3.B.C.E.614 王女が見た夢
ベッドの中で目が覚めると、すぐ前に眠り込んでいる夏樹がいた。
時間はいつも起きる頃よりも少し早いくらいだろうか。薄手の布団の中に籠もっている夏樹の匂いに包まれながら、ぼんやりと目の前の顔を見つめていた。
私たちが商人として活動しているのは、一人前の大人の男性ならばヒゲを生やしている地域。そのせいもあって今は夏樹もアゴヒゲがある。
もっともフサフサというわけでもない。ナイフで余分な箇所を剃ったりして形を整えているようで、どちらかといえば精悍な俳優さんみたいだ。
お陰でキスをされると少しくすぐったかったりして。……特に身体へのキスは、ね。
そっと指先で夏樹のヒゲを触る。髪よりも硬めの短い毛。初め見たときは新鮮だったけれど、今ではこのおヒゲの顔も見慣れてきた。
なんとなく目を覚ましそうな気がした時、ふといたずらを思いついた。えいっと腕を夏樹の頭に回して組み敷いて、上から唇を重ねる。
ビクリとした夏樹がパッと目を開けるのを無視して、ぎゅうぅぅと抱きしめていると、すぐに背中に夏樹の腕が回されてきて、お返しとばかりに強く抱きしめられた。
ぷはっと唇を離して、私を見上げている瞳をのぞき込むように「おはよう」と言うと、今度は夏樹の方から抱きつかれてキスをされ、あっという間にグルリと上下が入れ替わる。
さっきとは逆で、今度は組み敷かれている私。
上から夏樹が、
「おはよう」
と言うので、わざと挑発的に言った。
「ふふふ。目が覚めた?」
「こいつめ!」
途端に再びキスをしてくる夏樹に、笑いながら私も応じる。いちゃいちゃなキスを何度か繰り返してから、私たちはベッドからおりた。
ん~。今日も気分が良い。
伸びをしながら井戸へと向かう。
裏庭の扉の隙間から太陽の光が差し込んで、すぐそばの倉庫をぼんやりと照らしていた。既に見慣れた光景。エクバタナに住みはじめてから既に2年が過ぎていた。
棚に整然と並んでいる生成りの土器を横目に、扉を開けて光の中へ。そのまま井戸へと近寄って、くみ上げた水で顔を洗う。
朝の新鮮な空気を胸一杯に吸い込んで、今度は台所へ。今日は王宮に行く予定なのでささっと食事を済ませよう。
二人で簡単な朝食を済ませた後、ゆったりとした服に着替えて髪をゆるく一本に縛って右の肩から前に回す。こうして私が身だしなみを整えている間にも、夏樹がロバの背中に荷物を載せて固定をしているはずだ。
「お~い。そろそろ行くぞ」
と外から声が聞こえてくる。
は~いと返事をしながら忘れ物の確認をして、手早く戸締まりをして表に向かった。
青い空を見上げる。朝だというのに強い日射し。
気温が上がると同時に乾季に入ったらしく、今ではまったく雨が降らなくなっていた。
2人並んで朝のエクバタナを歩く。街の中心部が近づくにつれ人通りが多くなっていった。
今日はいくつか作った焼き物をアミュティス王女に納品する予定だ。
持って行く品は、王女が個人的に使用することを念頭に、皿や酒器、茶器などの食器類と花器など。お皿にはフルーツの絵を描いて鮮やかにしてある。
但し、マイセンやウエッジウッド、ジノリなどで使われていたような綺麗な絵柄や、青海波などの繊細な絵柄は、夏樹がダメだと言うこともあって取りやめ、素朴な絵柄となっていた。
夏樹の懸念は当然で、万が一にも後代に土器として出土してしまうと困るし、デザインなどがこの時代の他の美術品に影響を与えてしまうのもマズい。
やっていいのは、この時代の人でも考えつきそうなところまで。それが私たちの限界といえる。
王宮に入ったところでロバから荷を下ろすと、使用人の男性が私たちの荷物を運んでくれた。もう何度も王女とお茶をしているので、ある程度の場所はわかっているけれど、ここは大人しく女官の案内にしたがってついていく。
王女はどうやら王宮の庭園にいるらしい。
ここメディア王国では庭園文化が発達している。幾つもの井戸を掘って、その井戸を地中で連結して水の流れを作り、それを上手に庭園に引き込んで、水の流れる美しい庭園を造り出している。
建物内から庭園に出て木々の間を通り抜けていくと、もう少し先の方に、椅子に腰掛けて休憩している王女がいた。
そばにはお付きの侍女――ラウラさんという名前と教わった、そして正面には王女よりも少し年上の男性の姿がある。
……ってあれ王女のお兄さんじゃないの。
