挿話 パミール高原の星夜
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高地特有の薄い空気が、星空の夜には特に薄く感じる。
山裾からか、山間からかわからないけれど、ゴツゴツした岩場を強い風が吹き抜けていった。
目の前のたき火の炎が大きく揺れ、まるでガスバーナーの火のようにボボボボッと音を立てた。
さっきまで起きていた春香だが、今では俺に寄りかかりながら眠ってしまっている。羽織っている厚手の毛布が少しはだけていたので、そっと閉じてやった。
中国からシルクロードを東に、カシュガルを通って今はパミール高原のあたりだ。昼間であれば、険しい岩山がそびえ立って旅人を拒み。山間を流れる濁った河がはっきりと見えるだろう。
ここから奥の山々には、頂に白い雪を積もらせ、峻厳な気配を漂わせている。
とはいっても、今は夜だ。月も出ていないけれど、山は星明かりの下でシルエットのように浮かんで見える。
時は紀元前1043年。
殷周革命の終結を見届け、義理の娘となった碧霞の元を辞してから、すでに2ヶ月が経っている。
8月といえば、日本なら夏真っ盛りの季節だが、標高4000メートル近いここでは夜は5度以下になることもある。シルクロードの難所でもあるここは、冬期には通行することが困難になるのだ。
長時間、風に当たっていると思いのほか体力を消耗してしまう。そろそろテントに運んでやらないといけない。
そう思って、眠っている春香を抱きかかえたとき、唐突に風が止んだ。
つかの間に落ち着いた焚き火が、穏やかに燃えている。
たまにこういう時がある。理由は分からない。
けれども、テントに運ぶなら今のうちだろう。そう思って立ち上がった時、焚き火を挟んだ向かいに、いつのまにか旅装姿の僧侶が座っていた。
驚いて、後ずさろうとした。一体いつのまに。どこから来たんだ。……それにこの時代、まだ仏教の僧侶はいないはず。
いっぺんに疑問が吹き出してくる。
40代ほどだろうか。焚き火の明かりに照らされたその顔には、不思議な穏やかさがたたえられていた。
「驚かしてしまいましたね」
落ち着きのあるその声を聞くと、なぜか警戒する気持ちが薄れていく。腕の中で春香が身じろぎをした。
「……あなた」
目を覚ました春香だが、僧侶に気がついて俺にしがみついた。それを見た僧侶は、目を細めて笑い出した。
「相変わらず仲のよろしいことで。お二人とも座りなさい。面白いお話をしてあげましょう」
困惑している俺たちの様子を気にすることなく、その僧侶は静かに待っていた。
俺と春香が恐る恐るたき火の前に座ると、ひとつうなずいて、とある物語を話し出したのだった。
「昔、バーラナシーという国で一匹の牡鹿が生まれました――」
その鹿は美しく成長し、愛らしく、また見事な黄金色の毛並みをして銀色の角を持っていた。手足の毛並みも整っていて、他の鹿よりも一回りも二回りも大きかった。
その妻の牝鹿も愛らしく美しく、2頭は一緒に暮らし、また多くの鹿たちがその牡鹿を群れの長として生活をしていた。
ある時、先頭を歩いていた鹿の王である牡鹿が、足を罠に捕らわれてしまった。革の紐が巧妙に、また複雑に脚に絡みついていた。
牡鹿はたくましく力強かったので、力尽くで罠を断ち切ってやろうとした。しかし、罠の革はますます固く脚を締め付け、皮が切れ、肉から血がにじみ出るだけだった。
罠から逃げることができず、その鹿の王は死の恐怖におびえて嘆きの声を上げた。鹿の群れは牡鹿が罠にかかるや否や、われ先にと逃げ出していたが、たった一匹、妻の牝鹿だけが夫のそばにいたのである。
「あなたは力持ちでした。どうしてこの罠を引っ張って解くことができないことがありますか」と励まして、1つめの詩をよんだ。
大鹿よ 力をふるえ
黄金の脚を持つものよ 勇気をふるえ
革の縄を切るべし
われ一人では森を楽しめざればなり
これを聞いた牡鹿は、2つめの詩をよんだ。
勇気をふるいて 勢いをもって
地を打つも 抜け出ることあたわず
堅き革の罠は
わが足を締めつけ、足を切り裂きたる
すると牝鹿は、心配そうに夫の鹿に鼻をこすりつけ、
「あなた、心配しないで下さい。私が猟師に頼んで、あなたの命を助けてもらいましょう。もし駄目だと言われたら、私の命を差し出してでも、あなたを救いましょう」
と夫を励まし、身を寄せて座り込んだ。
そこへ一人の青年が通りがかった。弓矢を背中に背負い、腰には小刀を差して林の道を歩いてきた。その足取りは散歩するかのように軽かったが、2匹の目にはこの世の終わりの炎がゆっくりと近づいてくるように見えたのだった。
牝鹿はそっと夫に告げた。
「あなた、猟師が来ます。心配には及びません。私が命に替えても何とかしましょう」
