「堅苦しいのが好きだろう」と書類を押し付けなさった殿下は、婚約破棄が過酷な試練であることをご存じないようです
王太子の婚約者、オデット・ベルティールの執務室は今日も今日とて騒がしい。
「オデット様ー! こちらの書類をお任せしても大丈夫ですか!?」
「カルディナ大神殿からの書類ですね。次の女神祭についてでしょう。こちらで預かります」
「すみません! フアン伯爵から女神祭の流れについて――!」
「問題ありませんとお伝えください。完璧ですからそう何度も確認なさらなくて大丈夫です」
「インテーリ家とバーサク家のご子息が――!」
「あそこの揉め事は時間が経てば勝手に解決いたします」
「オデット様――!」
「そちらの書類を持っていってください」
「オデ――」
「解決済みです」
ああ、目が回りそうだ。
オデットはここ七年ほど、毎日こうして舞い込む書類とトラブルを処理していた。
本来なら婚約者であるジェラールが主に行うべき仕事なのだが、本人は「後でやる!」などと言ってどこかへ消えていた。しかしこの量を後からやっては間に合わないのでオデットが処理する羽目になる。
いつものことだ。今はどちらにおられるのだろう。
なんて思ったところで回答のように扉がバーン! と開いた。
「オデット! 大事な話がある!」
現れたのは王太子ことジェラール。
晴れやかな顔でずんずんと執務室の中に歩いてくる。
その隣にはふわふわした笑顔を浮かべるご令嬢がいた。
伯爵家の長女であるノエミだ。
「オデット様、お邪魔いたしますわ!」
うふふ、と小首を傾げて形式だけの謝罪をしている。
邪魔だと思うなら来なければいいし、婚約者の前でその距離感はどうなのか。
二人が昔から知り合いであることは聞いていた。
いわゆる幼馴染のようなものだ、と照れ臭そうなジェラールに言われたのを覚えている。はあ……と思ったものだ。幼馴染だとして、婚約者以外の異性と親し気に連れ添う理由にはならないと思うけれど。
書類を整理する手を止めないまま返す。
「ジェラール様、そのお話はこちらの書類より大切なことでしょうか?」
「当然だ! そんな書類など後で構わん!」
年に一度の女神祭よりも大切な事情とは一体なんなのか。
ジェラールがにんまりとした笑顔で言った。
「俺たちの婚約が破棄できるぞ!」
おお……。
それはたしかに、女神祭より重要かもしれないですね。
◇
オデットとジェラールが婚約を結んだのは七年前のこと。
オデットは両親に連れられ大神殿へと向かい、ジェラールと引き合わされた。
この婚姻はベルティール侯爵家と王家の繋がりを深めるものだ。二人の婚約がこの国の未来のために必要なのだ。
子供ながらに伝えられた言葉の重みはわかっているつもりだった。侯爵家は国の中心となる儀式を取り仕切っており、北部の領主とも繋がりが強い。オデットとジェラールの婚約はこの国をさらに強固にする。
王太子も自信満々に「俺たちがこの国を支えるのだ!」「協力して頑張ろう!」「俺たちならできる!」「女神カルディナにも誓おう!」と宣言していたので、彼もまた同じ気持ちなのだと思っていた。
しかし実際に始まったのは違和感に首を傾げる日々だった。
公務として任されている書類をジェラールは手を付けずに放置している。
婚約者ができたにも関わらず、パーティへ積極的に参加して異性と関わり続けている。
流石に書類を放置するのはまずいとオデットが許可を得て処理をすると、ジェラールは笑って言うのだ。
共同作業だな、と。
しかもその内、オデットにすべてを任せて自分は遊びへ向かうようにもなった。
理由を問いただしてみればこうのたまう。
「君は堅苦しいのが好きだろう?」
んなわけない。
「違います。ジェラール様が書類を残すから処理しているだけなんです」
「後でやるつもりだったさ! そもそも俺は代わりに社交に力を入れているのだ! ならば君が書類をこなしてくれてもいいだろう? お互いの分担にもなるじゃないか!」
その日からなぜかオデットは書類仕事を全て押し付けられるようになってしまった。
ジェラールは分担だと思っているようで、「任せたぞ!」などと良い笑顔で言ってくる。
流石にこれは分担じゃないと伝えても、「わかったわかった!」と言う割に翌日には書類を放置して消えている。
