2-15 ダイダロスとオイディプス
ちょっと足踏み回……、かもしれませぬ。このエピソード書くだけで10日以上かかってしまった。スランプなのかな?
鳥のさえずる声で目を覚ますと、一緒の毛布にくるまっている夏樹がまだ寝息を立てていた。
私だけが知っているこの寝顔。小さい頃からちっとも変わらない。そう思うと無性に愛おしくなってくる。……きっと夏樹にとっての私の寝顔もそうなんだろうとは思うけど。
くすりと笑って夏樹の額にそっと触れるように口づけをして、起こさないように静かに毛布から抜け出した。
朝の空気の中に全身をひたらせると、新鮮な空気が体の中に沈殿した嫌な感情をきれいに浄化していくような気がする。久しぶりにさわやかな気持ちで空を見上げると、綺麗に晴れ渡った空が広がっていた。
うん。きっと上手くいくわ!
根拠もないけれど、不思議な希望が胸の奥から湧いてくる。それに……、そもそも上手くいかせるのよ。私たちの手で。
「よおし!」
朝日を見て気合いを入れて朝食の準備をすることにした。
フライパンを熱してベーコンエッグを作っていると後ろからごそごそと音が聞こえた。ふふふ。目が覚めたのね。
振り向くと、「おはよう」と夏樹が毛布のすき間から顔を出してこっちを見ていた。
お! いつもしゃきっと目を覚ます夏樹が、これまたレアな寝ぼけ顔をしている!
なんだか妙にテンションが上がるわね。
思わず微笑みながら「おはよう」と言って再びフライパンに神経をしていると、ゆっくりと夏樹が近づいてきたのがわかった。
そばに立った夏樹が身をかがめて、後ろから私を抱きしめる。
「くすっ。……朝は甘えんぼよね」
と言いながら、顔だけを後ろに向け軽く唇と唇と触れあうようなキスをする。
「やっぱさ。起きたときに腕の中にいないと落ち着かなくなるな」
と耳元でささやいてくる。
「私だってそうよ。……だから、今度から朝は先に目が覚めた方が相手を起こすようにしようよ」
とフライパンを火から外す。ちょっと焦げちゃったかも。
それから私たちは朝食を終えて、キャンプ地を元のように綺麗にしてから、再びイラクレオンを目指して出発した。
――――。
街道を通って丘を一つ越えると、大きな街の姿が見えてきた。
島の丘陵に沿って白い漆喰の建物がひしめき合っていて、まるで木々の緑と地面の茶色のキャンパスの一角を白い色で塗りつぶしたように見える。
まだ朝だというのに港には大小さまざまな船が出たり入ったりしているようだ。
街の中に入った私たちは馬を引きながら歩き、ダイダロスさんの工房の場所を尋ねた。
アテナイ以上に多くの人々が集まっていて、夏樹が興味深そうにじろじろと見ては一人うなづいている。
マリアの街も色んな服装の人々がいたけれど、イラクレオンはそれにも増して多国籍情緒というか異国情緒あふれるとでも言おうか、さまざまな文化が集まっていて賑やかだ。
なにやら交渉しているらしい声に、どこかで聴いたことのあるような楽器の音。篭に入った極彩色の鳥や、丸めたカラフルな織物を載せた馬車。なかには堂々と乳房を出した女性が当たり前のように歩いていたりして、私のほうがドギマギしてしまった。
幸いに、ほどなくダイダロスさんの工房の場所がわかり、私たちは教えてもらった路地を進んだ。
しばらくほこりっぽい路地を進むと、やがて周りの建物の屋根越しに煙が見えてきた。きっとここの一帯が工房の集まる地域なのだろう。
やがて夏樹がぴたっと足を止める。
その視線の先には、ハンマーの看板に見たことのない文字が書かれている工房があった。
そういえば、この時代に来てから初めて文字を見たかも。まったく見覚えのない文字だけど不思議と読める。変な感じだけれど、会話に苦労しないのと一緒でこれも神様になったからだろうね。
