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処刑寸前の悪役令嬢は、処刑を止めない悪役公爵に恋をする

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/07/04

 

 悪役令嬢は、断頭台の上でも美しくなければならない。


 少なくとも私は、そう信じていた。


 だから、首筋に冷たい刃の影が落ちても、泣かなかった。


 膝は震えている。


 喉はからからに乾いている。


 逃げたい。怖い。嫌だ。死にたくない。


 そんな情けない本音を、私は真っ赤な唇の下へ押し込めた。


 だって私は、ヴィオレーヌ・グリムハート。


 前世で読んだ小説の中で、誰からも嫌われ、誰にも許されず、それでも最後まで気高く笑って死んだ、私が誰より愛した悪役令嬢なのだから。


「罪人ヴィオレーヌ・グリムハート。王太子妃となる立場を利用し、王家を私物化しようとした大罪により、ここに死をもって罰する」


 処刑台の下で、役人が罪状を読み上げる。


 広場を埋め尽くす民衆から、罵声が飛んだ。


「毒婦め!」


「黒薔薇の令嬢が、ようやく裁かれるぞ!」


「王太子殿下をたぶらかした女だ!」


 その罪状は、半分だけ正しい。


 私は優しい令嬢ではなかった。


 王太子エリル殿下の婚約者として、彼が王になった後、実務を私が握る準備をしていた。


 財務官にも、法務官にも、近衛の一部にも、グリムハート家へ恩のある者を置いた。


 だってエリル殿下は、美しい顔と甘い言葉だけは上手だけれど、国を背負える器ではなかったから。


 彼には王冠をかぶって微笑んでいただき、面倒な政務は私が動かす。


 そのつもりだった。


 だから、王家を私物化しようとしたと言われれば、まったくの嘘ではない。


 けれど。


(国を売るつもりも、王家の金を奪うつもりも、なかったのだけれど)


 エリル殿下は、私を愛していなかった。


 それはいい。


 政略婚約だったし、私もまた、彼個人に恋をしていたわけではない。


 けれど殿下は、私の家門と王妃教育と社交界の力を散々利用したあと、もっと利用価値の高い女性へ乗り換えた。


 王国最大の商会を持つ侯爵家の令嬢、メリザ・ロズウェル。


 彼女が持つのは、甘い笑顔と、王家の借金を一晩で消せるほどの父親の財布。


 普通に婚約を破棄すれば、王太子の評判が落ちる。


 だからエリル殿下は、私を【王家を食い潰そうとした毒婦】にした。


 悪評の下地は、すでに私自身が作っていた。


 だから誰も、私を信じなかった。


(まあ……悪役令嬢としては、かなり見事な最期よね)


 私は胸を張った。


 遠くの貴賓席では、エリル殿下が安堵した顔をしている。


 その隣で、メリザ嬢が白いハンカチを目元へ当てていた。


 泣いているふりが上手い。


 あの方、私よりよほど悪女に向いているのではないだろうか。


「最後に言い残すことはあるか」


 処刑人に問われ、私は微笑んだ。


 前世で読んだ小説のヴィオレーヌも、たしかここで笑っていた。


 だから、私も笑う。


「私、今とても満足していますの」


 広場がざわめいた。


 エリル殿下が眉をひそめる。


 私は震える唇を、さらに美しく吊り上げた。


「だって、断頭台の上はこんなにも高いのでしょう? 最後に皆様を見下ろすには、ちょうどいい場所ですわ」


 罵声が、爆発した。


 でも構わない。


 悪役令嬢は、最後まで美しく憎まれなければならない。


 処刑人が、刃を落とすための縄へ手をかけた。


 私は目を閉じない。


 怖いけれど、閉じない。


 ヴィオレーヌは、泣かなかった。


 ヴィオレーヌは、逃げなかった。


 だから私も――。


「黒公爵だ……!」


 誰かの声が、広場の端で震えた。


 罵声がぴたりと止まる。


 空気が変わった。


 まるで、真昼の広場に夜が落ちたみたいだった。


 群衆が左右へ割れていく。


 その中央を、黒衣の男がゆっくりと歩いてきた。


 すみれ色の髪が、陽光を受けて不吉にきらめいている。


 果てしない引力で吸い込まれるような、冷たい黒い瞳。


 顔立ちはぞっとするほど整っているのに、微笑みは優しさから一番遠い。


(ノクス・ヴェルグレイヴ……)


