処刑寸前の悪役令嬢は、処刑を止めない悪役公爵に恋をする
悪役令嬢は、断頭台の上でも美しくなければならない。
少なくとも私は、そう信じていた。
だから、首筋に冷たい刃の影が落ちても、泣かなかった。
膝は震えている。
喉はからからに乾いている。
逃げたい。怖い。嫌だ。死にたくない。
そんな情けない本音を、私は真っ赤な唇の下へ押し込めた。
だって私は、ヴィオレーヌ・グリムハート。
前世で読んだ小説の中で、誰からも嫌われ、誰にも許されず、それでも最後まで気高く笑って死んだ、私が誰より愛した悪役令嬢なのだから。
「罪人ヴィオレーヌ・グリムハート。王太子妃となる立場を利用し、王家を私物化しようとした大罪により、ここに死をもって罰する」
処刑台の下で、役人が罪状を読み上げる。
広場を埋め尽くす民衆から、罵声が飛んだ。
「毒婦め!」
「黒薔薇の令嬢が、ようやく裁かれるぞ!」
「王太子殿下をたぶらかした女だ!」
その罪状は、半分だけ正しい。
私は優しい令嬢ではなかった。
王太子エリル殿下の婚約者として、彼が王になった後、実務を私が握る準備をしていた。
財務官にも、法務官にも、近衛の一部にも、グリムハート家へ恩のある者を置いた。
だってエリル殿下は、美しい顔と甘い言葉だけは上手だけれど、国を背負える器ではなかったから。
彼には王冠をかぶって微笑んでいただき、面倒な政務は私が動かす。
そのつもりだった。
だから、王家を私物化しようとしたと言われれば、まったくの嘘ではない。
けれど。
(国を売るつもりも、王家の金を奪うつもりも、なかったのだけれど)
エリル殿下は、私を愛していなかった。
それはいい。
政略婚約だったし、私もまた、彼個人に恋をしていたわけではない。
けれど殿下は、私の家門と王妃教育と社交界の力を散々利用したあと、もっと利用価値の高い女性へ乗り換えた。
王国最大の商会を持つ侯爵家の令嬢、メリザ・ロズウェル。
彼女が持つのは、甘い笑顔と、王家の借金を一晩で消せるほどの父親の財布。
普通に婚約を破棄すれば、王太子の評判が落ちる。
だからエリル殿下は、私を【王家を食い潰そうとした毒婦】にした。
悪評の下地は、すでに私自身が作っていた。
だから誰も、私を信じなかった。
(まあ……悪役令嬢としては、かなり見事な最期よね)
私は胸を張った。
遠くの貴賓席では、エリル殿下が安堵した顔をしている。
その隣で、メリザ嬢が白いハンカチを目元へ当てていた。
泣いているふりが上手い。
あの方、私よりよほど悪女に向いているのではないだろうか。
「最後に言い残すことはあるか」
処刑人に問われ、私は微笑んだ。
前世で読んだ小説のヴィオレーヌも、たしかここで笑っていた。
だから、私も笑う。
「私、今とても満足していますの」
広場がざわめいた。
エリル殿下が眉をひそめる。
私は震える唇を、さらに美しく吊り上げた。
「だって、断頭台の上はこんなにも高いのでしょう? 最後に皆様を見下ろすには、ちょうどいい場所ですわ」
罵声が、爆発した。
でも構わない。
悪役令嬢は、最後まで美しく憎まれなければならない。
処刑人が、刃を落とすための縄へ手をかけた。
私は目を閉じない。
怖いけれど、閉じない。
ヴィオレーヌは、泣かなかった。
ヴィオレーヌは、逃げなかった。
だから私も――。
「黒公爵だ……!」
誰かの声が、広場の端で震えた。
罵声がぴたりと止まる。
空気が変わった。
まるで、真昼の広場に夜が落ちたみたいだった。
群衆が左右へ割れていく。
その中央を、黒衣の男がゆっくりと歩いてきた。
すみれ色の髪が、陽光を受けて不吉にきらめいている。
果てしない引力で吸い込まれるような、冷たい黒い瞳。