母国語が通じないとなるとどうしようもない。
その内オデットが書類を処理する日々が続くようになった。
書類作業は苦手ではないが、膨大な書類や降りかかるトラブルを全て対処するのは流石に酷だ。しばらくの間は他方面に迷惑をかけてしまった。
しかしオデットの連日の努力の甲斐もあり、今は書類やトラブルを素早く処理することはおろか、舞い込む直前に内容を予測することすらできるようになっている。
オデットに知らせを届けに来た使用人はそれぞれ「腕が四本ある」「千里眼を持ってる」「本気出した騎士団長より動きが速い」「羽ペンを持った時には書類が完成してる」「視線で処理済みの印を押せる」「二キロ先のトラブルをその場で処理できる」「戦場でその強さを見てみたい」などとドアの前で好き放題言っていた。
褒められているのはわかるけど、それってどんな化け物ですか。
そんな事をしている内に、どうやら王太子ジェラールが懇意にしている伯爵令嬢がいるらしいぞ、という噂が小さく聞こえてきた。
そういえばジェラールと共にパーティに参加した時に幼馴染がどうとか紹介された方がいたなと思い出す。綿あめのようなふわふわした笑顔を浮かべるご令嬢だった。なんだかうちの婚約者との距離が近いな、と思ったのも覚えている。
そんな、わずかに漏れ聞こえるだけだったその噂が耳を塞いでいても聞こえるぐらいになった頃――、
「オデット! 大事な話がある!」
オデットは突然、仕事中に婚約破棄を告げられるのであった。
◇
そんな今までの日々がふっと思い出され、改めてこの王太子への呆れが沸き上がる。
しかも婚約破棄ができるぞとはどういう言い草ですか。
「もしや喜ばしい知らせとお思いなのですか?」
「もちろんだ! オデット、君は俺のことがあまり好みではないだろう?」
「はあ……それが関係あるのですか?」
「当然! 婚姻はお互い愛しあう者同士がするべきだ! ノエミがそれに気づかせてくれた!」
紹介されたノエミ嬢がしずしずとジェラールの腕を取る。
「ええ。逢瀬を重ねていく内に気づいたのです。この方がわたくしを一番に理解してくださると!」
「俺も同じだよ、ノエミ」
「星の数ほどの逢瀬、刺激的でしたわ……」
「ああ、俺もだよノエミ……」
見つめ合う二人。
どうしてここで二人だけの世界に入れるのか。
「その逢瀬とは星の数ほどの書類を私に押し付けなさって出ていたパーティのことでしょうか?」
二人が心外だ! という顔をする。
「押し付けとは大層な言い方だ! そういう分担という話だったではないか!」
「いいえ。協力するとは申し上げましたが、一人で処理することに同意したことはございません」
「もう……オデット様ったら強い言葉をお使いになるのね。ジェラール様? わたくしならそんなことは言いませんわ」
「ああ、わかっているよノエミ」
「…………」
自分の目がだいぶ白けたものになっていることはわかる。
これが王都の劇団が行う喜劇でないのが信じられないくらいだ。
オデットは少し間を置いてから、一応言ってみた。
「……考え直してはもらえませんか?」
目の前の喜劇は一旦置いておくとして、オデットとジェラールの婚約の意味は重い。
ベルティール家は建国以来この国の大きな儀式の補助を担ってきた。王家と大神殿の間を預かり、人員の要請から資金の補助、両者を結ぶ手続きなど、国の裏方を任されてきた存在。加えて王家と関係性が薄い北部の領主たちとの繋がりも強い。
オデットとの婚約はそんなベルティール家を国の内側に取り込み、内政を強化する意図があった。
今ここで婚約が破棄された場合、それら全てが無に帰す可能性がある。
オデットはそれを説明した。
ジェラールは「ははは!」と大きく笑い飛ばした。
「儀式など結局形だけのものではないか!」
「ええそうですわジェラール様! 人として大切なのは心ですもの!」
「ノエミ!」
「ジェラール様!」
恋は盲目というものか。
いや、これはただ視野が狭いだけか。
もはやどんな言葉も届きそうにない。それでも最後に、一つだけ注意しておきたいことがあった。
「……ジェラール様。ノエミ様。婚約破棄には女神誓約令の手続きが必要でございます。最低でもそれだけはお読みに――」