 黒公爵。


 ヴェルグレイヴ家は、王国の処刑と断罪を司る古い公爵家だ。


 原作小説にも、彼は一度だけ登場する。


 ヴィオレーヌが処刑されたあと、彼女の遺品を買い取り、薄く笑って去っていく、不気味で美しい脇役。


 だから私は、彼を知っていた。


 けれど彼は、私を助ける人ではない。


 私の最期を、ただ見届ける人のはずだった。


「黒公爵。何をしに来た」


 貴賓席から、エリル殿下が苛立った声を上げる。


 ノクス様は、処刑台の下で足を止めた。


「買い物だ」


 短く告げられたその言葉に、広場がどよめいた。


 エリル殿下が顔をしかめる。


「買い物だと? 今は罪人の処刑中だ。ふざけるな」


「ふざけてなどいない。罪人の身柄は、刃が落ちるその瞬間まで王家の管理下にある。そして我がヴェルグレイヴ家には、死刑囚の身柄を買い取り、名と身分を処刑する権利がある。王国法典にも残っている、古臭く、悪趣味で、実に便利な特権だ」


 ノクス様は黒い手袋の指先で、一枚の羊皮紙を広げた。


 王家の印章が押されている。


 エリル殿下の顔色が変わった。


「まさか……」


「そのまさかだ」


 ノクス様は、王家の印章が押された羊皮紙を掲げ、薄く笑った。


「その処刑、私が買った」


 そして彼は、私を見上げた。


 冷たい黒い瞳が、断頭台の上の私をまっすぐに射抜く。


「ヴィオレーヌ・グリムハート。私は興味があるんだ。断頭台の上でも微笑める、君のその悪辣さに」


 悪辣。


 その言葉が、胸に甘く刺さった。


(悪辣……!)


 罵倒のはずなのに、なぜか褒め言葉に聞こえた。


 だって、そうでしょう。


 断頭台の上で、黒公爵に悪辣と呼ばれる悪役令嬢。


 なんて完成された絵面なの。


「何をしている」


 ノクス様が、処刑人へ視線を向ける。


「処刑を執行しろ」


 私は目を見開いた。


(えっ? これ、助かる流れじゃないの?)


 処刑人も戸惑っている。


 しかし、ヴェルグレイヴ家の命令は、処刑場において絶対らしい。


 重い刃が、ぎしりと音を立てた。


 エリル殿下が叫ぶ。


「やめろ! 勝手なことをするな!」


 ノクス様が笑う。


「遅い」


 刃が落ちた。


 風が鳴る。


 一瞬、世界が真っ白になった。


 けれど、痛みはなかった。


 私の首は、まだつながっている。


 代わりに、足元の木板へ、王家の印章が焼きつくように輝いた。


 役人が震える声で告げる。


「刑は……執行された。罪人ヴィオレーヌ・グリムハートは、ここに貴族籍、婚約、家名、財産、社交権を剥奪され……死亡したものと扱う」


 広場が、静まり返った。


 私は生きている。


 でも、ヴィオレーヌ・グリムハートという令嬢は、今ここで死んだ。


 ノクス様が処刑台へ上がってくる。


 黒い外套が、風に揺れた。


「気分はどうだ」


 彼は私の前で膝をつき、首にかかっていた拘束具を外した。


「……とても複雑ですわ。処刑されたのに生きているなんて、毒婦の末路としては少々締まりませんもの」


「文句を言う余裕があるなら十分だ。君の命は、今から私のものになった。逃げてもいいが、その場合は王家に返却することになる」


「それは困ります。二度目の処刑は、さすがに美しさが薄れますもの」


 ノクス様は、初めて少しだけ楽しそうに目を細めた。


「いい答えだ」


 彼は私の手を取った。


 処刑台の上で、黒公爵が罪人の手を取る。


 民衆は息を呑み、エリル殿下は憤怒で顔を赤くしていた。


 ノクス様は、そんなものには目もくれない。


「今日から君は、私の悪事に付き合え」


 私は処刑されたばかりの身であるにもかかわらず、胸が高鳴るのを止められなかった。


(推しの悪役令嬢が処刑台を降りて、黒公爵の共犯になる……?)