顔立ちはぞっとするほど整っているのに、微笑みは優しさから一番遠い。
(ノクス・ヴェルグレイヴ……)
黒公爵。
ヴェルグレイヴ家は、王国の処刑と断罪を司る古い公爵家だ。
原作小説にも、彼は一度だけ登場する。
ヴィオレーヌが処刑されたあと、彼女の遺品を買い取り、薄く笑って去っていく、不気味で美しい脇役。
だから私は、彼を知っていた。
けれど彼は、私を助ける人ではない。
私の最期を、ただ見届ける人のはずだった。
「黒公爵。何をしに来た」
貴賓席から、エリル殿下が苛立った声を上げる。
ノクス様は、処刑台の下で足を止めた。
「買い物だ」
短く告げられたその言葉に、広場がどよめいた。
エリル殿下が顔をしかめる。
「買い物だと? 今は罪人の処刑中だ。ふざけるな」
「ふざけてなどいない。罪人の身柄は、刃が落ちるその瞬間まで王家の管理下にある。そして我がヴェルグレイヴ家には、死刑囚の身柄を買い取り、名と身分を処刑する権利がある。王国法典にも残っている、古臭く、悪趣味で、実に便利な特権だ」
ノクス様は黒い手袋の指先で、一枚の羊皮紙を広げた。
王家の印章が押されている。
エリル殿下の顔色が変わった。
「まさか……」
「そのまさかだ」
ノクス様は、王家の印章が押された羊皮紙を掲げ、薄く笑った。
「その処刑、私が買った」
そして彼は、私を見上げた。
冷たい黒い瞳が、断頭台の上の私をまっすぐに射抜く。
「ヴィオレーヌ・グリムハート。私は興味があるんだ。断頭台の上でも微笑める、君のその悪辣さに」
悪辣。
その言葉が、胸に甘く刺さった。
(悪辣……!)
罵倒のはずなのに、なぜか褒め言葉に聞こえた。
だって、そうでしょう。
断頭台の上で、黒公爵に悪辣と呼ばれる悪役令嬢。
なんて完成された絵面なの。
「何をしている」
ノクス様が、処刑人へ視線を向ける。
「処刑を執行しろ」
私は目を見開いた。
(えっ? これ、助かる流れじゃないの?)
処刑人も戸惑っている。
しかし、ヴェルグレイヴ家の命令は、処刑場において絶対らしい。
重い刃が、ぎしりと音を立てた。
エリル殿下が叫ぶ。
「やめろ! 勝手なことをするな!」
ノクス様が笑う。
「遅い」
刃が落ちた。
風が鳴る。
一瞬、世界が真っ白になった。
けれど、痛みはなかった。
私の首は、まだつながっている。
代わりに、足元の木板へ、王家の印章が焼きつくように輝いた。
役人が震える声で告げる。
「刑は……執行された。罪人ヴィオレーヌ・グリムハートは、ここに貴族籍、婚約、家名、財産、社交権を剥奪され……死亡したものと扱う」
広場が、静まり返った。
私は生きている。
でも、ヴィオレーヌ・グリムハートという令嬢は、今ここで死んだ。
ノクス様が処刑台へ上がってくる。
黒い外套が、風に揺れた。
「気分はどうだ」
彼は私の前で膝をつき、首にかかっていた拘束具を外した。
「……とても複雑ですわ。処刑されたのに生きているなんて、毒婦の末路としては少々締まりませんもの」
「文句を言う余裕があるなら十分だ。君の命は、今から私のものになった。逃げてもいいが、その場合は王家に返却することになる」
「それは困ります。二度目の処刑は、さすがに美しさが薄れますもの」
ノクス様は、初めて少しだけ楽しそうに目を細めた。
「いい答えだ」
彼は私の手を取った。
処刑台の上で、黒公爵が罪人の手を取る。
民衆は息を呑み、エリル殿下は憤怒で顔を赤くしていた。
ノクス様は、そんなものには目もくれない。
「今日から君は、私の悪事に付き合え」
私は処刑されたばかりの身であるにもかかわらず、胸が高鳴るのを止められなかった。
(推しの悪役令嬢が処刑台を降りて、黒公爵の共犯になる……?)
