお酒を入手しましてね。……すこし味見などいかがです?」
そう言って笑いながら盃をかたむける振りをする宋異人さん。あの表情は、きっと宴会をしたいのだろう。
俺は構わないが、春香は……。
そう思って振り向いたが、どうやら春香も新しいお酒と聞いて興味があるようだ。
「いいですね~」
と期待に目を輝かせている。それなら断る理由はないな。
「それでは……」と言うと、
「宴会ですな!」
どうやらひそかに準備が進められていたようで、他愛もない話の後で、すぐに別棟に通じる回廊に案内をされた。
回廊から中庭を眺めると、生い茂った木々の間に小さいながらも池があり、真夏の強い日差しを受けてキラキラと輝いていた。
そばには四阿があり、あそこで休憩すると気持ちよさそうだ。
前を歩いていた宋異人さんが急に振り向いて、
「おお、そうそう。外に宿などとってませんでしょうな? 今日は是非こちらにお泊まりください」
これもいつものことなので世話になることにしている。
「いつもすみません」
「なんのなんの。お2人に会わせたい者もおりますのでね」
宋異人さんが会わせたいと言うとは……、タイミング的にみて、こちらの屋敷の支配人になる人なのかもしれない。
これからもお世話になるだろうから、きちんと挨拶をしておかないといけないだろう。
回廊の先に別棟が見えてきた。その入り口の前で若い一人の男性が出迎えてくれていた。
「もしかして彼ですか?」と尋ねると、宋異人さんがうなずいた。
……驚いた。
まだ10代半ば、中学生くらいに見える。男性というより男の子と呼ぶような年齢じゃないか。店を任せるには若すぎるような気がするが、はたしてどうなんだろう。
宋異人さんは、抱挙礼をしている男の子のそばに回り込み、
「夏樹さま、春香さま。こちらがいずれ、こちらの屋敷を任せることになる子牙です。姜族の者で氏は呂。まだ14才という若さですが、なかなかの切れ者でして。……子牙よ。こちらが前に話した夏樹さまと春香さまのご夫婦だ」
「はい。旦那様。……夏樹さま。春香さま。お初にお目にかかります。姜族は呂の子牙と申します。御用の際はいつでもお申し付け下さい」
姜族の子牙。姜子牙……。
はて? どこかで聞き覚えがある名前だ。
確か……、太公望呂尚の名前じゃなかったか?
驚きを顔に出さないようにしながら、その若人の目をじっと見つめる。
彼の行く末を知っているからか、その目に不思議な力を感じるような気がする。どこか利発そうな様子に好印象を覚える。
歴史の通りならば、彼の将来は周の文武二王に仕えた名軍師だ。まさかこんなところで出逢えるとは……。不思議な縁に導かれたというべきなのかもしれない。
それはともかく、これから彼にお世話になるのだから、きちんと挨拶をしておこう。
「子牙くん。こちらの商会にはよくお世話になっているので、よろしく」
と言うと、彼は再び一礼してくれた。
部屋の中に入ると4つの席が用意されていた。案内を受けて俺と春香が並んで座り、その向かいに宋異人さんと子牙くんが座る。
宋異人さんは早速、給仕の女性に指示を出してから、
「新しいお酒というのは、南方から入手した酒でしてね」
南方? ここから南方というと長江の周辺だろうか。宋異人さんは手が広いから……。
「少し癖があるかもしれませんが、香りがよい黄酒ですよ」
ほほう。俺も春香も新しいもの好きな性格だから、旅先の珍しいお酒などにはよく挑戦する。否応なく期待が高まるというものだ。いったいどういうお酒なのだろう。
使用人が壺を持って来て、俺たちの前に置いた。そして、蓋を開けるとお酒を柄杓ですくって、少し深めの盃に注ぐ。
どこかで見たことがあるような深い琥珀色のお酒。
あれはまさか……。
視線を感じて隣の春香を見ると、彼女も何かを言いたげにしている。
さすがに500年以上を一緒に暮らしていると、こういう時に春香が何を言いたいかくらいは想像がつく。
――ね、夏樹。あれってもしかして紹興酒じゃない?