「なんだ? お前が雇っている職人か」
「ええそう。前に見せたランプ台とお皿を作った人たちよ」
「ああ、あれは面白い形をしていたな」
おおっと縄文土器が意外と高評価。――しかし残念。夏樹は何のことかわかっていない。
怪訝そうな表情をしているけど、それもそうだろう。ランプ台として使用しているなんて夏樹には告げていないようだから。
そこで夏樹の後ろから「あの火焔型土器のこと」とこっそりと教えると愕然とした表情になった。
正直、最初にランプ台として使っていると聞いた時、王女様のセンスはなかなかだと思った。
まさか土器の口の所に油皿をはめ込むとは、よく考えたものだ。小柄なサイズだったということもあるのだろうけど、たしかに似合っていると思う。火焔型というくらいだし。
「ふむ……。キャアサクレス王の息子アステュアゲスである」
実は王女の兄上とはきちんと話したことがないんだよね。
「土器職人の夏樹でございます。こちらは妻の春香でございます」
「俺よりも少し年下くらいか。たしか交易商人でもあったと聞いているが……」
「はい。夫婦だけの小さな商家ですけれども、アラムを中心に活動しておりました」
「また難しい土地だな。あそこは」
アラムは大きな交易都市であったけれど、あのあたり一帯はアッシリアとエジプトが互いに干渉し合う紛争地帯でもある。そういう意味では確かに難しい土地といえるだろう。
王女が、せっかくだからアステュアゲスさんのいる前で私たちの荷物を広げるように指示をした。ここまで荷物を運んでくれた王宮使用人の男性が、その荷物を地面に下ろす。私と夏樹はむしろを敷いて持って来た土器を1つずつ並べていく。
作業中ではあったけれど、さっそく王女がその1つを手に取る。
それはいわゆるアロマポットだった。
下の香炉部分には林や熊などの動物をレリーフにしていて、上には中深皿に鳥やお花をイメージした図柄を付けている。
この時代にアロマオイルは無いけれど、乳香や香木などを焚いて楽しむことはあるから、王女用に女性らしいデザインのものを考えてみたというわけだ。
「へぇ。これはまた可愛いレリーフね」
「私が整形したものに妻が装飾を加えたもので、メディアの山々をイメージしてみました」
「……なんだか、これを見ていたらまた外に行きたくなってきたわ」
そういって微笑むアミュティス王女に、お兄さんは呆れ顔で、
「お前な、この前もそんなことを言って馬に乗って飛び出していっただろう。行くなとは言わないが、お転婆が過ぎるんじゃないか?」
王女らしいけれど、それがストレス解消にもなっているんでしょう。
「私は森が好きなのよ」
そう言って、さらにいくつかの土器を見ては幾らかの質問を受ける。しばらくしてからアステュアゲスさんは父王に呼ばれたらしく、一人で宮殿の中へと戻っていった。
頭を下げてそれを見送る。
姿が見えなくなると、王女が手にした土器を見たままで、
「……お父さまはね。出征する予定なんだ」
出征ってことは戦争に行くってことだ。見ると王女の横顔は少し寂しげに見えるような気がしなくもない。
「アッシリアですね?」という夏樹。
「ええ。その通りよ」
「お見送りはよろしいのですか?」
「大丈夫。今日というわけじゃないから。それに毎年のことだから、それほど深くまで攻め入ったりしないと思う」
ふうん。偵察戦のようなものかな。それならそこまで心配することでもないのだろうか。
もともとメディア王国は、長年、アッシリアの侵攻を防いできた国でもある。きっと軍も強いんだと思う。
気を取り直すように、王女は膝の上のほこりをぱっぱと払った。
「さてお兄さまもいなくなったことだし、今日はバビロンの話をしてもらおうかな」
「バビロンですか? あそこは今、戦乱の中にあって――」
と言いかけた夏樹だったが、
「ああ、そういう政治がらみの話じゃないの。どんな所なのかを知りたいだけ」
「わかりました」
バビロンがあるメソポタミア中南部は、2つの川を中心に発達した土地である。平野部に大きな川が流れ、あちこちに用水路が形成されている。周辺にはナツメヤシや麦の畑が広がり多くの人たちが働いていたはず。
歴史あるバビロンには都市神であるマルドゥークを祀る神殿と王の住む宮殿とがあり、多くの職人と交易商人たちが行き交い、大変にぎやかなところだった。