 なんてこと。


 原作にはなかった、完璧すぎる第二幕ではないか。




 ◇◆◇




 ヴェルグレイヴ公爵邸は、いかにも黒公爵の住まいらしい屋敷だった。


 門は高く、庭木は整いすぎていて怖い。


 廊下は磨き上げられているのに、なぜか明るさより影の方が似合う。


 案内された部屋には、黒い机と、分厚い帳簿と、嫌な予感しかしない契約書の山があった。


 ノクス様は外套を脱ぎ、椅子へ腰を下ろす。


「さて、ヴィオレーヌ。まずは君の罪について聞こう」


「エリル殿下がおっしゃった罪についてなら、私は王家の財を奪うつもりも、国を売るつもりもありませんでした。ただ、王太子妃になる者として相応しくない方々を厳しく退け、殿下が王になった後に実務を握る準備をしていたことは事実です」


「王太子を飾りにするつもりだったのか」


「はい。あの方に国政を任せれば、三年で国庫が空になると思いましたので」


 ノクス様は顎に手を当てた。


「なかなかの不敬だな」


「否定はいたしません。ですが、国を壊すよりは、無能な王を飾っておく方がまだ民のためでしょう?」


「君は自分の罪を、随分はっきり口にする」


「処刑台に立ったのですから、そこは認めるべきかと。私は優しい令嬢ではありません。敵対した相手を泣かせたこともありますし、婚約を白紙に戻させた家門もあります。私に紅茶をかけようとした方の実家とは、翌日から取引を止めました」