俺は黙って春香の目を見ながら小さくうなずく。
――俺もそうかなって思った。
春香が言葉にしないのは、宋異人さんに悪いからだ。折角、自信満々に用意してくれたお酒だから、まさか知ってますとはいえない。折角の酒宴なんだから、素直に楽しむのが吉ってところだろう。
盃が行き渡ったところで、宋異人さんが、
「では乾杯! 随意!」
俺たちも盃を掲げ、お酒を口にした。
まろやかなコクの奥に独特の酸味がある。……微妙に記憶にある紹興酒の味とは違う。でも、少なくとも同じ系統に当たるお酒ということはわかる。
再びチラリと俺を見る春香に、わずかに首をかしげて見せる。きっとこれで「ん? ちょっと違うかな」という意図が伝わったと思う。
紹興酒とは違うとしても、これはこれで美味しいお酒だ。
「香りもよく、色も美しく、そして味も深みがあっておいしいですね」
宋異人さんはニカッと破顔して、
「そうでしょう! まだあまり知られてはいませんが、名酒と呼ばれるのは間違いないですよ」
とうれしそうに言った。
春香もニッコリ微笑んで、
「このままでも美味しいですが、少し温めると香りがもっとふくよかになると思います。もしアレンジされるのであれば、生姜を少し刻んで入れたり、ジャスミンティーと混ぜるのもよさそうですね」
とアドバイスする。
うん。たしかにこの味なら、紹興酒の飲み方で応用が利くだろう。宋異人さんもなるほどという表情で聞いている。
「なるほど。奥様のアドバイスも参考になります。お礼として、もしよろしければ一壺を差し上げましょう」
それで美味しい飲み方を見つけたら教えて欲しいというわけだな。……でも、この紹興酒もどきのお酒があれば、料理のレパートリーにも幅が出る。
俺と春香はほくほく顔でお礼を言った。
宴がはじまり、運ばれてきた野菜と羊肉の料理に舌鼓をうちながら、次第に酔いも回って口もなめらかになる。
子牙くんがやや芝居がかった振りをして俺に質問をした。
「ここは隴中。西方貿易路の要所にして風の作った天地。北には遊牧民たる我が姜の部族があり、周の東には農耕民たる強大な商の国があります。……未熟な私がこの店を承継するには何に気をつけるべきでしょうか」
はて? 客とはいえ本来は、俺は部外者なんだが……。
見ると宋異人さんも、戸惑った表情を浮かべている。
もしかして俺を試しているのだろうか。まあ、これも飲みにけーしょんの一つって奴か。考えた末に俺は一つアドバイスをすることにした。
「柔よく剛を制す。これをよく覚えておくといいんじゃないかな」
「……柔よく剛を?」
「制す、だよ。柔らかいものは固いものを搦みつけて押さえつけることができる。要点は……、人というものをよく知るということだ」
「人を知る……。なるほど」
どこか納得した様子の子牙くんに、さらに言葉を続ける。
「この大地に生きる人々は、性格も境遇も、その素質もそれぞれ違う。倫理観も進退の判断も異なるだろう。
自分の中の基準を基準とせず。その者を正面から見る。その欲するところを知ることだ。そうすれば、いかなる剛の者であろうと、その者をよく知ることで治めることができるだろう」
俺の言葉に子牙くんだけでなく、その隣の宋異人さんもじっと考え込んでしまった。
ちょっと気まずくなったところで、不意に子牙くんが立ち上がり、床に膝をついて頭を垂れた。
「師と拝させてください。御訓導ありがとうございます」
俺はあわてて、
「い、いや。そんな大したことじゃないから席に戻って」
子牙くんは、「はい」と言って一礼すると、再び席に戻った。
春香が苦笑しながら、
「まったく男の人はそういう話題ばっかり好きよねぇ」
と言いながら、呆れたように俺を見た。
「悪い悪い。もっと風流な話の方がよかったかな。ははは」
笑って誤魔化すが、春香がじとっと見ている。いや、だってさ。質問してきたのは子牙くんだぞ?
宋異人さんが気をつかって、
「そ、そういえば夏樹様と春香様はどこでどのように出逢われたのですか?」
ときいてきた。
すると春香がニコッと微笑んで、
「幼なじみなんですよ」
と答えると、宋異人さんが、
「ははぁ。そうでしたか。道理で……」
と失言した。すかさず春香が、
「道理で?」と言うと、宋異人さんはあわてて、
「あ、いいえ。その。お2人が年齢の割にまるで熟年の夫婦のようにも見えたものですから」
なるほど。俺たちの姿は大学生のころのままにしてあるから、確かに若い夫婦に見えるもんな。
これには春香も機嫌をなおしたようで微笑んでいた。
さてさて、それでもちょっと春香の御機嫌が怪しいので、恥ずかしいけれど……。
「失礼。どうやら今宵は良いお酒を飲み過ぎたようだ。酔いに任せて一つ詩を披露しましょうか」
と俺が申し出ると、宋異人さんと子牙くんが「おお。是非に」と言う。
やっぱり中国で宴席といえば漢詩や歌が似合う。このようなこじんまりした席だし、あの詩を披露しようじゃないか。
コホンとせき払いをし、朗々と歌うようにゆっくりと俺は詩を詠んだ。
「雲には衣裳を想い 花には容を想う
春風檻を払って 露華 濃やかなり
若し群玉 山頭にて見るに非ずんば
会ずや 瑤台月下に向て逢わん」
――雲がたなびくのを見ては、その女性が着ている衣を想う。咲いている花を見れば、そこにその女性のお顔を想う。
その美しさはまるで、春の風が花の垣根を払ってそよぎ、花の露が美しく輝いているようだ。
これほどの美人は、伝説の西王母の山で見かけるのでなければ、きっと女神の宮殿にて、月の下で出逢えるような女性でないだろうか。
この上もない惚気た漢詩なんだが、春香に対する、誰におもねるでもない素直な気持ちでもある。
実はこれは李白の漢詩だったりする。かつて『唐詩選』を読んだときに、春香のことみたいだなと思って、この詩だけは憶えていたんだよね。
「……うん?」
俺が一人で余韻に浸っていると、先ほどとはまた別の妙な沈黙がただよっているのに気がついた。
あわてて見回すと……。春香は頬を染めて俺を見つめている。宋異人さんと子牙くんは居心地悪そうにむずむずとしていた。
春香がコホンとわざとらしく咳払いをして、
「な、なかなか良い詩だね。春風か……。うんうん」
と言う。
宋異人さんが砂糖を吐きそうな顔をしながら、
「なんといいますか……、その。ぶっちゃけ、自分の家でやれといいますか」
と口をもごもごとさせていた。
子牙くんは聞こえないような小さな声で、「バカップルだ。鳥肌カップルだ……」と延々とつぶやいている。
おかしいな。やりすぎたか?
なんだか釈然としないが、春香はうれしそうな様子だし、まあいいや。