アッシリアも、シュメール文化の中心であるバビロンに敬意を払って永く都市を破壊することはなかったんだけど、一度、アッシリアへの反抗を企てたので何代か前の王が破壊してしまった。
ただ、次のアッシリア王によって復興したとか。
「活気があって良い街だと思います」
「周囲にはどんな森があるのかしら? 鳥とか獣はどんなものがいるの?」
「も、森ですか? あるにはありますが……、エクバタナ周辺とは随分違いますよ」
「そう? 平地の森にも興味があるわねぇ」
「鹿やうさぎは同じようにいます。たてがみのある獅子という獣も昔はいたようですね。最近はわかりませんが……。ああ、川や海があるので魚が捕れますよ。貝なんかも」
「獅子? ふうん。そういえば、あそこは大きな川があるって聞いたけれどどれくらい大きいのかしら」
「そうですね。ここから見えるとすると、あの辺りからあの辺りくらいまで川幅があるでしょうか」
「へぇ! ここにも川や泉があるけれど、そんなに大きい川なんて想像もできない」
「想像もできないといえば、私たちも冬期に滞在したことがないのではっきりとは言えないのですが、おそらく雪は降らないかと」
夏樹の説明を満足げな表情で聞いている王女。自由に出歩けない身分だからこそ、未知の世界に好奇心が抑えきれないみたいだ。
「ねえ。ハルカ。あなたからもバビロンについて聞きたいわ」
「そうですね。一番見応えがあるのはお祭でしょうか」
「お祭?」
「ええ。各都市にある神像が船で運ばれてバビロンに集まるんです。圧巻ですよ」
「へぇ。神像が……」
「とは言っても、私も一度しか見たことがないんですけどね」
お神輿ともまた違うんだけれど雰囲気はよく似ていると思う。
私たちの話を楽しそうに聞いている王女に、
「それにしても、急にバビロンだなんて何か訳ありですか?」
と尋ねると、苦笑を浮かべてはぐらかすように、
「あなたたちって交易商人だからか、他の人とはちょっと違う目線で物事を見ているよね」
と言う。
違う目線、か。それはまあ神の端くれですし……。私なんかは心許ないけど夏樹が歴史に詳しいからでしょう。どっちかというと私よりも王女の方が鋭いように思う。
「そういう意味では、あなたたちをお抱えにしたのは正解だと思ってる。時には第三者の自由な立場にいる人の方がよく見えていることがあるから」
そんな王女の評価に、夏樹が頭を下げた。
「過大な評価ですが、ありがとうございます」
「そうね。さっきの質問だけれど……、うん。夢に見たので占ってもらったとだけ答えておこうかな」
へぇ、珍しい。まさか王女が夢占いをするなんて。
昔読んだことがある。夢っていうのは、寝ている間に脳が記憶を整理しているなかで見るものだって。新たな気付きはあるかもしれないけど、果たして占いとして信用できるのだろうか。
……ん~。そういえば私は気にしたことがなかったけど、高校の友達とかよく自分の夢を占っていたっけ。私の場合、占いといえば、せいぜい血液型とか星占いくらいだったな。それも夏樹との相性を見て安心するというか、1人でニマニマするというか。
「なるほど……。夢で」
と夏樹が言うと、王女はくすりと笑って、
「今のでわかってしまうところが凄いわね」
んん? そんなやり取りをしている王女と夏樹だけど、ちょっと何のことか私にはわからない。夢占いというだけだよね。
あ、わかった。バビロンに行くっていう夢を見たってことでしょう。でもそれは夢の話に過ぎないわけだし……。
「春香。夢で見る事実ってのがあるんだよ」
「夢で見る事実?」
「ああ。聞いたことがあるだろ? 夢のお告げって」
「あるけど……、それって」
「俺たちには習慣がないから実感がわかないけれど、夢ってのはこの世ならざる者と接触できる場でもあるのさ」
「この世ならざる者?」
「一種の異界のようなものなんだ」
「ふうん」
平成の日本で暮らしていた頃だったら、きっとそれは思い込みだよと答えていただろう。けれど、今では自分たち自身が超常の存在なわけで安易に否定はできない。
それに今は紀元前の世界。
人と神とが近い社会だから、夢というのも私が考える以上に重視されているのだろう。そう思えば、王女が気にするのも理解できる。
なごやかな時間を過ごして王宮を辞した私たち。この時の私はまだ知らなかった。王女の夢が現実となり、エクバタナの生活が数年で終わってしまうことを。