そして、妻の牝鹿は青年の前に進み出ると、器用にお辞儀をしてみせた。
「猟師さま、わが夫は黄金色の毛を持ち、行いは正しく、多くの鹿の王でございます」
その姿を見た夫の鹿は、妻が命を投げだそうとするのを止めるために、力を振り絞って立ち上がった。しかし、何かを言う前に、妻が3つめの詩をとなえた。
木の葉を敷いて 猟師よ 刀を抜け
まず我をば殺し そして後に鹿王を殺せ
これを聞いた青年は思った。
たとえ人間であっても、夫のために自らの命を投げ出したりはしない。しかし今、この鹿は命を棄てようとしているではないか。しかも人の言葉をしゃべっているとは。……とても自分にはこの鹿を殺すことはできない。ともに命を救ってやろう。
そして、青年は4つめの詩をよんだ。
我いまだかつて牝鹿の人語をかたるを聞かず 見ず
牝鹿よ そなたに幸いあれ またこの大鹿にも 幸いあらんことを
青年が罠から牡鹿を解き放つと、妻の牝鹿はそれを喜び、猟師に感謝しながら5つめの詩をとなえた。
今 我が大鹿の放たれるを見て喜ぶがごとくに
猟師よ 汝も 汝の親族も すべてともに 楽のあらんことを
夫の牡鹿もこう考えた。
「この猟師は私を助けてくれた。私も彼に何かしてやるのがよいだろう」と。
そして、かつて餌を探していて見つけた、小さな洞窟に青年を連れて行った。そこには宝石が小山になって隠されていて、青年は牡鹿からその宝石をもらったのである。
◇◇◇◇
話し終えた僧侶は、じっと俺の顔を見つめた。
「――実は。その夫の大鹿とは、隣にいる貴方の奥さんであり、妻である牝鹿は貴方なのです。そして通りがかった青年とは、実に私であったのです」
……不思議な話だ。
鹿がしゃべるとか、荒唐無稽な話に思えるけれど、この僧侶が話すと本当のことのように思える。
春香が牡鹿で、牝鹿が俺。今とは性別が逆だけれど、俺たち夫婦の因縁を説こうというのだろうか。
俺が黙りこくっていると、いつしか緊張の解けていた春香が、
「すると、やっぱり私はいつも夏樹に守られているっていうことですね」
と微笑んだ。
それを聞いた僧侶は、またも静かな笑みを湛えて、
「貴女にも、隣の旦那さんと一緒になるべき因縁があるんですよ」
「そうですか」
「ええ。……ですが、それはまた今度にしましょう。はるかな旅路の途中で、いずれまた」
そう言って立ち上がる僧侶。
ああ、やはりどこぞの神さまなのだろうか。
不思議な雰囲気を漂わせている。
俺と春香も立って、その僧侶が歩き去って行くのを見送った。
少しずつ去って行くその後ろ姿から、キラキラと光の欠片が立ち上り、やがてふっとその姿を消してしまわれた。
その途端に、風が再び強くなってきた。毛布や服が風になびいてはためく。
「今の人って?」
「正体はわからないけれど、どこかの神さまみたいだな」
「ふうん」
春香が何かを考え込んでいる。
「でもまあ、うれしいかな」
そう言いながら俺を見上げる。その瞳はいつもよりも澄んでいるように見えた。
気持ちは俺にもわかる。因縁譚の中ででさえ春香と寄り添いあっていたのなら、俺もうれしい。
そっと手を引いて春香を抱きしめた。風の向こう、俺たちの頭上には見渡す限りの星々が輝いている。
この広大な宇宙で、俺は春香とめぐり逢い一緒になった。それには深い因縁があるのかもしれない。
けれど、もっと大事なことは、今、そしてこれからもお互いを思い合い、愛し合い、そして一緒に歩んでいくことではないだろうか。
この行動が新たな因縁となり、俺と春香を導いていくだろう。
――どうやらたき火も完全に消えたようだ。
さっくりと砂利をかけ、俺は春香と一緒にテントに入った。
さあ、明日の道程も険しい。今日はもう休もう。
本作は、ずっと時代を追って叙述していくスタイルですが、作者の我がままでどうしても戦前戦中編が書きたくなりました。
方針がコロコロ変わって申しわけないですが、時代を先取りして執筆を始めています。
ただし、歴史順ではなくなってしまうために、いったん別作品として公開し、後にこちらの本編にコピペすることといたします。
(構想では第29章)「この空の果て、戦火にありし君を想う」
https://ncode.syosetu.com/n9103er/
作中話はお釈迦さまの前生譚「金色の鹿前生物語」(中村元監修『ジャータカ全集』第4巻p184)をアレンジしています。
【追記】
時代は飛びますが、戦前・戦中編をこちらに接続してしまおうと考えています。次の更新の際に処理をする予定です。
【追記2】
ブクマの動きから、やはり時代の順に更新した方がよさそうなので、時代を飛び越えるのはやめにしました。混乱させて申しわけありません。