 ノクス様は、しばらく黙って私を見ていた。


「聞いていたより、ずっと面白い女だ。悪女と呼ぶには甘いが、善良と呼ぶには毒がある」


「甘い……?」


 私は思わず身を乗り出した。


 処刑台でも揺れなかった心が、そこで少し傷ついた。


「私、かなり頑張ったつもりだったのですが。ヴィオレーヌ・グリムハートという名に恥じないよう、誰にも媚びず、誰にも侮られない女であろうと必死でしたの」


「君は、自分の名前に支配されていたのか」


「支配ではありません。美学です」


 ノクス様は、声を殺して笑った。


「なるほど。君は本当に面白い。自分で作った檻へ、真面目に入っていたわけだ」


「檻ではありません。美学です。そこは、どうか譲れません」


「では、その美学とやらで私に協力してもらおう。王太子派の帳簿を一つずつ暴いていく。焼くのは紙ではない。彼らの逃げ道だ」


 私は胸の前で両手を握った。


「それは、たいへん物騒な響きですわね。黒公爵様の悪事を間近で学べるなんて、光栄です」


 ノクス様の眉が、わずかに動いた。


「ノクスだ」


「はい?」


「黒公爵ではない。ノクスと呼べ」


「ですが、私はあなたに買われた身ですし、そこまで馴れ馴れしくするのは」


「私が許す。君はこれから私の隣に立つ女だ。黒公爵の所有物ではなく、ノクス・ヴェルグレイヴの共犯としてな」


 心臓が、処刑台の上とは違う意味で跳ねた。


 私は一度、喉の奥で言葉を迷わせる。


 それから、そっと口にした。


「……ノクス様」


「それでいい」


 たったそれだけなのに、なぜか手を取られた時よりも胸が熱くなった。


 ノクス様は椅子の背へ身を預け、ほんの少しだけ口元を緩める。


「では、最初の授業だ。悪事とは、相手の欲しがるものを理解するところから始まる」


「はい」


「悪徳商人は金を欲しがる。横領貴族は保身を欲しがる。王太子は王冠を欲しがる。そして君は、自分が掲げる美学の完成を欲しがっている」


「言い方は少々引っかかりますが、否定はできません」


「ならば私は、君の欲を使う。君には私の隣で、誰よりも冷たい顔をしてもらう」


 私は背筋を伸ばした。


 処刑されたばかりの罪人とは思えないほど、心が弾んでいた。


「お任せくださいませ。笑顔で相手を追い詰めることには、そこそこ自信があります」


「そこそこで構わない。やりすぎそうになったら、私が止める」


「止めるのですか?」


「君は悪女ぶるわりに、妙なところで抜けている。放っておくと、敵を追い詰めたあとに手当てまでしそうだ」


「そんなことは……」


 言いかけて、思い出す。


 夜会で泣かせた令嬢に、あとで匿名の菓子折りを送った。


 婚約を白紙にさせた家門の令嬢には、もっと誠実な相手を紹介した。


 取引を止めた家とは、三日後に別口の商談を用意していた。


「……少しだけ、心当たりがあります」


「だろうな」


 ノクス様は笑った。


 その笑みは冷たく、悪い。


 なのに、不思議と怖くなかった。




 ◇◆◇




 それからの日々は、処刑台の上よりもずっと忙しかった。


 ノクス様のやり方は、非常に手際が良かった。


 横領していた伯爵には、夜会の真ん中で証拠の帳簿を贈った。


 民から巻き上げた税を隠していた役人には、その金額を一枚一枚リボンで結んで返還させた。


 王太子派の商人が水増しした請求書は、すべて孤児院への寄付証明書に変わった。


 やっていることは、どれも容赦がない。


 相手の逃げ道を塞ぎ、泣き落としを許さず、にっこり笑って恥をかかせる。


 私は隣で扇を広げ、なるべく冷酷に微笑んだ。


「まあ、伯爵様。民のために預かったお金を別荘に変えるなんて、ずいぶん斬新な慈善ですこと。きっと民も喜びますわ。ご自分たちの血税が、こんなに眺めのよいバルコニーになったのだと知れば」


 伯爵は真っ青になった。


 ノクス様は隣で静かに頷く。


「いい嫌味だ。少し回りくどいが、相手の心臓には届いている」


「本当ですか? 少しはそれらしく見えましたか?」


「嬉しそうに聞くな」


 そう言いながら、ノクス様は私の手を取った。


 私の指先は少し震えていたらしい。


 彼はそれを、黒い手袋越しに包み込む。


「悪女なら、震えている手を隠せ」


「……これは、悪女の作法ですか?」


「そういうことにしておけ」


 その言い方がずるい。


 私は胸の奥がふわりと温かくなるのを、必死で扇の陰へ隠した。


 ノクス様は、私を観察している。


 最初は、そう思っていた。


 彼は私の悪辣さに興味を持ち、処刑台から買い取った。


 だから私は、彼の期待に応えなければならない。


 美しく、気高く、誰にも侮られない女として。


 誰にも媚びず、誰にも縋らず。


 そう思っているのに、ノクス様は時々、ひどく困ったことをする。


 寒い朝には、当然のように外套をかけてくる。


 馬車で揺れた時には、私の肩を抱いて支える。


 疲れているのを隠していれば、書類を取り上げて休ませる。


 そして、私が「悪女はこのくらいでは疲れません」と言うと、彼は黒い瞳を細めて、低く囁くのだ。


「では命令だ。私の共犯が倒れるのは不愉快だから、休め」


 共犯。


 普通なら恐れるべき言葉なのかもしれない。


 でも、処刑台で一度すべてを失った私には、その言葉が不思議と甘かった。


 誰のものでもなくなった私を、彼だけが当然のように呼んでくれる。


 ヴィオレーヌ、と。




 ◇◆◇




 夕暮れ時の街は、金色に染まっていた。


 作戦会議、という名目で連れ出されたはずなのに、私の手には冷たい氷菓がある。


 しかも隣には、夕日にすみれ色の髪を透かしたノクス様がいる。


 その黒い瞳が、私の口元をじっと見ていた。


「ヴィオレーヌ。君は作戦会議中にまで、そんなに無防備な顔で氷菓を食べるのか」


「これは情報収集ですわ。街の菓子店の味を知らずして、民の暮らしを把握できるはずがありません」


「なるほど。では、情報が口元についている」


 ノクス様は黒い手袋を外し、私の唇の端についた氷菓を指先でそっと拭った。


 そして、そのまま何のためらいもなく舐め取る。


「……甘いな」


 私の思考は、一瞬で停止した。


(こ、これが……黒公爵様の作戦会議……!)