「ははは、なんだ! 何を言うかと思えば」
ジェラールは顔だけで振り返って笑った。
「最後まで君は堅苦しいのが好きなのだな!」
わははうふふと笑いながら出て行った二人が消えたのを確認して、オデットは深く溜め息を吐いた。
◇
婚約破棄の手続きはカルディナ大神殿で行われることになった。
カルディナ大神殿は女神カルディナを祀る、この国の北側にある巨大な建物だ。この国の王族たちは、何か大切な決め事をする時は必ず大神殿へと赴くのが常だ。
かつてはオデットとジェラールも大神殿で女神像に誓ったのだ。
力を合わせてこの国をより良いものにするのだと。
今やその誓いは破られようとしているが。
神殿へ向かう馬車の中で父であるベルティール侯爵から届いた手紙を眺める。
『すまないオデット。ジェラール王太子がそれほど底抜けの阿呆だとは、いや、底抜けの浮かれトンチキボケナス小僧だとは思っても見なかった。もはやあいつは王になれないだろう。王冠を載せる頭が無いからな。手続きを済ませたらすぐに戻ってきなさい。私もすぐに向かう』
父には手紙で説明をして、帰ってきたのは短い手紙だった。
おそらく急いで書き上げたのだろう。文面は短い。でも筆跡と文章からブチ切れ度合いが伝わってくる。こんなことなら、もっと早く相談しておくべきだった。
オデットとジェラールとノエミの三名は大神殿の奥、女神の間へと通された。
大切な決まり事は女神カルディナの像の前で行う。
それがこの国の決まり事だ。
女神カルディナの像はきゃぴーん♪ と音が鳴りそうなピースをした格好をしている。
けっこうラフなお方なのだ。
女神カルディナは歴史を紐解いても中々フレンドリーなお方だったと記録が残っている。
ただし、一部の害となる人間には容赦しないとも。
「では始めよう! 俺たちの新たな一歩だ!」
「ええジェラール様! わたくし達の愛の始まりですわ!」
「――静粛になさってください。カルディナ法典に則り、婚約破棄を始めます」
盛り上がっている二人とは対照的に、神殿長の静かな声が響く。
「まずは第一条。『両者、婚約破棄に了承している旨を書類に記録すること』」
◇
数時間後。
静かな女神の間に、神殿長の低い声が広がる。
「続いて――第二十二条」
「……ちょ、ちょっと待て!」
「『破棄を宣言した者は――』」
「待ちたまえ神殿長!」
「はい。なんでしょう殿下」
ジェラールが焦れたように叫んだ。
「規則がずいぶんと長くないか!?」
先ほどからジェラールは足をむずむずと動かしていた。第七条の『破棄内容の口頭陳述』あたりから既に我慢の限界に来ているようだ。
神殿長は眉ひとつ動かさずに答えた。
「規則ですので」
そうなのだ。オデットからしても長いと思うが、女神様がそう定めたのだから仕方ない。
この国には大昔に女神カルディナが定めた各種規範──カルディナ法典が残っている。カルディナ法典は基本的には普通だが、一部のものだけ明らかに長い。とある界隈では「女神様の地雷」だと言われている。
「本当にそんな規則が存在するのか!? なぜ婚約破棄をするのに逆立ちして三回ワンと鳴かねばならない!?」
「第十九条ですね。ワンとは異国で『一つ』を意味する言葉です。破棄を宣言して『一人』となるのだという意味を込めてワンと叫ぶ必要があります」
「ではなぜ三回言う!?」
「異国に『三顧の礼』という言葉があります。目上の方に礼儀を尽くす意味で使われる言葉です。一度ではなく三度繰り返すことに意味があります」
「逆立ちの意味は!?」
「婚約破棄とは今まで地についていた二本の足を離し、新たな一歩を踏み出すことですから」
神殿長はすげなく返していく。
その後ろには女神様のきゃぴーん♪ と音が鳴りそうなピースをした像が建っている。
ちなみに先ほどの神殿長の言い分はちゃんと女神様が残した通りの文言だ。
本当なのかは誰も知らない。
ちなみに本来は婚約破棄にここまでの手続きは行われず、簡易版で済むことがほとんどだ。
しかし今回は王族の、そして一方的な宣言によるもの。
そのため条文を全て飛ばさず行う必要がある。
「満足なされましたか?」
「む……女神が言うならば……しかし……」
