最後の月
満月と星ひとつ。
澄んだ空気の中、雲も透過してくっきりと浮かび上がるふたつが印象的だった。
葉擦れ音が、風に揺れてざわめいたり囁きあったり、あるいはぴた、と息を止めたりして遊んでいる。
街灯よりも月明かりが煌々と明るい夜の道。
それらは神秘的ではあるけれど、木々が揺れる音が不気味なBGMになっている事に変わりはない。
見上げると、群青の空。
一番星も負けじと光っていた。
いつものデートコースは、
一人だときっと心細い。
でも今は二人でも同じ事だ。
公園に続いている舗装されたウォーキングロードを言葉もなく、僕と彼女の時折土を踏む足音が後ろから響いていた。
「別れよう。」
その一言を発することができないまま
喉の渇きを覚えて唾を飲み込んだのは5分前。
どうでもいいことはぺらぺらと口をついで出てくるのに
肝心なこととなるとなにひとつ言えない。
たった一言だろう、言えば楽になるだろう、
と頭の中の囁きは時間の経過とともに大きく膨らんでいる。
彼女の横顔をそっと眺めて、
窺い知れない表情を暫く見つめた。
決心のつかない自己嫌悪の溜息を吐くと、そのまま足下へと視線を落とした。
遠くで、救急車とパトカーのサイレンが鳴っていた。
右から左へと音を変えて遠ざかっていく。
「…言われる気がしてたんだよ。」
今日…と。
歩みを止め、長い沈黙を破って彼女は言葉を小さく紡いだ。
震えるように掠れた声が何を示唆しているのかは今更だった。
僕は大きく唾を飲む。
鼻息が漏れる。
俯いて、目を伏せた。
「…ごめん。」
裏切ってごめん、なのか。
好きじゃなくなってごめん、なのか。
別れようという事に対してのごめん、なのか。
優柔不断で別れようと言うこともできなくてごめん、なのか。
そうして最後まで気を遣わせてごめん、なのか。
ーごめんって謝るくらいなら、振るなよ。
そう思った自分の記憶。
いつかの自分は言われた側だった。
今度は自分が言う側だった。
なんの、ごめん、なのか。
そう思ったのだ。
全部、全部だった。
全部にだった。
ようやく喉から絞り出した声は
自分のものではないように思えた。
言えば楽になるだろうと思った台詞なのに、
思いに反してそれは重くのしかかった。
想い出は反則だ。
今更気持ちなどないのに、楽しかった記憶に言い訳めいた言葉を吐きそうになる。
首を軽く振ることで思い留まる。
中途半端に想いを伝えることが
より残酷だと言う事を、僕は誰よりも思い知ってるじゃないか、と。
切ないとか、思える義理じゃない。
悲しいとか、思える立場じゃない。
それでも切ない気持ちは
悲しい気持ちは心にあった。
細い肩を震わせて、
彼女の嗚咽が聞こえてきて
もう、抱き締めてやることも
できない手で拳を作る。
何も言えない自分には、
何もする事ができない。
そんな自分に
酔っているのか、僕は。
どこかで鳴っていた救急車とパトカーのサイレンが、目的地へと到着したのか一斉に止んだ。
「わかった…。」
涙を手の甲で拭って
目を合わせないまま作った声で言う
ー帰るね、が酷く寂しく響いて
、後ろ姿を見る僕の耳にいつまでも残っていた。
彼女の顔が好きだった。
くしゃっと破顔して笑う所が可愛いと思った。
色んな所を歩いた。
色んな事を話した。
許せない事も特になかった。
確かに話せないこともあった
でもそれは問題じゃなかったのに。
彼女が問題ではなかった。
すべては僕自身の問題だった。
終わらせたのは自分なのに、
終わらせる時はこうも名残惜しいのは何故だろうか。
清々するなど、どこがだろう。
彼女が走っていった道と逆を歩く。
空を仰ぐと、満月は走る彼女を追いかけていったのか、姿をすっかり消していた。