なんてこと。
原作にはなかった、完璧すぎる第二幕ではないか。
◇◆◇
ヴェルグレイヴ公爵邸は、いかにも黒公爵の住まいらしい屋敷だった。
門は高く、庭木は整いすぎていて怖い。
廊下は磨き上げられているのに、なぜか明るさより影の方が似合う。
案内された部屋には、黒い机と、分厚い帳簿と、嫌な予感しかしない契約書の山があった。
ノクス様は外套を脱ぎ、椅子へ腰を下ろす。
「さて、ヴィオレーヌ。まずは君の罪について聞こう」
「エリル殿下がおっしゃった罪についてなら、私は王家の財を奪うつもりも、国を売るつもりもありませんでした。ただ、王太子妃になる者として相応しくない方々を厳しく退け、殿下が王になった後に実務を握る準備をしていたことは事実です」
「王太子を飾りにするつもりだったのか」
「はい。あの方に国政を任せれば、三年で国庫が空になると思いましたので」
ノクス様は顎に手を当てた。
「なかなかの不敬だな」
「否定はいたしません。ですが、国を壊すよりは、無能な王を飾っておく方がまだ民のためでしょう?」
「君は自分の罪を、随分はっきり口にする」
「処刑台に立ったのですから、そこは認めるべきかと。私は優しい令嬢ではありません。敵対した相手を泣かせたこともありますし、婚約を白紙に戻させた家門もあります。私に紅茶をかけようとした方の実家とは、翌日から取引を止めました」
ノクス様は、しばらく黙って私を見ていた。
「聞いていたより、ずっと面白い女だ。悪女と呼ぶには甘いが、善良と呼ぶには毒がある」
「甘い……?」
私は思わず身を乗り出した。
処刑台でも揺れなかった心が、そこで少し傷ついた。
「私、かなり頑張ったつもりだったのですが。ヴィオレーヌ・グリムハートという名に恥じないよう、誰にも媚びず、誰にも侮られない女であろうと必死でしたの」
「君は、自分の名前に支配されていたのか」
「支配ではありません。美学です」
ノクス様は、声を殺して笑った。
「なるほど。君は本当に面白い。自分で作った檻へ、真面目に入っていたわけだ」
「檻ではありません。美学です。そこは、どうか譲れません」
「では、その美学とやらで私に協力してもらおう。王太子派の帳簿を一つずつ暴いていく。焼くのは紙ではない。彼らの逃げ道だ」
私は胸の前で両手を握った。
「それは、たいへん物騒な響きですわね。黒公爵様の悪事を間近で学べるなんて、光栄です」
ノクス様の眉が、わずかに動いた。
「ノクスだ」
「はい?」
「黒公爵ではない。ノクスと呼べ」
「ですが、私はあなたに買われた身ですし、そこまで馴れ馴れしくするのは」
「私が許す。君はこれから私の隣に立つ女だ。黒公爵の所有物ではなく、ノクス・ヴェルグレイヴの共犯としてな」
心臓が、処刑台の上とは違う意味で跳ねた。
私は一度、喉の奥で言葉を迷わせる。
それから、そっと口にした。
「……ノクス様」
「それでいい」
たったそれだけなのに、なぜか手を取られた時よりも胸が熱くなった。
ノクス様は椅子の背へ身を預け、ほんの少しだけ口元を緩める。
「では、最初の授業だ。悪事とは、相手の欲しがるものを理解するところから始まる」
「はい」
「悪徳商人は金を欲しがる。横領貴族は保身を欲しがる。王太子は王冠を欲しがる。そして君は、自分が掲げる美学の完成を欲しがっている」
「言い方は少々引っかかりますが、否定はできません」
「ならば私は、君の欲を使う。君には私の隣で、誰よりも冷たい顔をしてもらう」
私は背筋を伸ばした。
処刑されたばかりの罪人とは思えないほど、心が弾んでいた。
「お任せくださいませ。笑顔で相手を追い詰めることには、そこそこ自信があります」