腑に落ちない顔をしているジェラールに神殿長が告げる。
「では第二十二条です。『破棄を宣言した者は、ドゥーラ霊峰の女神像まで単身で向かい申し立てを行うこと』」
「……は?」
「……え?」
ジェラールとノエミが絶句した。
「どっ……ドゥーラ霊峰だと!? あの断崖絶壁を!?」
ドゥーラ霊峰は大神殿のさらに北。
この国の北の端の先にある山の名前だ。
ジェラールが言うように、ドゥーラ霊峰はかなり勾配が激しい。
記録によればかつて女神様による魔物との闘いで岩肌がゴリゴリに削られてただでさえ険しい起伏がさらに激しくなったとのこと。
ドゥーラ霊峰の山頂には女神様の像が建っている。
第二十二条では、そこまで行って今回の婚約破棄について申し立てを行う必要があるのだ。
「ふ、ふざけるな! あんな場所に一人で行けるか!」
「いいのですか? 先ほど愛の始まりがどうと仰っていましたが」
「なっ……」
婚約破棄は手続きを行わなければ受諾されない。
とはいえオデットの方は気楽だ。婚約破棄を宣言されたオデット側の手続きは簡易版なので第十条までで済んでいる。オデットの婚約はもう破棄されている状況なのだ。
ただし破棄を宣言した王太子側は手続きを行わないと正式に婚約破棄がなされない。
ここでやめた場合、婚約者はいないが婚約した状態という不思議な状況へ陥ることになる。
なのでノエミと再度正式に婚約を結ぶためには手続きが必要なのだ。
「ジェラール様……。わたくしは、ジェラール様を信じております」
「ノエミ……もしかして君は、自分はやらないからと思っていないだろうか?」
「そんなこと! 微塵も思ってもおりませんわ! ただジェラール様を信じているだけです!」
神殿長が声を掛ける。
「手続きに期限はありません。何ヵ月かかっても構いませんよ」
「……何ヶ月!? い、いや俺たちの愛を止められるものなどいない! 必ず一ヵ月以内に達成してみせる!」
「ジェラール様! 素敵ですわ!」
その愛、一ヵ月止められてますけどね、という目でオデットは黙っていた。
神殿長も似たような顔をしている。
ノエミは感激に手を合わせていた。
とはいえ一ヵ月でもかなり苦しい道となるだろう。ジェラールは遊び惚けていたので体力が多いわけでもない。一体どうやってドゥーラ霊峰を一ヵ月で踏破しようというのか。
◇
およそ一ヵ月ほど経った後。
「オデット様。お久しぶりでございます」
「……あら、神殿長様!」
侯爵家に戻っていたオデットの元に神殿長が訪れてきた。
「本日は王太子殿下がドゥーラ霊峰を踏破されたとのことでご連絡に参りました」
「えっ……!?」
まさか本当に一ヵ月で達成するとは思わなかった。
ドゥーラ霊峰の単身踏破を一体どうやって?
「殿下は付与魔法を掛けてもらって山道を登り切ったようです」
「……あ~」
「それと騎士団を無理やり動かして魔物を討伐させていたみたいですね。我が国の優秀な騎士たちによって、今のドゥーラ霊峰はかなり安全な山になっていると言えるでしょう。騎士団はずいぶん疲弊して不満そうでしたが」
なるほど。宮廷魔法士の付与魔法に、騎士団の梅雨払い。それだけあればずいぶん安全になる。
この一ヵ月という時間は山道を登っていたのではなく、大半が山道の行きかえりを安全にするための準備だったのだろう。
「でもそれは単身と言えるのでしょうか?」
条件は単身での踏破だったはずだけど。
「微妙なところです。一応達成とは言えるでしょうが、ペナルティの天罰はあるかもしれませんね」
「それはどのような?」
「例えばそうですね。一日に何度か小指をぶつけるなどでしょうか」
「……ふふっ」
あまり人の不幸を喜ぶのも良くはないけど、ジェラールが小指をぶつけて叫んでいるのを想像したらおかしくなってしまった。
そんなオデットの姿を見て神殿長もわずかに口角を緩めている。
(……あら、神殿長様って笑顔も浮かべるのね)
神殿長は美しい顔をしているが、その表情が変わるのを見た人はほとんどいない。噂で聞く彼と言えば「冷酷無比」「鬼」「規律が服を着て歩いている」「筆跡で人を見分けている」「喜怒哀楽で言うと『無』」「視線で魔物を射殺せる」等々、非情な人のイメージであった。