 心臓がうるさい。


 氷菓を食べているはずなのに、頬だけが熱い。


 私は慌てて視線を逸らし、沈みかける夕日を見つめた。


 街角には、花売りの少女がいた。


 白い花を抱え、柔らかな笑顔で客に花を差し出している。


 その姿があまりにも穏やかで、あまりにも眩しくて。


 気づけば、私はぽつりと呟いていた。


「私は、普通にも生きてみたい」


 ノクス様が、わずかに目を細める。


「普通か。君の口から、その言葉が出るとは思わなかったな」


「……時折、憧れるのです。美しい令嬢のように、綺麗な花を摘んで、綺麗なドレスを着て、誰も傷つけず、誰にも恐れられず、ふわふわと笑って立ち回ることに」


 言ってから、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 私はヴィオレーヌだ。


 前世で愛した、気高く、美しく、断頭台の上でも微笑んだ悪役令嬢。


 だから後悔してはいけない。


 弱音を吐いてはいけない。


 そう思っていたのに。


 隣で、ノクス様が小さく息を漏らした。


「……ふ」


「ノクス様?」


「……くくっ」


 肩が揺れている。


 それから彼は、とうとう堪えきれなくなったように笑った。


「はははっ」


「ど、どうして笑うのですか! 私はかなり真剣に悩んでいるのですが!」


「いや、悪い。けれど、あまりにも君らしくない願いだったからな。花を摘んで、ふわふわと笑うヴィオレーヌか。想像しようとしたが、どうにも無理だった」


「……似合わない、ということですか?」


 少しだけ、胸が沈む。


 するとノクス様は笑みを消し、私を真っ直ぐに見た。


「違う。似合わないのではなく、足りないんだ」


「足りない、とは……どういう意味でしょう」


「君は花を摘んで笑うだけの女ではない。綺麗なドレスを着て、誰にも嫌われないように息をひそめるだけの女でもない。君の中にある美学は、そんな無害な幸福ひとつで揺らぐほど、安いものなのか?」