「そこそこで構わない。やりすぎそうになったら、私が止める」
「止めるのですか?」
「君は悪女ぶるわりに、妙なところで抜けている。放っておくと、敵を追い詰めたあとに手当てまでしそうだ」
「そんなことは……」
言いかけて、思い出す。
夜会で泣かせた令嬢に、あとで匿名の菓子折りを送った。
婚約を白紙にさせた家門の令嬢には、もっと誠実な相手を紹介した。
取引を止めた家とは、三日後に別口の商談を用意していた。
「……少しだけ、心当たりがあります」
「だろうな」
ノクス様は笑った。
その笑みは冷たく、悪い。
なのに、不思議と怖くなかった。
◇◆◇
それからの日々は、処刑台の上よりもずっと忙しかった。
ノクス様のやり方は、非常に手際が良かった。
横領していた伯爵には、夜会の真ん中で証拠の帳簿を贈った。
民から巻き上げた税を隠していた役人には、その金額を一枚一枚リボンで結んで返還させた。
王太子派の商人が水増しした請求書は、すべて孤児院への寄付証明書に変わった。
やっていることは、どれも容赦がない。
相手の逃げ道を塞ぎ、泣き落としを許さず、にっこり笑って恥をかかせる。
私は隣で扇を広げ、なるべく冷酷に微笑んだ。
「まあ、伯爵様。民のために預かったお金を別荘に変えるなんて、ずいぶん斬新な慈善ですこと。きっと民も喜びますわ。ご自分たちの血税が、こんなに眺めのよいバルコニーになったのだと知れば」
伯爵は真っ青になった。
ノクス様は隣で静かに頷く。
「いい嫌味だ。少し回りくどいが、相手の心臓には届いている」
「本当ですか? 少しはそれらしく見えましたか?」
「嬉しそうに聞くな」
そう言いながら、ノクス様は私の手を取った。
私の指先は少し震えていたらしい。
彼はそれを、黒い手袋越しに包み込む。
「悪女なら、震えている手を隠せ」
「……これは、悪女の作法ですか?」
「そういうことにしておけ」
その言い方がずるい。
私は胸の奥がふわりと温かくなるのを、必死で扇の陰へ隠した。
ノクス様は、私を観察している。
最初は、そう思っていた。
彼は私の悪辣さに興味を持ち、処刑台から買い取った。
だから私は、彼の期待に応えなければならない。
美しく、気高く、誰にも侮られない女として。
誰にも媚びず、誰にも縋らず。
そう思っているのに、ノクス様は時々、ひどく困ったことをする。
寒い朝には、当然のように外套をかけてくる。
馬車で揺れた時には、私の肩を抱いて支える。
疲れているのを隠していれば、書類を取り上げて休ませる。
そして、私が「悪女はこのくらいでは疲れません」と言うと、彼は黒い瞳を細めて、低く囁くのだ。
「では命令だ。私の共犯が倒れるのは不愉快だから、休め」
共犯。
普通なら恐れるべき言葉なのかもしれない。
でも、処刑台で一度すべてを失った私には、その言葉が不思議と甘かった。
誰のものでもなくなった私を、彼だけが当然のように呼んでくれる。
ヴィオレーヌ、と。
◇◆◇
夕暮れ時の街は、金色に染まっていた。
作戦会議、という名目で連れ出されたはずなのに、私の手には冷たい氷菓がある。
しかも隣には、夕日にすみれ色の髪を透かしたノクス様がいる。
その黒い瞳が、私の口元をじっと見ていた。
「ヴィオレーヌ。君は作戦会議中にまで、そんなに無防備な顔で氷菓を食べるのか」
「これは情報収集ですわ。街の菓子店の味を知らずして、民の暮らしを把握できるはずがありません」
「なるほど。では、情報が口元についている」
ノクス様は黒い手袋を外し、私の唇の端についた氷菓を指先でそっと拭った。
そして、そのまま何のためらいもなく舐め取る。
「……甘いな」
私の思考は、一瞬で停止した。
(こ、これが……黒公爵様の作戦会議……!)