そういえば、そんなお方がどうしてわざわざ来てくれたのだろう。
別にこれを伝えるだけなら下の者に任せてもいいのではないか。
「ところで、今日はわざわざ神殿長様がお伝えに来て下さったのですね」
「まあ、一応大事ではございますから。それに、元々個人的にあなたの事が気になっていましたので」
「私のことが?」
「ジェラール殿下の名義で届く書類、書いていたのはあなたですよね? オデット様」
真っすぐ見つめられて、思わずどきりとしてしまう。
たしかに神殿長の言う通り。書類を処理していたのは全てオデットである。
けれど、対外的には王太子の名義で出していたはずだ。
なぜ、と思ったのが顔に出ていたのか、神殿長がすぐに口を開く。
「殿下にしてはあまりにも字が綺麗で、ミスもなく、返信が速い。私も存じ上げていますが、殿下にこんな仕事はできません。そこで婚約者であるオデット様のことを思い出したのです。ベルティール家は儀式を司るお家柄ですから、このように丁寧な仕事をなさるのだろうと」
「それで言えば、私も神殿長様からの書類は完璧でしたので覚えています。……口には出しませんが、『当たり』の書類だと思っておりました」
「なんと……それは私も光栄ですね」
神殿長がおかしげに笑う。
なんだ、この人は思ったより人間味のある人ではないか。
あんまり噂は当てにするものではないな……と珍しい神殿長の笑顔を眺めていると、不意に彼がまたまっすぐに藍色の瞳を向けてきた。
「ところでオデット様、よろしければですが、お暇のある時に大神殿の業務を手伝ってはいただけませんか?」
「え……?」
「カルディナ大神殿は優秀な人材を求めています。神官たちが詰めの甘い仕事をするので私が冷酷な人間だという噂が出回っているようですが……オデット様ならその心配もありません。それに大神殿は王家と双璧を成す存在ですから、位が低いということもないでしょう」
すぐにこれは神殿長の善意だと気づいた。
現状のオデットは婚約破棄された外聞の悪さで身動きが取りづらい状況にある。
しかし大神殿はこの国では大きな立場にある。国を統べるのは王家だが、大神殿は国内の約束事や記録、審判を担う。勤める人材も王宮の世襲制と異なり、生え抜きのエリートばかり。それにあの神殿長の勧誘ともなれば価値も高まるだろう。
「神殿長様……お誘いありがとうございます。前向きに検討していると父にも相談させていただきます」
「ええ。楽しみにお待ちしていますね。それと、ちなみにですがオデット様」
「はい?」
「私はセヴラン・オルドリックという名前がございます。よろしければセヴランとお呼びください。まあ、やがては鬼上司と呼ばれることになるかもしれませんが」
わずかに微笑まれて、思わず笑ってしまった。
「もし部下となりましたら、セヴラン様が鬼にならないよう精一杯務めさせていただきます」
「ええ。私も鬼にはなりたくないものです」
そんな話をして神殿長様ことセヴランは戻っていった。
「――では、ジェラール様の元へ戻ります。オデット様と違って、残りの手続きがまだまだありますから」
◇
場面は変わって大神殿の女神の間。
「第三十一条『破棄を宣言した者は、自ら婚約指輪を炉に入れて溶かすこと』」
「なっ! なんだこの火力は! 近寄るだけで燃えてしまいそうだ!」
「ジェラール様、水魔法の使い手は用意しております。どうかご自分で指輪を破棄ください」
「く……あ、熱い! 熱いが、やるしかない……!」
「第三十四条『破棄を宣言した者は、三日間滝に打たれ心身を清めること』」
「ま、また過酷な試練が必要なのか……!?」
「三日を待たずに滝から外れた場合、やり直しとなりますのでご注意くださいね」
「わ、わかった! やる! やってやる!」
「第四十二条『破棄を宣言した者は、女神像の前で五日間祈りを捧げること』」
「…………」
「ジェラール様? 聞こえましたか?」
「……なあ」
「なんでしょうか」
「……この条文は何条まであるんだ?」
「全部で第六十六条です」
ジェラールは泡を吹いて倒れた。
◇
その後、オデットは大神殿での業務を担当し始めた。
神官たちは初めは貴族の令嬢など……とオデットを白い目で見ていたが、その書類捌きを見て態度をぐるりと入れ替えた。