……あ、もしかしてと夏樹の様子をうかがうと、案の定、夏樹はワナワナと震えながら猛烈に興奮していた。
「おお! せ、線文字Aが読める?」
夏樹の方が先に霊水の力で神格を得ていたはずなんだけどね。でも、こういうところが可愛いのよ。
そう微笑ましく思いながら、私は夏樹の背中を押して「ダイダロスの工房」と書いてある看板の家に入った。
夏樹が、
「失礼! ダイダロス殿はいらっしゃるか」
と大きな声を挙げると、奥の方でカンカンと規則正しく響いていた音が止まり、一人の男性がやってきた。
まさに鍛冶職人という様子で、浅黒い肌に熱で縮れた髪。まだ30代ほどに見えるけれど、たくましい体つきをして鋭い目つきをしている。
「私はイカロス。あなたたちは?」
その名前を聞いて今さらながらに私は驚いた。……そっか。そういえばダイダロスさんの息子ってイカロスだったわね。
太陽に近すぎて翼が溶けて墜落してしまった伝説の人。まあ現実ではないでしょうけどね。
夏樹が懐からカトレウス王の印章を取り出した。
「私は夏樹。こっちは妻の春香。これを……。カトレウス王の使いで来ました」
と告げると、イカロスさんは目を丸くして印章を見た後、
「父は今、鍛冶の最中です。少しお待ち下さい」
と私たちを家の中へと案内してくれた。
通された部屋でしばらく待っていると、イカロスさんとそっくりな白髪の男性がやってきた。60歳ほどだろうか。顎髭を綺麗に整えていて眼光の鋭さはイカロスさんの数倍上だ。長年、鍛冶一筋で生きてきた職人特有の覇気を身に付けている。
しかし、夏樹はそれに怖じることなく、いつもの自然体で挨拶を交わす。
「わしがダイダロスだ」
「私は夏樹。こちらは妻の春香。これを……」
ダイダロスさんはカトレウス王の印章をしげしげと見つめてうなずくと、
「確かにカトレウス王の印章。それも特別な……」
と言いながら印章を夏樹に返した。
ダイダロスさんは夏樹を見つめ、
「そして、お主も相当な人生をくぐってきておるな? でなければ、その年でその落ち着きはそなわるまい」
それに夏樹は黙って微笑みながらうなづく。
ダイダロスさんはイカロスさんに「例の石版を持ってこい」と命令した。
イカロスさんがいなくなり三人になったところで、ダイダロスさんは、
「とうとう、この時が来たか……」とつぶやいて、私たちの方を向き、
「あの宮殿は複雑だ。だが、進入経路はそれほど多いわけでない」
と秘密を打ち明ける。
私には状況がまだよくわかっていないんだけれど、ダイダロスさんは前からのカトレウス王の仲間ってことでいいのかな? 侵入経路ってことは作戦のことも聞き知っているような気がするけど……。
確認した方がいいのか迷っていると、ダイダロスさんが私を見て、
「どうした?」ときいてきた。
夏樹も私をじっと見つめる。う~ん。女の私が言っちゃっていいのか心配だけど……。
私はおそるおそる、ダイダロスさんの目を見ながら、
「ダイダロスさん。あなたはミノス王に恩があるのでは? なぜこの反乱に協力するんです?」
と尋ねると、ダイダロスさんは物憂げな表情を浮かべた。
「あんたも旦那によく似ているな。……息子を亡くしてからミノス王は変わってしまったんだ。今、あの王を止めなくては、より多くの血が流れるだろう。……儂は思うんじゃ。あの優しい昔のミノス王は今の自分を哀しんでいると。自分を止めて欲しいと思っているとな」
ふとダイダロスさんの肩が細かく震えているのに気がついた。そっと様子をうかがうと強く握りしめた拳が白くなっていた。……この人も相当辛いんだろう。