心臓がうるさい。
氷菓を食べているはずなのに、頬だけが熱い。
私は慌てて視線を逸らし、沈みかける夕日を見つめた。
街角には、花売りの少女がいた。
白い花を抱え、柔らかな笑顔で客に花を差し出している。
その姿があまりにも穏やかで、あまりにも眩しくて。
気づけば、私はぽつりと呟いていた。
「私は、普通にも生きてみたい」
ノクス様が、わずかに目を細める。
「普通か。君の口から、その言葉が出るとは思わなかったな」
「……時折、憧れるのです。美しい令嬢のように、綺麗な花を摘んで、綺麗なドレスを着て、誰も傷つけず、誰にも恐れられず、ふわふわと笑って立ち回ることに」
言ってから、胸の奥が少しだけ痛んだ。
私はヴィオレーヌだ。
前世で愛した、気高く、美しく、断頭台の上でも微笑んだ悪役令嬢。
だから後悔してはいけない。
弱音を吐いてはいけない。
そう思っていたのに。
隣で、ノクス様が小さく息を漏らした。
「……ふ」
「ノクス様?」
「……くくっ」
肩が揺れている。
それから彼は、とうとう堪えきれなくなったように笑った。
「はははっ」
「ど、どうして笑うのですか! 私はかなり真剣に悩んでいるのですが!」
「いや、悪い。けれど、あまりにも君らしくない願いだったからな。花を摘んで、ふわふわと笑うヴィオレーヌか。想像しようとしたが、どうにも無理だった」
「……似合わない、ということですか?」
少しだけ、胸が沈む。
するとノクス様は笑みを消し、私を真っ直ぐに見た。
「違う。似合わないのではなく、足りないんだ」
「足りない、とは……どういう意味でしょう」
「君は花を摘んで笑うだけの女ではない。綺麗なドレスを着て、誰にも嫌われないように息をひそめるだけの女でもない。君の中にある美学は、そんな無害な幸福ひとつで揺らぐほど、安いものなのか?」
私は息を呑んだ。
ノクス様の声は、夕暮れの風より静かだった。
それなのに、断頭台の刃より深く胸に落ちてくる。
「花のように無害でなくていい。誰からも愛される可憐な令嬢でなくていい。君はただ、悪辣に、気高く、自信満々に、今までの君でいればいい」
ノクス様の黒い瞳が、夕暮れの中で静かに光る。
「その方が、ずっと美しい」
そして彼は、少しだけ低い声で続けた。
「それこそが、君だ」
胸の奥で、何かが音を立てて落ちた。
断頭台で首を差し出した時よりも。
エリル殿下に裏切られた時よりも。
ノクス様に買われた時よりも。
ずっと深く、ずっと静かに。
私は今日、彼に恋をした。
◇◆◇
恋をしたからといって、日々が急に甘くなるわけではない。
むしろ、私は以前より忙しくなった。
ノクス様は、王太子エリル殿下を追い詰める準備を進めていた。
王家の財政難。
ロズウェル商会との裏取引。
私を処刑することで、婚約破棄の責任をなかったことにしようとした証拠。
私が実際に王宮内へ人を配置していた事実まで利用し、すべてを【王家を食い潰す陰謀】に仕立て上げた記録。
細かい書類の山を前に、私は頭が痛くなった。
「ノクス様。これは悪事というより、地味な下準備ではありませんか?」
「悪事の大半は地味な下準備だ。派手に笑うだけで人を追い詰められるなら苦労はしない」
「夢がありませんわ」
「君はこういうものに夢を見すぎだ」
そう言いながらも、ノクス様は私の前へ温かい紅茶を置いてくれる。
「冷める前に飲め。毒婦でも書類仕事には糖分がいる」
「ノクス様は、私を甘やかしている自覚がありますか?」
「甘やかしてはいない。使える共犯を丁寧に磨いているだけだ」
「共犯に焼き菓子までつけるのですか?」
「私の共犯は待遇がいい」
私は笑ってしまった。
ノクス様は、それを見て少しだけ満足そうにする。
恋をしたせいだろうか。
彼の小さな変化に、いちいち気づいてしまう。
私が笑うと、彼の視線が柔らかくなること。
私が疲れると、彼の声が少し低くなること。
私が上手く笑えずに落ち込むと、彼が必ず「君らしかった」と返してくれること。
私はもう、断頭台の上で一人きりだったヴィオレーヌではない。
そう思うたびに、胸の奥が甘く痛んだ。
◇◆◇
反撃の日は、王宮の夜会に決まった。
エリル殿下とメリザ嬢の婚約披露を兼ねた、華やかな宴。
死んだはずの私が現れるには、これ以上ない舞台だった。