 私は息を呑んだ。


 ノクス様の声は、夕暮れの風より静かだった。


 それなのに、断頭台の刃より深く胸に落ちてくる。


「花のように無害でなくていい。誰からも愛される可憐な令嬢でなくていい。君はただ、悪辣に、気高く、自信満々に、今までの君でいればいい」


 ノクス様の黒い瞳が、夕暮れの中で静かに光る。


「その方が、ずっと美しい」


 そして彼は、少しだけ低い声で続けた。


「それこそが、君だ」


 胸の奥で、何かが音を立てて落ちた。


 断頭台で首を差し出した時よりも。


 エリル殿下に裏切られた時よりも。


 ノクス様に買われた時よりも。


 ずっと深く、ずっと静かに。


 私は今日、彼に恋をした。




 ◇◆◇




 恋をしたからといって、日々が急に甘くなるわけではない。


 むしろ、私は以前より忙しくなった。


 ノクス様は、王太子エリル殿下を追い詰める準備を進めていた。


 王家の財政難。


 ロズウェル商会との裏取引。


 私を処刑することで、婚約破棄の責任をなかったことにしようとした証拠。


 私が実際に王宮内へ人を配置していた事実まで利用し、すべてを【王家を食い潰す陰謀】に仕立て上げた記録。


 細かい書類の山を前に、私は頭が痛くなった。


「ノクス様。これは悪事というより、地味な下準備ではありませんか?」


「悪事の大半は地味な下準備だ。派手に笑うだけで人を追い詰められるなら苦労はしない」


「夢がありませんわ」


「君はこういうものに夢を見すぎだ」


 そう言いながらも、ノクス様は私の前へ温かい紅茶を置いてくれる。


「冷める前に飲め。毒婦でも書類仕事には糖分がいる」


「ノクス様は、私を甘やかしている自覚がありますか?」


「甘やかしてはいない。使える共犯を丁寧に磨いているだけだ」


「共犯に焼き菓子までつけるのですか?」


「私の共犯は待遇がいい」


 私は笑ってしまった。


 ノクス様は、それを見て少しだけ満足そうにする。


 恋をしたせいだろうか。


 彼の小さな変化に、いちいち気づいてしまう。


 私が笑うと、彼の視線が柔らかくなること。


 私が疲れると、彼の声が少し低くなること。


 私が上手く笑えずに落ち込むと、彼が必ず「君らしかった」と返してくれること。


 私はもう、断頭台の上で一人きりだったヴィオレーヌではない。


 そう思うたびに、胸の奥が甘く痛んだ。




 ◇◆◇




 反撃の日は、王宮の夜会に決まった。


 エリル殿下とメリザ嬢の婚約披露を兼ねた、華やかな宴。


 死んだはずの私が現れるには、これ以上ない舞台だった。


 私は黒いドレスを選んだ。


 喪服のようで、夜会服のようで、処刑台の影をそのまままとったようなドレス。


 鏡の前で深呼吸していると、背後からノクス様が近づいてきた。


「よく似合っている」


「恐ろしく見えますか?」


「とても。今夜の君を見れば、王太子は悪夢を見るだろう」


「それは最高の褒め言葉ですわ」


 私は微笑んだ。


 ノクス様はその隣に立つ。


 黒い礼服のせいで、彼の瞳はいっそう深く見えた。


「怖いか」


 彼が尋ねた。


 私は少し考えてから、正直に頷く。


「怖いです。私は断頭台で一度死んだはずなのに、また皆の前に立とうとしている。きっと罵られますし、笑われますし、エリル殿下は私を見て怒るでしょう」


「逃げるか」


「いいえ」


 私は扇を開いた。


 黒い扇の陰で、唇を吊り上げる。


「だって私は、ヴィオレーヌですもの。舞台が用意されているなら、最悪の登場をしてこそでしょう?」


 ノクス様が、低く笑った。


「やはり君は、私が買って正解だった」


 その言葉だけで、怖さが半分溶けた。




 ◇◆◇




 夜会場に私が現れた瞬間、音楽が乱れた。


 誰かがグラスを落とした。


 悲鳴が上がる。


「ヴィオレーヌ……?」


「死んだはずでは……」


「黒公爵の隣にいるぞ……!」


 私はゆっくりと会場を歩いた。


 黒い扇を片手に、背筋を伸ばして、誰よりも堂々と。


 隣にはノクス様がいる。


 それだけで、もう何も怖くなかった。


 正面の壇上では、エリル殿下が凍りついた顔をしていた。


 その隣で、メリザ嬢が真っ青になっている。


「なぜ、お前がここにいる」


 エリル殿下の声は震えていた。


 私は優雅に膝を折る。


「ご機嫌よう、エリル殿下。処刑された女が夜会に現れるなんて、趣味の悪い余興でしょう?」


「黙れ! お前は罪人だ。もう貴族でも何でもない!」


「ええ、その通りです。ヴィオレーヌ・グリムハートは、あの日たしかに処刑されました。ですから今ここにいる私は、王太子殿下の元婚約者でも、グリムハート家の令嬢でもありません」


 私はちらりとノクス様を見る。


 彼は静かに微笑んだ。


「ここにいるのは、私が買った女だ。王太子殿下が一度捨てたものを、私が拾った。それだけの話だ」


 会場がざわめく。


 エリル殿下の顔が怒りで歪んだ。


「ふざけるな。そんな女に何の価値がある!」


「価値が分からないから、君は捨てたのだろう」


 ノクス様の声は淡々としている。


 それがかえって、刃のように鋭かった。


「では今夜は、君が捨てたものの価値を見せてやる」


 ノクス様が指を鳴らした。


 会場の扉が開く。


 入ってきたのは、王太子派だったはずの貴族たち。


 そして、青ざめた王宮書記官。


 さらに、ロズウェル商会の金庫番だった。


 彼らは震えながら、次々に証言を始めた。


 王家の財を勝手に動かしていたこと。


 ロズウェル商会から王太子個人へ、多額の金が流れていたこと。


 私を処刑すれば、婚約破棄の賠償も、王太子の失態も、すべて消せると話していたこと。


 そして、私が王宮内へ配置した者たちの名簿に、エリル殿下側が勝手に不正送金の記録を書き足していたこと。


 エリル殿下が叫ぶ。


「嘘だ! 全て黒公爵のでっち上げだ!」


 ノクス様は、つまらなそうに首を傾けた。


「でっち上げか。では、これは何だ?」


 従者が銀盆を差し出した。


 そこに乗っていたのは、一冊の帳簿。


 エリル殿下の顔から、血の気が引いた。


「なぜ、それがここに……」


 会場が静まり返る。


 ノクス様が、薄く笑った。


「それが何か、分かるのか」


 エリル殿下の唇が、ひくりと震えた。


 メリザ嬢が、慌てて叫ぶ。


「わ、私は知りません! 私はただ、殿下から『ヴィオレーヌさえ消えれば、君が王太子妃だ』と……!」


 言い終える前に、彼女は自分の口を押さえた。


 遅い。


 あまりにも、遅い。


 会場中の視線が、エリル殿下とメリザ嬢に突き刺さった。


 私は扇を閉じた。


「エリル殿下。私はたしかに優しい婚約者ではありませんでした。あなたに近づく令嬢を牽制し、社交界で敵を作り、王太子妃に相応しくあろうとして、多くの方に恐れられました」


 会場が静まる。


「それだけではありません。あなたが王になった後、私が政務を握る準備をしていたことも事実です。あなたを飾りの王にするつもりだったと責められれば、否定はできません」


 エリル殿下の目に、わずかな勝ち色が戻る。


 私はその勝ち色ごと、踏み潰すように微笑んだ。


「けれど、私が欲しかったのは国の実権です。あなたが欲しかったのは、王冠につける値札だった。王家の財を奪ったのはあなたです。王太子妃の席をロズウェル商会へ売ろうとしたのもあなたです。自分の借金と裏切りまで、私に背負わせられると思わないでくださいませ」