ダイダロスさんはがばっと顔を上げて、夏樹を見た。
「それに、生け贄の一人はフィリラウスさんのところのアリアドネ嬢なんだろう?」
夏樹はうなづいて、
「アリアをご存じですか?」と尋ねると、フィリラウスさんは遠くを見るような目をして、
「ああ。儂がアテナイを追放になったとき、ここまで連れて行ってくれたのがフィリラウスさんでな。あの頃はこんなにちっちゃかったがね」
ダイダロスさんはそういって腰高に手をかざした。
あの高さだと3、4歳くらいかな。それにそれだけダイダロスさんとフィリラウスさんとの付き合いは古いってことになる。……きっとアリアのことも心配しているに違いない。
なるほど。ダイダロスさんにはダイダロスさんの戦うべき理由があるってことね。
夏樹がダイダロスさんに、
「アリアは俺と春香で必ず救出しますから、任せてください」
としっかりと約束する。
ダイダロスさんは、私たちをじっと見つめていたが、
「頼むぞ。……それと現在の作戦の詳しい内容を教えてくれ」
と尋ねてきた。
夏樹がダイダロスさん、そして、話の途中で戻ってきたイカロスさんに作戦の概要を説明している。
ところどころで、イカロスさんの持ってきた石版に描かれた宮殿の地図を見ながら、詳しい情報をダイダロスさんから引きだしている。
時たまダイダロスさんの方が夏樹の知識に驚く時もあったが、それも考古学者だった夏樹ならではのこと。
二人の真剣なやり取りはまさに男の世界で、私が入り込める余地はない。
私は私のやるべきこと、夏樹と一緒にアリアを救出する。ただそれだけを考えよう。
途中で夏樹が思い出したように、
「そういえば、ダイダロスさんはラビュリントスという名前に心当たりは?」
とたずねる。
ダイダロスさんは「ラビュリントス?」とつぶやいたままで、何かを思い出そうと黙り込んだ。
やがて「いいや。知らぬな」と首を横に振った。
ダイダロスさんが知らないとなると、やはりクノッソス宮殿のことを後代の人がそう呼んだのかもしれないわね。
そう思いながら夏樹を見ると、物憂げな表情を浮かべていた。……夏樹は別のことを考えているのかもしれない。
激論というわけではないけれど、一通りの説明を終えた私たちは工房から失礼することにした。ダイダロスさんが泊まって行けとは言ってくれたものの、できればイラクレオンからクノッソスまでの様子や宮殿の下見をしておきたい。
来たときと同じように、私たちは馬を引きながら工房を後にした。
――――。
少し街をぶらついてから夕食と宿を求めて居酒屋に入る。
ここの居酒屋は女性が取り仕切っていて、早速、一室お願いしてから食堂のテーブルに座った。
いくつかのランプがついているけれど、店内は思った以上に暗い。食事をしている人も5人ほどで、ちょっと寂しいわね。
街では他国の人々も多く見かけたのだけど、どうやらそれぞれ縁故の所に泊まっているらしい。……つまり、こういう宿を利用するのはほとんどが流れの旅人ということになるかな?
出された食事はカボチャとタマネギの煮物と、まるでダイエットのオートミールみたいな穀物のスープ。さすがにこれだけだと足りないわね。
「女将さん。ちょっと……」と女将さんに来てもらい、
「これで何か一品を作ってください。余った分は、女将さんたちと他のお客さんでわけてください」
と、亜空間倉庫から取り出した豚肉を渡す。
お肉を見た女将さんの顔が輝き、
「おおっと。いいの?」
といいながら、ほくほく顔で厨房に戻っていった。
厨房から小さな歓声が上がったのを聞いて、思わず微笑む。
正面の夏樹が苦笑いしながら見ている。
「な、なに?」
「なかなかいい方法だな」
急に褒められたけど、何のことかな?