私は黒いドレスを選んだ。
喪服のようで、夜会服のようで、処刑台の影をそのまままとったようなドレス。
鏡の前で深呼吸していると、背後からノクス様が近づいてきた。
「よく似合っている」
「恐ろしく見えますか?」
「とても。今夜の君を見れば、王太子は悪夢を見るだろう」
「それは最高の褒め言葉ですわ」
私は微笑んだ。
ノクス様はその隣に立つ。
黒い礼服のせいで、彼の瞳はいっそう深く見えた。
「怖いか」
彼が尋ねた。
私は少し考えてから、正直に頷く。
「怖いです。私は断頭台で一度死んだはずなのに、また皆の前に立とうとしている。きっと罵られますし、笑われますし、エリル殿下は私を見て怒るでしょう」
「逃げるか」
「いいえ」
私は扇を開いた。
黒い扇の陰で、唇を吊り上げる。
「だって私は、ヴィオレーヌですもの。舞台が用意されているなら、最悪の登場をしてこそでしょう?」
ノクス様が、低く笑った。
「やはり君は、私が買って正解だった」
その言葉だけで、怖さが半分溶けた。
◇◆◇
夜会場に私が現れた瞬間、音楽が乱れた。
誰かがグラスを落とした。
悲鳴が上がる。
「ヴィオレーヌ……?」
「死んだはずでは……」
「黒公爵の隣にいるぞ……!」
私はゆっくりと会場を歩いた。
黒い扇を片手に、背筋を伸ばして、誰よりも堂々と。
隣にはノクス様がいる。
それだけで、もう何も怖くなかった。
正面の壇上では、エリル殿下が凍りついた顔をしていた。
その隣で、メリザ嬢が真っ青になっている。
「なぜ、お前がここにいる」
エリル殿下の声は震えていた。
私は優雅に膝を折る。
「ご機嫌よう、エリル殿下。処刑された女が夜会に現れるなんて、趣味の悪い余興でしょう?」
「黙れ! お前は罪人だ。もう貴族でも何でもない!」
「ええ、その通りです。ヴィオレーヌ・グリムハートは、あの日たしかに処刑されました。ですから今ここにいる私は、王太子殿下の元婚約者でも、グリムハート家の令嬢でもありません」
私はちらりとノクス様を見る。
彼は静かに微笑んだ。
「ここにいるのは、私が買った女だ。王太子殿下が一度捨てたものを、私が拾った。それだけの話だ」
会場がざわめく。
エリル殿下の顔が怒りで歪んだ。
「ふざけるな。そんな女に何の価値がある!」
「価値が分からないから、君は捨てたのだろう」
ノクス様の声は淡々としている。
それがかえって、刃のように鋭かった。
「では今夜は、君が捨てたものの価値を見せてやる」
ノクス様が指を鳴らした。
会場の扉が開く。
入ってきたのは、王太子派だったはずの貴族たち。
そして、青ざめた王宮書記官。
さらに、ロズウェル商会の金庫番だった。
彼らは震えながら、次々に証言を始めた。
王家の財を勝手に動かしていたこと。
ロズウェル商会から王太子個人へ、多額の金が流れていたこと。
私を処刑すれば、婚約破棄の賠償も、王太子の失態も、すべて消せると話していたこと。
そして、私が王宮内へ配置した者たちの名簿に、エリル殿下側が勝手に不正送金の記録を書き足していたこと。
エリル殿下が叫ぶ。
「嘘だ! 全て黒公爵のでっち上げだ!」
ノクス様は、つまらなそうに首を傾けた。
「でっち上げか。では、これは何だ?」
従者が銀盆を差し出した。
そこに乗っていたのは、一冊の帳簿。
エリル殿下の顔から、血の気が引いた。
「なぜ、それがここに……」
会場が静まり返る。
ノクス様が、薄く笑った。
「それが何か、分かるのか」
エリル殿下の唇が、ひくりと震えた。
メリザ嬢が、慌てて叫ぶ。
「わ、私は知りません! 私はただ、殿下から『ヴィオレーヌさえ消えれば、君が王太子妃だ』と……!」
言い終える前に、彼女は自分の口を押さえた。
遅い。
あまりにも、遅い。
会場中の視線が、エリル殿下とメリザ嬢に突き刺さった。
私は扇を閉じた。
「エリル殿下。私はたしかに優しい婚約者ではありませんでした。あなたに近づく令嬢を牽制し、社交界で敵を作り、王太子妃に相応しくあろうとして、多くの方に恐れられました」
会場が静まる。
「それだけではありません。あなたが王になった後、私が政務を握る準備をしていたことも事実です。あなたを飾りの王にするつもりだったと責められれば、否定はできません」
エリル殿下の目に、わずかな勝ち色が戻る。