神殿長に勝るとも劣らないその書類捌き。速さだけでなく、正確さも随一だ。
いつしか大神殿で働く二人は畏敬を籠めて「大神殿の風神雷神」「鬼が増えた」「万里眼持ち」「作業が早すぎて書類が見えない」「ただの書類仕事で残像が見える」「本気出した剣聖より速い」「戦場に出れば最強になれる」などと噂されるようになっていた。
オデットにとって、大神殿での仕事は王太子の執務室と違ってすごくやりがいのあるものだった。
ここには共同作業と言って仕事を押し付ける人はいない。
定期的にお休みもいただける。
まだ鬼にはなってない上司は自分の価値を認めてくれて、忙しい時は気遣いもしてくれる。
そんな大神殿で働くオデットの元に、フラフラと今にも倒れそうなジェラールが現れた。
「……お、オデット! 助けてくれ!」
「あら、お久しぶりです。どうなさいましたか?」
「君がこなしていた書類仕事はノエミでは無理だった! 俺も手伝っているが埒が明かない! 婚約破棄の手続きもそうだ! わけのわからない試練ばかりで達成させる気がない! 俺の下に戻ってきてくれ! オデット!」
「……それは、婚約破棄を破棄したい、ということですか?」
「そうだ! もう一度婚約しよう! そして二人でまた始め直そう!」
「では――また別の手続きが必要ですね」
「はっ?」
ぽかんと口を開けるジェラールに、オデットは淡々と伝える。
「カルディナ法典によれば、破棄を宣言した側が一方的な事情で寄りを戻そうとする場合、さらに別の手続きが必要になります」
「な……もう霊峰は登ったんだぞ! 滝にも打たれた! 祈りも捧げた!」
「それとはまた別です」
絶望してふらりとよろけるジェラール。
その足の先が、ちょうど部屋の隅にある机にぶつかった。
「いっ、痛いっ! くそぉ……! 霊峰を降りてからというもの、やけに足の小指をぶつける! オデット、何か知らないか!?」
「さぁ……わかりかねます。ご自分の心にお聞きくださいませ」
「なに……!?」
セヴランの見立て通りの天罰が出ているようだった。流石である。伊達に鬼と呼ばれていない。
足先を手で抑えていたジェラールがオデットに尋ねる。
「ちなみに聞きたいのだが、オデット?」
「ええ、なんでしょうか?」
「婚約破棄を破棄する手続きは、全部で何条あるんだ?」
頭の中でその条文を思い起こす。
これは一部だと「女神様の逆鱗」と呼ばれるくらいに長い長い条文だった。
「百三十二条です。ジェラール様」
「ひゃ……」
ジェラールが硬直してしまった。
さらに言えば、その手続きを乗り越えてようやく申請ができるだけで、相手の同意がなければ寄りを戻すことは成立しない。
オデットは寄りを戻す気などないので、始めから無理な話でもあった。
「ど、どうすれば……女神祭もすぐだというのに……ノエミも最近顔を見せないし……!」
ノエミは先日こっそり大神殿に訪れて、王太子との婚約が破棄できるかを尋ねに来た。ジェラール様はまだ破棄の手続きを終えてないので婚約できてないですよ、と言うとほっとした顔をしていた。たぶん、もうジェラールの側にはいないのではないか。
そこへ呆れた顔をしたセヴランが現れる。
「殿下、破棄の手続きを続けないのであればお引き取りください」
「神殿長……! お前からもなんとか言ってくれ!」
「自業自得でございます。それに、こんなところで油を売るならば、王城に戻って誠意を見せるべきでは?」
「なに?」
「あまりの醜聞にジェラール様の王位継承権を取り上げる動きが進んでいるようです。急がなければ手遅れになりますよ」
「な――それを早く言え!」
慌てて駆け出していくジェラールが、扉の端に小指をぶつけて「いったぁ!」と叫ぶ。
セヴランは「手遅れでしょうけどね」と苦笑を浮かべて、隣の席へと腰を降ろした。
「では私たちはいつもの仕事を続けましょうか」
「はい。よろしくお願いします!」
そんなカルディナ大神殿の奥、女神の間。
そこにはきゃぴーん♪ と音が鳴りそうなピースをしたラフな女神様の像が建っていて、いつもこの国を見守ってくれている。
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