その時、厨房から女将さんがコップを二つ持ってきた。
「はいよ。これはサービスだよ」
女将さんがくれたコップにはどこかで見たことがあるような黄金色のお酒が……。
困惑していると、女将さんがウインクして、
「入荷したばかりのお酒さ。びっくりするから飲んでごらん」
「は、はい」と言いながら、おそるおそる土器に口をつける。ちょっと苦みと酸味があって、これは!
「び、ビール?」と思わず声が漏れた。
女将さんが、まるでいたずらが成功したような楽しそうな表情で、
「うまいだろ? このシュワッとした感じが」
と言って、「じゃあ、すぐに料理も持ってくるからね」と厨房へ戻っていった。
目を丸くしながらコップを見ていると、夏樹が興味深そうにビールを飲み、
「これは驚いたな。交易品だろうけど。……そうか。そういえばメソポタミアの方ではもうビールができていたっけか」
もちろん、私たちの知っているビールとは違って炭酸に切れがあるわけでなく、雑味も混じっている。それでもこれはビールに間違いない。
ふと夏樹と目が合うと、夏樹はウインクして「な! いい方法だったろ?」と楽しそうにコップを傾けた。
あ、さっき言ってたのはそういうことか。お肉のお礼ってことよね。
古代のビールは一風変わった味がするけれど、それがまたこのお店に合うなって思う。
しばらくして厨房の方から肉を焼くいい匂いが漂ってきた。店内のお客さんも、その匂いが気になるようで、ちらちらと私たちの方を見る。
女将さんが肉を載せた皿を持ってきて、真っ先に私たちのテーブルに料理を持ってくると、振り向いて、
「お~い。みんな。こちらのお客さんから、みんなにもおすそ分けだよ」
と言うと、厨房から二人の女性が現れて、お客さんの所ヘ料理を配り始めた。
一人の男性が、
「いただくぜ。ありがとうよ」
と私たちに言ったのを口切りに他のお客さんも夏樹にお礼を言う。夏樹が苦笑しながらその都度片手を軽く上げて返礼した。
その様子をニコニコしながら見ていると、客席の奥から二人のお客さんがゆっくりと歩いてくるのが見えた。
大きな杖をついている年配の男性に、それを支えるように寄り添う一人の女性。男性はどうやら目が見えないみたい。きっと親子なのだろう。
その二人が私たちのテーブルのそばに来ると、年配の男性が突然、床に座ろうとしはじめた。
あわてて夏樹がそれを止めてそばのイスに座らせると、男性はおずおずとしながら、
「ありがとうございます。若き二人の神よ」
と言い出した。
ぎょっとするが、幸いにしてその声は他のお客には届いていなかったみたいでホッとする。男性は、
「私はオイディプス。罰を蒙りこうして盲目の身となり、娘のアンティゴネとともに流浪しつづけております」
といい、
「本来ならば、私の方から供犠を差し出すべきところを恵みを下さるとは……。残念ながら、私には差し上げられるものは何もありませんので、何事かできることを申しつけください」
困惑しながらも夏樹を見ると、夏樹も困ったような表情で私を見ていた。見ると娘のアンティゴネさんも敬虔に頭をたれて、私たちが何かを言うのを待っているようだ。
特にそういうつもりでお肉を渡したわけじゃないんだけれどね……。でも何かを言わないと、きっと引き下がらなさそうな雰囲気だ。
夏樹が黙ったままなので、代わりにオイディプスさんに、
「特に気にしなくてもいいんだけれど、二つだけいい? 一つは私たちのことを他の人に言わないこと。もう一つは何か手助けが欲しくなった時にお願いするってことでどうかしら?」
というと、オイディプスさんはうなづいて、
「かしこまりました。それでは、私どもは来たるべき時にいるべき場所でお待ち申し上げます」
と言う。
……来たるべき時にいるべき場所? これもこの時代特有の言い回しなのかな?
立ち去るオイディプスさんとアンティゴネさんの姿を見送り、私たちは食事を続けた。