私はその勝ち色ごと、踏み潰すように微笑んだ。
「けれど、私が欲しかったのは国の実権です。あなたが欲しかったのは、王冠につける値札だった。王家の財を奪ったのはあなたです。王太子妃の席をロズウェル商会へ売ろうとしたのもあなたです。自分の借金と裏切りまで、私に背負わせられると思わないでくださいませ」
エリル殿下が歯ぎしりする。
「お前は私の婚約者だった女だ! 私に逆らえる立場だと思うな!」
その瞬間。
ノクス様が、一歩前に出た。
空気が凍る。
彼の黒い瞳が、エリル殿下を冷たく見下ろした。
「貴様は要らない」
低い声だった。
けれど会場の隅まで、はっきり届いた。
「私とヴィオレーヌの世界にはな」
心臓が、大きく跳ねた。
私と、ヴィオレーヌの世界。
その言葉は、エリル殿下への断罪であると同時に、私への告白のように響いた。
エリル殿下が、怒りと屈辱で顔を歪める。
「黒公爵ごときが、王太子である私に――」
「その王太子という名を、今から処刑する」
ノクス様が告げた。
その夜、華やかな婚約披露の宴は、王太子エリルの断罪の場へと変わった。
◇◆◇
再び断頭台が用意されたのは、三日後の朝だった。
かつて私が立った場所に、今度はエリル殿下が立っていた。
ただし、首を落とすためではない。
彼が失うのは、命ではなく、王太子という名だった。
「やめろ! 私は王太子だぞ!」
エリル殿下が叫ぶ。
広場に集まった民衆は、以前とは違って静かだった。
誰も罵声を飛ばさない。
ただ、見ている。
自分たちを欺いた男が、何を失うのかを。
役人が罪状を読み上げる。
王家の財を私物化した罪。
実際の罪以上の罪状を私へ着せ、処刑によって婚約破棄の責任を隠そうとした罪。
王太子の地位を利用し、ロズウェル商会と不正な取引を行った罪。
メリザ嬢とロズウェル侯爵家も、すでに取り調べを受けている。
メリザ嬢は泣き崩れ、父親に責任を押しつけようとしたらしい。
けれど、金で王太子妃の座を買おうとした事実は消えない。
ロズウェル商会は王家との取引を停止され、侯爵家は王都から追放された。
甘い笑顔も、白いハンカチも、今度は誰も信じなかった。
私はノクス様の隣に立っていた。
黒いドレスを着て、背筋を伸ばして。
エリル殿下が私を見つけ、縋るように叫ぶ。
「ヴィオレーヌ! 助けろ! お前は私の婚約者だっただろう!」
私は扇を開き、微笑んだ。
「嫌ですわ、エリル殿下。私は処刑された女ですもの。死んだ婚約者に縋るなんて、ずいぶん趣味が悪いですわね」
ノクス様が、隣で小さく笑った。
「いい毒だ」
「ありがとうございます。練習の成果です」
エリル殿下の顔が絶望に染まる。
刃が落ちた。
首は落ちない。
けれど、王太子エリルという男は、その場で死んだ。
王位継承権。
王族としての名。
財産。
権力。
婚約。
誰かを見下ろすために使ってきた全て。
それらが、処刑台の上で切り落とされた。
役人が告げる。
「エリル・アルヴァーンは王籍を剥奪。以後、王族を名乗ることを禁ずる。身分なき罪人として、辺境の労役場へ送る」
エリル殿下だった男が、膝から崩れ落ちた。
「そんな……私は、王に……王になるはずだった……」
誰も答えない。
誰も手を差し伸べない。
かつて私から名を奪った男が、今度は自分の名を奪われている。
その光景は、ひどく静かで、ひどく美しかった。
ノクス様はゆっくりと処刑台へ近づき、彼を見下ろす。
そして、冷たく、美しく、悪趣味に微笑んだ。
「おめでとう。これで晴れて貴様も生まれ変われたな」
あの日、私は処刑されて自由になった。
今日、彼は処刑されて何者でもなくなった。
なんて皮肉で、なんて美しい幕引きだろう。
悪役令嬢として、少し感動してしまう。
◇◆◇
その日の夕暮れ。
私はまた、ノクス様と街を歩いていた。
作戦会議はもう終わったはずなのに、なぜか私の手にはまた氷菓がある。
「ノクス様。これは何の会議でしょうか」
「今後の方針についての重要な会議だ。君が次に何を食べたいか、決めておく必要がある」
「それは……たいへん重要ですわね。国家の未来に関わりますもの」
「少なくとも、私の機嫌には関わる」
私は笑った。
処刑台の上では、笑うことに必死だった。
悪役令嬢として、美しく笑わなければと自分に命じていた。
でも今は違う。