 エリル殿下が歯ぎしりする。


「お前は私の婚約者だった女だ! 私に逆らえる立場だと思うな!」


 その瞬間。


 ノクス様が、一歩前に出た。


 空気が凍る。


 彼の黒い瞳が、エリル殿下を冷たく見下ろした。


「貴様は要らない」


 低い声だった。


 けれど会場の隅まで、はっきり届いた。


「私とヴィオレーヌの世界にはな」


 心臓が、大きく跳ねた。


 私と、ヴィオレーヌの世界。


 その言葉は、エリル殿下への断罪であると同時に、私への告白のように響いた。


 エリル殿下が、怒りと屈辱で顔を歪める。


「黒公爵ごときが、王太子である私に――」


「その王太子という名を、今から処刑する」


 ノクス様が告げた。


 その夜、華やかな婚約披露の宴は、王太子エリルの断罪の場へと変わった。




 ◇◆◇




 再び断頭台が用意されたのは、三日後の朝だった。


 かつて私が立った場所に、今度はエリル殿下が立っていた。


 ただし、首を落とすためではない。


 彼が失うのは、命ではなく、王太子という名だった。


「やめろ! 私は王太子だぞ!」


 エリル殿下が叫ぶ。


 広場に集まった民衆は、以前とは違って静かだった。


 誰も罵声を飛ばさない。


 ただ、見ている。


 自分たちを欺いた男が、何を失うのかを。


 役人が罪状を読み上げる。


 王家の財を私物化した罪。


 実際の罪以上の罪状を私へ着せ、処刑によって婚約破棄の責任を隠そうとした罪。


 王太子の地位を利用し、ロズウェル商会と不正な取引を行った罪。


 メリザ嬢とロズウェル侯爵家も、すでに取り調べを受けている。


 メリザ嬢は泣き崩れ、父親に責任を押しつけようとしたらしい。


 けれど、金で王太子妃の座を買おうとした事実は消えない。


 ロズウェル商会は王家との取引を停止され、侯爵家は王都から追放された。


 甘い笑顔も、白いハンカチも、今度は誰も信じなかった。


 私はノクス様の隣に立っていた。


 黒いドレスを着て、背筋を伸ばして。


 エリル殿下が私を見つけ、縋るように叫ぶ。


「ヴィオレーヌ! 助けろ! お前は私の婚約者だっただろう!」


 私は扇を開き、微笑んだ。


「嫌ですわ、エリル殿下。私は処刑された女ですもの。死んだ婚約者に縋るなんて、ずいぶん趣味が悪いですわね」


 ノクス様が、隣で小さく笑った。


「いい毒だ」


「ありがとうございます。練習の成果です」


 エリル殿下の顔が絶望に染まる。


 刃が落ちた。


 首は落ちない。


 けれど、王太子エリルという男は、その場で死んだ。


 王位継承権。


 王族としての名。


 財産。


 権力。


 婚約。


 誰かを見下ろすために使ってきた全て。


 それらが、処刑台の上で切り落とされた。


 役人が告げる。


「エリル・アルヴァーンは王籍を剥奪。以後、王族を名乗ることを禁ずる。身分なき罪人として、辺境の労役場へ送る」


 エリル殿下だった男が、膝から崩れ落ちた。


「そんな……私は、王に……王になるはずだった……」


 誰も答えない。


 誰も手を差し伸べない。


 かつて私から名を奪った男が、今度は自分の名を奪われている。


 その光景は、ひどく静かで、ひどく美しかった。


 ノクス様はゆっくりと処刑台へ近づき、彼を見下ろす。


 そして、冷たく、美しく、悪趣味に微笑んだ。


「おめでとう。これで晴れて貴様も生まれ変われたな」


 あの日、私は処刑されて自由になった。


 今日、彼は処刑されて何者でもなくなった。


 なんて皮肉で、なんて美しい幕引きだろう。


 悪役令嬢として、少し感動してしまう。




 ◇◆◇




 その日の夕暮れ。


 私はまた、ノクス様と街を歩いていた。


 作戦会議はもう終わったはずなのに、なぜか私の手にはまた氷菓がある。


「ノクス様。これは何の会議でしょうか」


「今後の方針についての重要な会議だ。君が次に何を食べたいか、決めておく必要がある」


「それは……たいへん重要ですわね。国家の未来に関わりますもの」


「少なくとも、私の機嫌には関わる」


 私は笑った。


 処刑台の上では、笑うことに必死だった。


 悪役令嬢として、美しく笑わなければと自分に命じていた。


 でも今は違う。


 隣にノクス様がいる。


 だから、自然に笑える。


「私、少しはあなたの隣に立つ女らしくなれたでしょうか」


 そう尋ねると、ノクス様はしばらく黙った。