隣にノクス様がいる。
だから、自然に笑える。
「私、少しはあなたの隣に立つ女らしくなれたでしょうか」
そう尋ねると、ノクス様はしばらく黙った。
そして、ひどく意地悪な顔で言った。
「いいや。まだまだだな」
「なっ……! ここまで頑張った私に、あんまりなお言葉ではありませんか!」
「仕方ないだろう。君は毒婦らしく振る舞うたび、なぜか誰かを救っている。悪女としては致命的な欠陥だ」
「それは……結果的にそうなっただけです。私はきちんと恐れられるように振る舞っているつもりで」
「だから面白い」
ノクス様は足を止めた。
夕暮れの光が、彼のすみれ色の髪を淡く照らす。
黒い瞳が、私だけを映していた。
「君は悪女であろうとして、気高くなる。人を突き放そうとして、最後には拾ってしまう。断頭台で笑いながら、本当は誰よりも生きたがっていた」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「それが君だ、ヴィオレーヌ」
私は言葉を失った。
あの日と同じ言葉。
私が彼に恋をした時と同じ、何より深く私を肯定する言葉。
ノクス様は黒い手袋を外し、私の手を取った。
「私は、君のその悪辣さに興味を持った」
「……はい」
「だが今は、君の全部が欲しい。悪女であろうとするところも、普通に憧れるところも、震えながら笑うところも、氷菓を口元につけて平然としているところも、全部だ」
心臓が、うるさい。
私は断頭台でも泣かなかったのに、今は泣きそうだった。
「それは、私をまた買いたいという意味ですか?」
「いいや」
ノクス様は、私の指先へ唇を落とした。
処刑台の上で取られた手。
悪事の最中に震えを隠してくれた手。
夕暮れの街で、何度も隣を歩いた手。
その手を、彼は宝物みたいに持っている。
「今度は、君に選んでほしい」
私は息を呑んだ。
黒公爵ノクス・ヴェルグレイヴ。
原作では、私の遺品を買って去るだけだった不吉な脇役。
けれど今、彼は私の前に立ち、私の返事を待っている。
悪役令嬢は、断頭台の上でも美しくなければならない。
でも、恋をした悪役令嬢はどうすればいいのだろう。
少し迷ってから、私は扇を閉じた。
そして、最高に悪い笑みを浮かべる。
「ノクス様。私は一度、処刑された女です。家名も財産も社交界の席も失いました。そんな私を隣に置くなんて、きっと皆様はあなたをますます恐れるでしょうね」
「構わない」
「私も、あなたの隣にいれば、きっとまた多くの方に恐れられます。黒公爵に寄り添う毒婦だと噂されますわ」
「望むところだ」
「では、仕方ありませんね」
私は彼の手を握り返した。
「今度は、私が選びます。ノクス様、どうか私をあなたの隣に置いてください」
ノクス様の黒い瞳が、わずかに揺れた。
それから彼は、これまでで一番悪く、一番甘く笑った。
「君は本当に、私を退屈させない」
「それは褒め言葉ですか?」
「最大級のな」
彼が顔を近づける。
私は逃げなかった。
唇が触れる直前、ノクス様が低く囁く。
「ヴィオレーヌ。君はもう、断頭台で笑わなくていい」
「では、どこで笑えばよろしいのですか?」
「私の隣だ」
その言葉が、あまりにも自然に胸へ落ちた。
だから私は笑った。
少し悪く。
気高く。
自信満々に。
そしてたぶん、少しだけ幸せそうに。
触れた口づけは、氷菓よりずっと甘かった。
前世で読んだ小説に、こんな結末はなかった。
処刑されたはずの悪役令嬢が、黒公爵に買われる場面も。
悪事のつもりで誰かを救ってしまう日々も。
夕暮れの街で恋に落ちる瞬間も。
私を私のまま肯定してくれる人に、手を引かれて歩く未来も。
全部、原作にはなかった。
だからこれは、私だけの物語だ。
悪役令嬢は、悪役公爵に恋をする。
けれどそれは、前世で読んだ物語に書かれていた運命ではない。
私が、自分で選んだ結末だった。
お読みいただきありがとうございました。
原作小説では、ノクスはヴィオレーヌの処刑後に遺品を買い取って去るだけの脇役でした。
けれど今回は、遺品ではなく処刑そのものを買ってもらいました。
断頭台の上でも美しくあろうとしたヴィオレーヌと、そんな彼女をそのまま肯定する黒公爵のお話でした。
少しでも楽しんでいただけましたら嬉しいです。