 そして、ひどく意地悪な顔で言った。


「いいや。まだまだだな」


「なっ……! ここまで頑張った私に、あんまりなお言葉ではありませんか!」


「仕方ないだろう。君は毒婦らしく振る舞うたび、なぜか誰かを救っている。悪女としては致命的な欠陥だ」


「それは……結果的にそうなっただけです。私はきちんと恐れられるように振る舞っているつもりで」


「だから面白い」


 ノクス様は足を止めた。


 夕暮れの光が、彼のすみれ色の髪を淡く照らす。


 黒い瞳が、私だけを映していた。


「君は悪女であろうとして、気高くなる。人を突き放そうとして、最後には拾ってしまう。断頭台で笑いながら、本当は誰よりも生きたがっていた」


 胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「それが君だ、ヴィオレーヌ」


 私は言葉を失った。


 あの日と同じ言葉。


 私が彼に恋をした時と同じ、何より深く私を肯定する言葉。


 ノクス様は黒い手袋を外し、私の手を取った。


「私は、君のその悪辣さに興味を持った」


「……はい」


「だが今は、君の全部が欲しい。悪女であろうとするところも、普通に憧れるところも、震えながら笑うところも、氷菓を口元につけて平然としているところも、全部だ」


 心臓が、うるさい。


 私は断頭台でも泣かなかったのに、今は泣きそうだった。


「それは、私をまた買いたいという意味ですか?」


「いいや」


 ノクス様は、私の指先へ唇を落とした。


 処刑台の上で取られた手。


 悪事の最中に震えを隠してくれた手。


 夕暮れの街で、何度も隣を歩いた手。


 その手を、彼は宝物みたいに持っている。


「今度は、君に選んでほしい」


 私は息を呑んだ。


 黒公爵ノクス・ヴェルグレイヴ。


 原作では、私の遺品を買って去るだけだった不吉な脇役。


 けれど今、彼は私の前に立ち、私の返事を待っている。


 悪役令嬢は、断頭台の上でも美しくなければならない。


 でも、恋をした悪役令嬢はどうすればいいのだろう。


 少し迷ってから、私は扇を閉じた。


 そして、最高に悪い笑みを浮かべる。


「ノクス様。私は一度、処刑された女です。家名も財産も社交界の席も失いました。そんな私を隣に置くなんて、きっと皆様はあなたをますます恐れるでしょうね」


「構わない」


「私も、あなたの隣にいれば、きっとまた多くの方に恐れられます。黒公爵に寄り添う毒婦だと噂されますわ」


「望むところだ」


「では、仕方ありませんね」


 私は彼の手を握り返した。


「今度は、私が選びます。ノクス様、どうか私をあなたの隣に置いてください」


 ノクス様の黒い瞳が、わずかに揺れた。


 それから彼は、これまでで一番悪く、一番甘く笑った。


「君は本当に、私を退屈させない」


「それは褒め言葉ですか?」


「最大級のな」


 彼が顔を近づける。


 私は逃げなかった。


 唇が触れる直前、ノクス様が低く囁く。


「ヴィオレーヌ。君はもう、断頭台で笑わなくていい」


「では、どこで笑えばよろしいのですか?」


「私の隣だ」


 その言葉が、あまりにも自然に胸へ落ちた。


 だから私は笑った。


 少し悪く。


 気高く。


 自信満々に。


 そしてたぶん、少しだけ幸せそうに。


 触れた口づけは、氷菓よりずっと甘かった。


 前世で読んだ小説に、こんな結末はなかった。


 処刑されたはずの悪役令嬢が、黒公爵に買われる場面も。


 悪事のつもりで誰かを救ってしまう日々も。


 夕暮れの街で恋に落ちる瞬間も。


 私を私のまま肯定してくれる人に、手を引かれて歩く未来も。


 全部、原作にはなかった。


 だからこれは、私だけの物語だ。


 悪役令嬢は、悪役公爵に恋をする。


 けれどそれは、前世で読んだ物語に書かれていた運命ではない。


 私が、自分で選んだ結末だった。




お読みいただきありがとうございました。


原作小説では、ノクスはヴィオレーヌの処刑後に遺品を買い取って去るだけの脇役でした。


けれど今回は、遺品ではなく処刑そのものを買ってもらいました。


断頭台の上でも美しくあろうとしたヴィオレーヌと、そんな彼女をそのまま肯定する黒公爵のお話でした。

少しでも楽しんでいただけましたら嬉しいです。

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